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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第47回 株式会社三省堂書店

お話:4代目 亀井 忠雄さん (記事公開日:2017年5月8日、文:竹田令二)

■はじめに

――中学の時だったか、英和辞典を買うか、買った時だったか、父に「『三省堂のコンサイス』が一番うまい」と言われたことがあります。「???」、わからないでいると、「煙草を巻くのに一番良かった」と。戦後物がない時代、煙草を巻く紙も身近なものを使った中で、一番だったのだそうです。残念ながら煙草と縁のない人生を送ってしまったので、その味のほどはわからないのですが、「辞書の三省堂」の歴史が深く関わっていたとのことです。
【「吾日三省吾身」の書】

■創業者 亀井 忠一(明治14[1881]年就任~大正4[1915]年退任)

 直参旗本中川家の5男で、同じ旗本の亀井家に婿入りしました。亀井家屋敷は今の明治大学から山の上ホテルのあたりにありました。しかし幕府の大政奉還で静岡に隠棲した慶喜公について、中川家の一族とともに静岡・沼津に下ります。沼津では野菜作りなどをして糊口をしのいでいたようですが、明治6[1873]年、東京に戻り仕事を探します。麹町で下駄商を営んでいた中川家の次兄が古書店に転じた後を受け、下駄商「履物の亀井」になります。商才に加え、勤勉と親切で成功するのですが、明治14[1881]年の四谷の大火で類焼してしまいます。次兄のもとに身を寄せ、再起を目指しますが、妻萬喜子と相談、「下駄商では得意先が限られる。本屋はいい本を作って世に出せば自分のためにも、世の中のためにも役に立つ」と「良書を出す」ことを目指し、約1か月半後に“故郷”の駿河台下から神保町入り口の現在地に住居付きの「三省堂」を構えます。屋号は論語の「吾日三省吾身」から採っています。
 再起がうまくいったのは、一族や親戚、また、仲間の同業者たちの支援があったようです。忠一は早くから出版も目指しており、その際、資本がないため、同業者たちで同盟四書房を作り、次々に出版に挑戦しています。当時は授業も原語のため欧米の教科書の需要が旺盛で、その翻訳・翻刻ものを出版したのです。著作権なんてものがうるさくなかった時代です。
 三省堂は4回、ほぼ10年一回の割合で火災に遭いました。最初が四谷の履物時代、2回目が明治25[1892]年の神田の大火で全焼し、再起に際し古本業を中止し、新本業となりました。3回目が大正2[1913]年の2回目の神田の大火で、この時は教材器具を扱っていた標本器具部が焼けてのちに廃止となってしまいましたが、本屋は無事でした。4回目が大正12[1923]年の関東大震災で、当時の社屋は全焼し一時休業になりましたが、その後土地を広げ新社屋を建てています。
「辞書の三省堂」と評価いただいていますが、明治17[1884]年に「英和袖珍字彙」(語数約3万語、686ページ)を同盟4社で出版しています。外国語については萬喜子夫人が最初ドイツ語を習っていたのですが、学校の授業を覗き、英語が圧倒的に多く使われていることを知って、「これからは英語」と判断したようです。それが今日までつながっています。萬喜子夫人の内助の功は三省堂の歴史に欠かせません。
 一方、忠一は商才があり、辞書に使う紙の研究を王子製紙と共同で進め、大正11[1922]年に薄くて裏に透き通らないインディアン紙の開発に成功します。辞書の小型化、軽量化に結び付きました。昭和15[1940]年まで三省堂にだけ納入されました。
 この紙はまた、煙草を巻くのによかったのです。私の父辰朗は、インドネシアのスマトラに出征する際辞書を何冊が持って行ったのですが、帰ってきたとき厚さが3分の2くらいになっていました。煙草の煙と消えたのです。
 明治22[1889]年にチャールス・スミスの「代数学教科書」の翻訳本を出版、ヒットしました。その後、明治24[1891]年末に国史、外国地理、外国歴史の教科書を完成させ、教科書分野へ進出していきます。
 忠一はさらに日本初の百科事典「日本百科大辞典」の出版を考えます。当初は1巻で完結する予定でしたが、徐々に構想はふくらみ、明治41[1908]年2月の第1巻が発行されたときには、全6巻、索引1巻の予定になりました。しかも、1巻が出ると予想外の好評で「徹底的に充実した百科事典を」との要望を受け、さらに拡大していったのです。刊行に当たっては東京専門学校(現早稲田大学)創設者の大隈重信総長を編集総裁に迎えています。
 しかし、規模を大きくすればするほどお金がかかるのは当然です。色つきの絵も多用していましたし、印刷も製本もすべて自前の事業でした。
 国語学者の金田一京助先生から「あなたのひいおじいさんには世話になった」と話を聞いたことがあります。書生でアルバイトとして加わったとき「中国に行って将棋について徹底的に調べてきてほしい」と言われ、3ヵ月をかけ、朝鮮半島、中国を回ってきたという話でした。以来、金田一先生が三省堂の国語辞典編纂に携わるようになったのです。
 百科事典は大正元[1912]年に第6巻が発行されましたが、ついに資金が付き、忠一は続刊を断念します。世にいう「三省堂の百科倒産」です。しかし、中断を惜しみ、各界から手が差し伸べられ、「日本百科大辞典完成会」が結成され、大正8[1919]年に全10巻が完成しました。
 この倒産で忠一は退きます。2人の息子、長男寅雄は帝大経済学部生、次男豊治は慶應義塾在学中でしたが、寅雄は学業継続、豊治が中退し、店を引き継ぎました。大正4[1915]年になり、出版と印刷の二部門が分離され、「株式会社三省堂」となります。出版は百科事典刊行でわかるように資金がかかり、経営リスクが大きいからです。とはいっても事務所は店の2階でした。残った小売部門「三省堂書店」は新本の小売り専業となり、豊治が店主となりました。
【画像上:忠一氏、萬喜子夫人、画像下:創業当時の店の風景】
【画像上:煙草巻き器とパイプ、画像下:「日本百科大辞典」、色付き図版】

