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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第53回 合名会社一誠堂書店

お話:3代目 酒井 健彦さん(記事公開日:2020年9月30日、文:竹田令二)

■はじめに

 ――和書を中心に神保町で一時代を築いた「一誠堂」、名家や、研究者、コレクターの間で「蔵書」という名の文化資産を眠らせず、リサイクルさせて時代を築いた。
【一誠堂書店のロゴ】

■初代 酒井 宇吉 1(明治20[1887]年 生~昭和15[1940]年 没)

 祖父です。早く亡くなったので私は顔を知りません。新潟県長岡市の生まれで、7人兄弟の四男です。上京し、博文館で働いていた兄・福次を頼り、博文館の系列の東京堂に入りました。4年間で仕事を覚え、福次とともに長岡に戻り、貸本屋・雑誌文具の取次の「酒井書店」を始めました。一誠堂書店の出発点です。3年後の明治39[1906]年に2人で再上京し神田に店を構え、当初は新本・雑誌を扱いましたが、うまくいかず、古本に切り替えました。その後弟の五男・助治も加わり、軌道に乗りました。
 兄弟7人のうち、長男・嘉四郎は長岡で酒井書店を、三男・福次はのちに神田で芳文堂を、助治も十字屋書店を興し、七男・嘉七も助治没後を継ぎ、六男・善吉も書店経営するなどみな書店業に従事しました。実家は畳屋で、活字と深い関係はなかったのですが、新潟は教育熱心な土地だったこともあるのでしょうか。“貧乏人の子沢山”で口減らしもあったのではないかとも思いますが。
 大正2[1913]年2月に、神田三崎町の救世軍から出火、「酒井書店」はもちろん神田古書店街は焼け野原になりました。でも初代は間もなく文京区本郷の中華料理店に床店を借り商売再開、5月には現在地に新店舗「一誠堂」を開きました。翌3年は第1次世界大戦の勃発した年ですが、戦争景気で図書館、学校、企業などの図書大量購入で、古書業界は大忙しとなり、一誠堂も「箪笥の底から思わぬ金儲け」とのチラシをまき、古書購入にまい進です。この年に父が生まれました。
 しかし大正12[1923]年9月1日に関東大震災が起き、またも焼け野原になりました。一誠堂の家族は上野公園で夜を明かし、9月5日に長岡にたどり着きます。初代は単独ですぐに東京に戻り、被災後16日にはテント張りの店を作り一番乗りで営業を再開しました。さらに長岡から大工を呼び寄せ、突貫工事で10月には木造の店舗を完成させています。8年後の昭和6[1931]年には現在の地上4階地下1階のビルに建て替えました。基礎には松杭を沢山使ってあります。今、店の入り口は歩道から1段高くなっていますが、以前は、道路面と同じ高さでした。靖国通りで都営新宿線の工事が行われ、地盤沈下が起きたのです。うちは杭がしっかりしていたので、店が浮き上がる形になり、都に店前に段を追加させ現在の形となりました。
 ビル化には2回の火災被害の記憶がありました。社長室の扉は延焼を防ぐため、一見木製に見えますが、鋼板を張り付け、木調に見えるよう塗装しています。ビルの角の石のカーブは「今の職人にはできない」と言われるなど、洒落ています。当時は周りに高い建物もなく、展望もよく、『高層ビル』とも言われました。屋上には茶室も作り、樹木も植えるなど、“屋上緑化の先駆け”です。父の時代には手入れが行き届かず、茶室も朽ちて撤去しましたが、最近私が趣味を兼ね、実生の木々を植えて楽しんでいます。
【宇吉氏と神田の大火後の店舗(大正2年)】
【昭和6[1931]年に建てた現在の店舗(左)。社長室の扉は耐火のため鋼板を貼り付けたものを使用し、木製に見えるよう塗装している(右上)。地下鉄工事の地盤沈下で追加された段(右下)】

■初代 酒井 宇吉 2

 店の「一誠堂」の看板は徳富蘇峰の書です。ビル落成の際にも祝辞をいただいています。祖父はいろいろな方とお付き合いが上手だったようです。関東大震災後の復興とともに官庁、学校、図書館からの注文が古本業者に殺到し、古本ブームが到来しました。華族や大名家、コレクターなどから古書を購入し大学、図書館などに収めました。「買立」と「売立」です。店売りよりこちらが主体でした。大正14[1925]年には取り扱い図書を載せた写真入り、約850ページの『一誠堂古書籍目録』を出し好評を得ました。
 昭和3[1928]年には海外への営業を広げます。台湾、朝鮮、中国の大学などへ納本しています。また、英文の目録『日本名著百種』を発行し欧米の大学、博物館などに送ってもいます。
 祖父の物おじしない性格を伝えるエピソードがあります。昭和9[1934]年のことです。懇意にしていただいていた徳富蘇峰氏が秘蔵していた『勅版日本書紀』を復刻し、主な神社に奉納しただけでなく、前年に首相に就任したドイツのヒトラーに、鉄製の卍形鍔を添えて贈呈しました。面識などありませんが、大胆です。ヒトラーからは礼状が届きました。
 昭和12[1937]年には経営形態を合名会社に改めました。祖父は体が丈夫なのを誇っていましたが、昭和15[1940]年8月19日に急逝しました。心臓喘息との診断で入院、回復に向かって明日退院という前日のことでした。私の生まれる前のことで、一度もお会いできませんでしたけれど、志が大きく、視野の広い人だったと思います。
 雑誌の取材に「〇〇円で仕入れ、〇倍儲かりました」なんて平気でしゃべったり、「損しないと(仕事を)覚えない」と、社員が買い入れた古書が売れず損を出したりしても、きちんとやったものなら大目に見ました。自分でも損を出しても「次は取り戻すぞ」と前向きでした。
【大正14年発行の『一誠堂古書籍目録』(左)。昭和8[1933]年に日本橋三越で開催した創業30周年記念展の様子、中央の人物が宇吉氏(右)】
【ヒトラーに送った『勅版日本書記』と卍型鍔(左)と礼状(右)。初代の豪胆さを表すエピソードである】

