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KANDAルネッサンス 62号 (2002.07.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館22

銭湯画の元祖は神田だった——ろっくん・ろーる銭湯はどこへゆく

中西隆紀 

 今回、前半は講談仕立て。それでもって後半はというと、突然ノン・フィクションに早変わりという、何とも身勝手かつイレギュラーな組み合わせを何とかお許しいただきたいと思うのである。
 その主人公は苦田巻太(くだまきた)。彼の一日の「お疲れさん」、すなわち一日の締めは何をおいても風呂であった。本当は酒でクダを巻きたいのだが、ビール半杯で人格が豹変するというせつない遺伝的素子を多分に受け継いでしまったのだから、残るは風呂で六根清浄、疲れを鎮めるしかないのである。
 これで世の中の垢「すべてを水に流す」。酒は大ウソを付くが、風呂はウソというものを知らない。それ程に純潔なのである。酒にするか風呂にするか、あれだこれだ、何だ神田と迷っているほど人生は長くないのだ。こうした些末な世間ごとは遅くとも30になれば知るべきなのである。これが彼のささやかな唯一無二の信条となっていたのだが、ちなみに彼はその30をとうの昔に四捨五入する年になっていた。
「へらず口の金権カカアや鼻たれの新人脳天気野郎、理屈でウンコするような上司」。湯気を愛でているだけで、このような迷フレーズが次から次へと湧いて出てくる。
 このように、長風呂は効験あらたかなものがあり、普段整理できずにいるこうしたうっ憤がいったいどこからもたらされたものであるか、こうした沈着冷静な自他分析を、たったのワンフレーズで喝破し、さらに主婦が洗濯物を取り入れ、爺ちゃんや子供にすばやくパンパースを履かせるようなあざやかさで、立ち所に整理してくれるという何とも有り難い功徳を感じさせてくれるのであった。
 そうした言葉にならないものが言葉になる。こうした喜びは五里霧中、湯気の効果実に大と言わねばならない。こんな言葉が次から次へと湧いてくる、その舞台がたまたま湯船及びトイレという純正個室であっただけだ。だから、一概に彼を「うち弁慶」的陰湿漢と決めつけるわけにはいかないだろう。強いて言うなら「うち風呂派」といった類に分類、お留めいただきたいと思うのである。

 しかし確かに昼間の彼はというと、相手を罵倒したい場面に遭遇したとしても、俺はそうした言葉にまったく縁がないとばかり、独り納得してしまうのだから情けない。慌ててののしる言葉というものをさがすのだが、グーと腹に収める音が妙な音程で響くだけだ。
 そうして満員電車に揺られ帰宅する。すると、彼は突然豹変する。狭い家庭の純正個室、風呂場に入ったとたん、ひとり彼は罵倒の詩人と化すのであった。
「へらず口の金権カカアや鼻たれの新人脳天気野郎、理屈でウンコするような上司」、やつらは、皆、あちらへとっとと消えてもらう。しかもだな、あちら、こちらへお引き取り願うといっても奥の間じゃない。奥も奥の下水管だ。これでもってすべてを水に流してやろうってんだから、速い流れの、濁流の激流の爆流に、イカダだってタコだって自分が流れるだけで手いっぱい、足いっぱいでもって合計八本。軟体動物の宿命っていうのは、そうじゃねえか。そう簡単に、助け船お願いしますと言われても、御免なさいで済めば婦人警官が主婦になった時程恐いものはないってもんだろ。肥り過ぎてて腹が引っかかるとほざくのなら、上品な賽の目にして星屑の夜空に叩き出してやってもいい。どうだ、さっぱりしてて奇麗だろ。いずれにしても、雑魚は星屑、さっさと消えちまいな。
 こっちは風呂で忙しい。実はお前らにかまってやってるヒマはねえ。西洋人じゃあないんだから風呂はヤッパ、あごのエラ辺りまで浸からないと入った気がしないというケチな性分。これは、持って生まれたもんだからすべて親のせいに間違いはない。「狭いながらも楽しい我が家〜」なんて歌があった。だからよ、風呂は狭くてもいい、なんて巻太、負け惜しみを言っていると、その通り、上を見上げたまではいいが、天井のしみからポツリ汚ねえ大粒がひとつ落ち、巻太のつぶらな瞳と仲良くなりそうになって、それで「うっ」と思い出すのであった。