■初代 亀井 寅雄(昭和3[1928]年就任~昭和16[1941]年退任)

 優秀な人でした。大正5[1916]年に帝国大学を卒業し、株式会社三省堂(出版部)に入り常務、専務を経て、昭和3[1928]年に三省堂書店(小売り部)が株式会社化されると、その初代社長に就任しました。豊治は常務取締役に就きました。「亀井兄弟」の時代です。
 店舗も隣接地を借り拡大、木造3階建て、延べ3960平方メートルの新社屋の建設に取り掛かりました。翌年11月に靖国通りすずらん通りの双方に面した社屋が完成しました。本はもちろん、学生さん相手の品物を集めた「学生のデパート」です。扱ったのは、文房具はもちろん、電気器具、タバコ、薬、石鹸、化粧品、時計、運動具、洋服、制服、洋品、帽子、手芸品、婦人用品、靴など。写真部、食堂なども作りました。寅雄には「本屋の感覚でこれらの品々を扱うとどうなるか」という思いがあったそうです。
 今も本店には雑貨売り場があり、それも含め都内中心に10店ほど出店していますが、業者さんから「置いてほしい」と申し込まれている店ばかりです。「本屋の感覚」が今も効果を発しているのかもしれません。
 寅雄は人材を重視しました。「ヒト・モノ・カネ・ノウハウ」などの資源を活用していくよう絶えずうるさく言っていたようです。社員の質的資源をどう向上させるかを意識的にやってきたのです。
「学生のデパート」のスタートとともに宣伝にも力を入れました。学生対象のPR誌発行、映画女優のサイン会、オリンピックや選挙の速報版、夏場の海水浴場にサマーストア(いわゆる海の家)を設置して「学生ストア」のPR、アドバルーンや空中ビラまきなどなど。これらの中でも学校の校章を組みあわせた包装紙は大ヒットで、載らなかった学校から文句が出たほどでした。また、昭和12[1937]年、出版物の関係もあり、三重苦を克服したヘレン・ケラー女史が三省堂を訪問してくれました。こういった宣伝活動から、大学・官庁売店などの出店も実現しました。
 昭和16年[1941]年に寅雄は社長を退き、会長に就任しました。
【寅雄氏とすずらん通り入り口から見た社屋】
【画像上左:2階への階段、画像上右:化粧品売り場、画像中央左:校章柄の包装紙、画像中央右:サイン会の様子、画像下:大正14年頃の着物姿の従業員】