■2代目 酒井 宇吉(賢一郎)(大正3[1914]年 生~平成18[2006]年 没)

 東京府立一中(現・都立日比谷高校)を飛び級で、東京商科大(現・一橋大学)に進みましたが体調を崩し、中退。古典の研究などする傍ら、店を手伝っていました。祖父の急逝で2代目宇吉を引継ぎました。急なことで、苦労したと思います。当時は独身で、昭和20[1945]年1月に、寺岡まち子と結婚しました。空襲が激しくなっても店は開き続けました。疎開する人たちからの蔵書の売り込みがありましたが、この時期、売るだけにしました。4月に母・キク、妻・まち子、妹・豊野をまち子の郷里の栃木県佐野市に疎開させましたが、古書街の中心地域は戦火を逃れました。戦時中は、店員の多くが兵隊にとられて、店は母のキクと妻、妹で持ちこたえていました。戦後は店員たちが次々に復員してきて、働いてくれました。
 翌21[1946]年に私が生まれました。
 戦後は占領軍による財閥解体、農地解放、華族制度廃止などで、名家から蔵書が大量に出てきたものの、公職追放などで、買い手も不安定で、売り先を見つけるのに苦労したようです。
 父は躁鬱気質で、鬱になると店に出てこないし、ハイの時はふらりと旅に出て、旅先で次々に本を仕入れて、送ってきます。その仕分けをするのが大変でした。そうでないときはきちんとした仕事をしていました。古典ものが好きで、平安時代の古筆の断簡を丁寧に集めるなどいいものを買っていました。父も祖父の人脈を引き継いでいました。
 父の存命中に社長就任の話がありましたが、「存命中は受けない」と長い間専務のままでおり、平成18[2006]年に社長を引継ぎました。私が社長になっても、父の指令系統が残り、指示が矛盾したりすることを恐れたからです。
 父の弟の正敏は復員後店を手伝っていましたが、昭和23[1948]年に新刊書を扱う「書泉」を創業しています。
【2代目 宇吉(賢一郎)氏と母(初代の妻)のキク氏】
【昭和28[1953]年に発足した「貴重古典籍刊行会」結成の席。後列左から酒井まち子夫人、2代目宇吉氏】

■3代目 酒井 健彦(昭和21[1946]年 生~ )

 店に入ったのは昭和46[1971]年、24歳の時です。慶応大学文学部を卒業後、付属研究所の斯道文庫に2年ほどいました。大学の卒論は「五山版の研究」、京都や鎌倉の五山で出版された仏典、漢籍などの形態などの書誌学的研究でした。指導してくれた先生が店のお客様でした。授業をさぼって麻雀などをしていた先生たちもお客様だったりして、店に入ってから、申し訳なかったと思いました。
 昭和55[1980]年にはアメリカのタトル書店のタトル氏から日本の書物でいいものがあるという情報で、店員とともに訪ねました。タトル氏が戦後すぐに日本で買い集めた『質問本草』『大雅堂画譜』『北蝦夷図説』などの良書があり、段ボール箱200個以上を購入しました。
 お客様は研究者の方が多く、オリエント学者の故三笠宮様もよく店においでくださいました。2階の洋書部です。そんなご縁で、創業100周年の『古書肆100年 一誠堂』(平成16[2004]年12月刊)にも文章を寄せていただいています。作家の松本清張さんもご贔屓にしていただきました。没後蔵書の評価をさせていただき、蔵書は松本清張記念館に移譲されました。
 昨年(2019年)11月に亡くなった九州大名誉教授で、和書数万冊の蔵書をお持ちになった中野三敏先生もよくおいでになりました。和書を中心にした数万冊の蔵書にはうちからで買っていただいた本もあったと思います。
 大学の先生方は掛け売りが多く、支払いが滞って、お願いの手紙を出したこともありました。
 経営形態は「合名会社」のままです。父の時代に、一時期「株式会社」化も検討し、受け皿となる組織も作りましたが、いざとなるといろいろ大変で、業績が上向きの時代ならともかく、そこまで手間暇をかけることはないと、断念しました。
 古書、古本業界は「絶滅危惧種」かもしれません。そうならないようにどうするか、対策を考えないといけません。ネット販売にも取り組んでいますが、幅が広がりません。従業員を採用する基準は「自分の考えを持っている人」ですかね。現在16人います。各地にいる一誠堂出身者は年に一度集まります。高齢化で集まる人数は年々減ってはおりますが、結束は固いと思います。
 
【3代目 健彦氏】
【健彦氏と米・タトル書店のタトル夫妻】
●合名会社一誠堂書店
千代田区神田神保町1-7
電  話:03-3292-0071
営業時間:平日 10:00~18:30、祝祭日 10:30~18:00、日曜休
https://www.isseido-books.co.jp/

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