 そうだ、明日は銭湯行こ。と、珍しく巻太は明日のことを考えた。
 こうして苦田君は神田の銭湯に繰り出すことになったのだが、別に神田という街が苦田巻太という素寒貧(すかんぴん)を待望していたわけではない。しかし、やはり神田を素通りするというわけにもいかない。そういう男をも受け入れるというところに神田の懐の深さというものがあったのであった。
 昔は各町内に一つといってもいい程に、銭湯が方々にあった。立ち上る煙と煙突が町会のランドマークであり、書院造り唐破風の威勢のいい大屋根を見ているだけで、毎日が祭りのような気分にさせてくれたものだ。それらは夕方、遊び疲れた子供が散り散りになるように消えていった。三省堂がまだ二階建てで横にパーラーが付いていた頃だって、まだ小川町には稲川楼があったし、神保町にはみなと湯があった。そして今、広い千代田区でたったの4軒になってしまったことに改めて気が付くのである。その内、神田には3軒。さて、その現在の貴重な存在を列挙すると

 神田では
 梅の湯(神田神保町2-8)日曜休み
 稲荷湯(内神田1-7-3)日曜休み
 お玉湯(岩本町2-2-14)土曜休み

 麹町では
 バン・ドーシュ(麹町1-5-4)日・祝休み

とあって、日曜休みというのが昔と違い実に現代的だ。しかも最近は泡のマッサージってやつが店の売りになっている。最も新しい「梅の湯」などはビルの中にあって、電気風呂にやはり人気のバブルが付いている。
 苦田巻太はここへ来て、世の中の垢のことを考えるのを止めた。水に流すのは水だけにした。銭湯空間はなにしろ広い。こういう空間でバブルにまみれていると、カカアも上司も青二才もたいした問題ではない。これは大空間の大風呂敷き効果というべきであろうか。すべてに鷹揚な人間は、大空間で自分の極小であることを楽しむのである。

 何時か、一家をあげて箱根の風呂に繰り出したことがあった。というのは、この何年、いやこの十何年、世間の親が当然としていることを自慢じゃないが彼は何もやっていないに等しい。いや、等しいんじゃなくて、やっていない。ここ「ユネッサンス」は後楽園ドームの3倍の敷地に何と風呂が百あまり、ジャグジーもあれば、滝壷もある。上から湯が降ってくれば、死海の体が浮いてしまう風呂まである。例えて言えば、巨大デパートで売っている商品のすべてが風呂みたいなものだ。これがバラエティになっていて、歩いても歩いても風呂に行き当たるテーマパークになっている。したがって裸で食事もアイスクリームもOK。
 これを都会のデパートに置き換えてみたい。または、北の丸公園の葱坊主を取っ払って巨大風呂を建ててみたい。デパート方式にすると、香水売り場も風呂、婦人服売場も風呂、玩具売場も風呂、とすると受付嬢は番台ということになる。そして屋上は当然混浴露天風呂。ジェットストリームの調べにのって、都会の夜景があり、夜空の星を仰ぐ至福のひとときが待っている。
 こうした銭湯テーマパークは都会人のあこがれであるが、何といっても癒し系で重要なのは窓外の風景といえるだろう。やはり天井の高さだけでは満足できない。この巨大空間を独占し、かつ窓外に延々と広がる大自然を望みたい。これが都会のぜいたくの極みというものだろう。
 
 神田猿楽町でこれをやった男がいた。
 そして、この事実を発見したのは銭湯評論家の町田忍さんである。
 大正元年、画家川越広四郎は猿楽町の銭湯の前に立っていた。「キカイ湯」(明治17年〜昭和46年)である。
 当時、汽船で使われていた「キカイ釜」を風呂用に転用したらしい。ここから取った一風変わったネーミングであった。
 そうだ、ここに富士山を描いてみよう。実はこれが富士山であったかどうかは不明なのだが、後に猿楽町から始まったペンキ画はまたたく間に全国銭湯に広まっていった。
 先日、三鷹で「銭湯画展」があるとの平野ゆり情報を得て、先日行ってきたのだが、ここに川越広四郎が実際にたずさわった次のような浴場は背景画の目録が展示されていた。
 
 大正十二年四月「浴場背景揮毫控」巴弘告社
 「大黒湯 神田美土代町一
  権現湯 神田岩井町一七
  亀ノ湯 神田亀住町
  柏湯  神田堅大工町
  松の湯 神田五軒町
 (巴弘告社は現在の(株)TOMOE)

 当時はこんな状況だから、各町会ごとに一銭湯、おそらく祭りの神輿の数と同じくらい街には銭湯があり、大正末年頃にはほぼどの銭湯にも趣向をこらしたペンキ大画面が浴槽背景を席捲していたのである。
 常に擬似的であろうが、大都会はかくのごとく大自然に懸想し続けていた。




中西隆紀  フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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