■2代目 亀井 豊治(昭和16[1941]年就任~昭和35[1960]年退任)

 祖父です。長女妙子が父と結婚しました。
 百科倒産で学業を中断、個人経営の「亀井三省堂」を、大正元[1926]年から法人化された昭和3[1928]年まで店主として守ってきました。倒産後の店ですから、経費は切り詰めなければならないし、古参の実力ある従業員は独立の動きを見せるし……。
 しかしピンチはチャンスです。これまで欠けていた点を反省します。他社出版物への関心が低い、取次店との連携不足、顧客へのサービス不足、本の他に売れる商品についての研究が乏しい、などの問題点に対応していきます。法人化後は兄を支えて、会社を盛り立ててきました。
 社長になって間もなく太平洋戦争に突入です。
 昭和17[1942]年頃になると戦局の悪化で、用紙割り当ての大幅減などに加え、従業員の応召、輸送力の減退などに加え、辞書、参考書の供給制限などがあり、「学生のデパート」の名物だった食堂も、昭和18[1943]年6月に閉鎖されました。しかし、戦時中も商品を求めて来店するお客様の姿は、平時と変わらないものでした。
 社屋・店舗が空襲を免れましたのは幸いでした。もっとも文京区にあった自宅は全焼、私が子どもの頃は掘っ立て小屋暮らしでした。社員の復員などもあり、徐々に営業も軌道に乗り、昭和21[1946]年夏の営業報告では「終戦時に比べ著しく一新」と記されています。
 しかし、店内には空襲時の爆風を避ける大きな蛸壺のような退避所があるなど、整備が必要で、昭和22[1947]年から翌年にかけ補強工事を行い、「学生のデパート 三省堂」が復活しました。昭和25[1950]年4月には、創業70周年を迎えています。
 昭和27年に、リビングランゲージのLPレコード委託販売の話が持ち込まれ、売り場に並べるとすぐ売りつくしてしまいました。そこで、類似の商品を探すと、あるレコード会社が制作した品の販路に困っていることが分かり、すぐさま提携。英国のリンガフォンをはじめ、各国の教材を扱い、語学教育レコード教材類販売のパイオニア的地位を築きました。
 その後世の中が落ち着き、昭和26[1951]年の朝鮮戦争の特需などで好景気で、出版業界が元気になり、文庫本ラッシュになりました。ついで昭和28[1953]年頃には全集ものが競って出版されます。用紙事情も改善し、雑誌類は厚さが戦前並みに戻ります。29[1954]~30[1955]年は新書ブーム、書店間の競争も新規開店も増え、売り場の拡充が繰り返し求められました。その頃にはテナントも独立した専門店の方が売上が増えるため、昭和35[1961]年頃、「学生のデパート」は終わりを迎え、書籍専門店となります。 
 昭和35年に豊治社長が退き、「亀井兄弟の三省堂時代」が終わります。
【豊治氏、三省堂小売り部】
【社員の応召、昭和26年頃の女性店員の服装】

■3代目 亀井 辰朗(昭和35[1960]年就任~平成8[1996]年退任)

