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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第9回 株式会社豊島屋本店

お話:15代目 吉村隆之さん(記事公開日:2011年10月17日、文:亀井紀人)

■初代 豊島屋十右衛門

 創業は慶長元年(1596)、関が原の戦の4年前、関東に国替えになった家康が江戸城の拡張工事のために、鎌倉から大量の材木や石材を運びました。その荷揚げ場になっていた現在の神田橋近くの鎌倉河岸で、初代豊島屋十右衛門が酒屋兼飲み屋を開いたのが始まりです。屋号の豊島屋は、地名の豊島郡(としまごおり)柴崎村から付けられました。
 十右衛門は商才に長けた人物で、灘、伏見から仕入れてきた上質な酒を原価で売りました。酒の販売では儲けず、様々な用途に使える酒の空き樽を売ることによって、利益を得たのです。また、酒の引き立て役として、豆腐に辛目の味噌を乗せた味噌田楽を提供することで、安く酒は飲めるし田楽も美味いと評判を呼び、店は一層繁盛しました。
 3月の雛祭りに欠かせない白酒を考案し、広めたのも十右衛門の功績です。「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」といわれたほど、白酒は一世を風靡し、江戸の名所を紹介した「江戸名所図会」(天保6〜7年刊)では、白酒を売る期間は「酒、醤油の販売は休み」と書いた看板が立ち、殺到する客が怪我をしたときに備え、やぐらを設けて医者を待機させていたという当時の豊島屋の繁盛振りが描かれています。
 豊島屋の隆盛は酒屋のみならず樽問屋、醤油酢問屋、それに一族が下り傘問屋、畳表問屋、瀬戸物問屋、筵縄(はえなわ)問屋等を開きましたので、鎌倉河岸が豊島河岸と呼ばれるほどとなりました。
【『江戸名所図会 鎌倉町豊島屋酒店白酒を商う図』(豊島屋本店所蔵)】
 2月末、店頭で雛祭りの白酒を買う大勢のお客で賑わう様子が描かれています。
【明樽問屋、醤油酢問屋】
 いずれも「鎌倉町十組鎌倉町豊島屋十右衛門」とある(『江戸買物独案内』文政7年刊 豊島屋本店所蔵)

■12代目 吉村政次郎(~昭和33年[1958])

 豊島屋の繁栄は、明治維新で暗転しました。徳川家の御用達にもなっていた家業でしたが、後払いの掛売りをしていた武士が職を失い平民となり、入金が途絶えてしまったことで、豊島屋は苦境に陥りました。その時12代目政次郎は、確実な販路を求めんと、店の扱い商品である醤油とみりんが欠かせない蕎麦店に、それを酒と合わせて売り込みました。大八車に醤油やみりんを積んで、東京中の蕎麦店を一軒一軒廻って開拓したのです。この時の政次郎の成果は、現在でも東京の半数近くの蕎麦店と取引を頂いていることで実証されています。
 また、政次郎は自社製品の開発にも力を注ぎ、自ら関西に出向いて灘と京都の酒屋とで三栄合名会社を創り、これより現在まで酒の主軸となるブランド「清酒金婚」の醸造を始めました。この時生まれた豊島屋を代表するブランド「金婚正宗」は、全国の新酒鑑評会で何度も金賞を受賞している清酒ですが、大正9年に明治神宮が造営された時から御献酒し、その後神田神社、日枝神社にも御献酒しています。その当時大正天皇の御成婚があり、50年先の金婚式まで幾久しくの願いを込めたのが金婚の名の由来です。
 昭和初期には、製品をいち早く届けられるよう、都下の東村山に蔵をつくりました。(豊島屋酒造(株))
 政次郎の蕎麦店への販路開拓によって敷かれたレールと、金婚と名づけられた東京の銘酒を開発したという2本のレールは、今も15代目の私と16代目の長男にもしっかりと受け継がれています。政次郎は、まさに豊島屋本店の中興の祖といえましょう。
【12代目 中興の祖・政次郎の肖像画】
【清酒金婚】
 

■13代目・孝一郎(昭和33年[1958]~)

 江戸、明治と三百年以上に亘って鎌倉河岸で営業を続けた店は関東大震災で被災し、12代目の政次郎の時神田美土代町へ移りました。後を継いだ13代目の孝一郎は学者肌で、農大で教鞭を執っていたとも聞いています。身体が弱かったこともあり、商売の実務は14代目となる忠吉に任せていました。カメラと星座観察が好きで、望遠鏡で星座を見ては、私共子どもに星座の話を聞かせてくれる優しい祖父でした。
【13代目孝一郎のポートレート】
【関東大震災後12代、13代、14代と戦災まで3代の本拠地となった美土代の店】
 昭和初期、正月の初荷風景。運搬は馬車だった。

■14代目 忠吉(昭和50年[1975]~)

 父忠吉は、昭和の初期に安田銀行から家業に移り、13代目と一緒に経営に携わります。太平洋戦争の勃発と共に、戦時中酒は配給制となり、忠吉はしばらくの間、酒類の統制機関((株)日酒販の前身)に身をおいて中野で出張所長をやっていましたが、終戦後、豊島屋本店に戻りました。
 昭和19年(1944)11月29日東京で初めての大空襲で美土代の建物が消失し、終戦になると美土代町一帯がGHQのモータープールになり、店を開けなくなりました。そのため土地を所有していた猿楽町に、新たに木造2階建ての酒屋を開きました。店は12代目からの基盤に支えられ、26年後の昭和46年には、鉄筋7階建てのビルに建替えられます。その時、指揮を執ったのが父でした。
【昭和40年頃、正月、猿楽町本店前にて】
 上段中央が忠吉
【戦後猿楽町に建てられた、木造による看板建築の豊島屋本店全景(写真は昭和40年頃)】
 

■15代目 隆之(昭和55年[1980]~)

 安田銀行勤めの後店を継いだ父にあやかり、私も40歳近くまで工学博士として化学の研究をして過ごし、その後店を継ぎました。
 実は16代目となった長男、俊之も工学博士で、日立製作所の中央研究所で半導体の研究者から外資系コンサルティング会社を経て、やはり40歳を越えてから店を継いでいます。三代続いて異業種に身を置いてから代を継ぐケースは珍しいかも知れませんが、三人とも業界の既成の価値観に捉われずにいられた事は、良い事ではないかと思います。
 豊島屋には初代十右衛門の時から、代々400年以上受け継がれてきた、以下の商いの心得があります。
一・お客様第一  
一・信用第一
 代々実践されてきたこととして、不易流行「守るべきもの(不易)は頑なに守り、変えるべきもの(流行)は大胆に変える」があります。これはお客様への「信用、信頼」を第一にすることを守り、暖簾を大切にしつつ、時代の流れに乗り遅れないよう「売り方、商品構成」などを変化させていくことです。
 私の代での実践としては、業務用のPB(プライベートブランド)開発や、蕎麦店向けに、色が濃く塩分控えめのカレーの商品開発など多数あります。
 商いの心得の教えは、現社長の俊之が当社の社員一人一人の共通理念として持ってもらおうと、「お客様本位、信用・信頼、不易流行」等の言葉を記したカードをつくり、社員全員に携行させるようにしています。
【昭和46年に14代目忠吉によって建てられた豊島屋本店】
 現在このビルは15代目、16代目と受け継がれ、活用されている。
【15代目 隆之ポートレート】
 

■16代目 俊之(平成18年[2006]~)

 俊之が会社を継いでから、創業者の名を冠した純米無濾過原酒「十右衛門」「純米大吟醸銀婚」などを、蔵との共同で開発しました。
 また蕎麦店向けの酒「蕎麦前」は、東京都麺類協同組合の西部麺業会との共同開発で生まれ、羽田空港の売店で買える「純米吟醸羽田」は、地域限定酒として蒲田地域の酒販組合と共同で生み出されました。
 新しい販路の開拓として、インターネットでの販売も始めています。海外への販路や、新たな日本酒の可能性も探っています。
 代々受け継がれてきた心得を守り、創業五百年を迎えられるような事業基盤を築いて、次の世代へとバトンを渡してゆくことが、自分の使命であると俊之は言ってくれています。
【左から16代目俊之、15代目隆之】
●株式会社豊島屋本店
東京都千代田区猿楽町1-5-1
電話:03-3293-9111
http://www.toshimaya.co.jp/

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