 親父です。本当は「坂巻」という名字で、豊治の長女妙子と結婚。役員に就くにあたって、三省堂であるからには「亀井」を名乗った方がいいというので、養子となりました。亀井本家ではありません。私は分家筋になります。
 父は、帝大経済学部を卒業して大正海上火災(現・三井住友海上火災保険)に入りますが、翌年出版の三省堂に入社します。復員後は営業部門、専務を経て、義父の後を受け、書店社長に就任しました。
 出版物の中でも、教科書や学術書など地味な本が好きで、出版業に対する思い入れが人一倍強かったからか、書店社長になったときはどこか寂しそうでした。
 就任後、父は「学生のデパート」、「学習参考書の三省堂」から「行動する知性派の総合書店」への脱皮を打ち出します。それまでは、教科書などの売り上げが大きな収入源でしたが、戦後の教育制度改革による大学生の増加、女性の社会進出などで、客層が拡大していくことへの対応です。
 当時都心のドーナツ化が進み始め、新宿や渋谷、池袋などの副都心が急速に発展してきました。全国的に見れば、名古屋、札幌なども伸びてきていました。打って出ること、多店舗展開です。神保町だけでの商売ではジリ貧になるとの危機感からでした。第1号は昭和39[1964]年6月開店の自由が丘店です。
「神田店と同じように本が揃えられます」というのが出店第1号の自由が丘店のキャッチフレーズです。駅前ですが、銀行が2、3階に入っているビルの4階という店舗としてはよくない環境でしたが、社員たちの奮闘努力で、予想外の成功でスタートできました。11月には新宿・京王店、翌40[1965]年10月三鷹店、11月大井店と続きます。いずれも約40坪(約130平方メートル)程の広さで、今から考えると小さな店ですが、当時は街中の本屋は10坪から15坪が普通、という時代でした。その後、42[1967]年11月には新宿西口店、44[1969]年に渋谷店、10月に池袋店と、いずれも200坪(660平方メートル)前後の店を出し、また地方では、札幌店(48[1973]年)、名古屋店(49[1974]年)、旭川店PARTI(50[1975]年)、同Ⅱ(54[1979]年)と続きました。
 昭和50年、多店舗化が一段落した時点で、「商品企画管理部」が新設され、当時常務だった私が部長を兼務しました。経営規模が拡大すれば情報が共有されないと、効率が悪くなるからです。ちなみに現在では店舗は30店、12の外商営業所と、さらに省庁・大学売店があります。
 一方、神保町の本店の建物は昭和4[1929]年の建設で、改築や修繕といったやりくりで戦前、戦中、戦後を耐えてきたわけですが、建て替えが大きな課題でした。昭和47[1972]年12月にすずらん通りの斜め向かいにあった旧洋書課跡地にアネックスビルを開設します。専門書を扱う位置づけで、和書の部門を私が担当しました。本店新築の間の神保町での拠点の意味もあったようです。
 本店新築工事は昭和54年6月に社屋解体に始まり、昭和56[1981]年3月に完成。私が本店長となり3月19日の新神田本店オープンを経て、4月8日の創業100周年記念日を迎えることができました。新開店日に入店したお客様が10万人以上と、新聞に書かれました。
 父はその後も首都圏を中心に精力的に店舗展開を続けましたが、平成8[1996]年夏、病に倒れついに帰らぬ人となりました。今から21年程前、私は53歳で社業を継ぎました。
【辰朗氏】
【画像上:自由が丘店、画像中央:開店当日開店と同時に詰めかけた大勢のお客様、画像下:アネックスビル】

■4代目 亀井 忠雄(平成8[1996]9月~ )

 慶応大学時代は“不(?)経済学部”で、バイト代で株を買い、稼いでいました。仲間と会社も作りましたが、結局失敗しました。卒業後は製紙会社に就職、呉の工場で営業や生産管理に携わりました。
 4年間のサラリーマン生活ののち、昭和45[1970]年に入社しました。本店の業績は父の時に高度成長景気の反動で一時落ち込み、それが多店舗化で上向きました。入社した時の会社の印象は、亀井商店に毛の生えたような感じでした。支店はエリアによって運営が異なるし、もっと近代的にしたいと思いました。
 組織についていえば、本店には仕入課、店売課、外商課だけ、本社機能も庶務課と会計課しかなく、企画立案の部署を提案すると、ベテラン社員からは「役人みたいなばかなことを」との声もありました。それでも営業本部をつくることができました。
「良書を取り扱う」のが三省堂書店の創業以来の伝統ですが、杓子定規にやると、チャンスを逃すことがあります。渋谷の店長の時でした。当時日本赤十字本部産院(現日本赤十字センター産科)の謝国権医局長の医学啓蒙書「性生活の知恵」が大ベストセラーになった時がありました。ところが、うちの店には1冊もありません。図版などを見た女子社員が「うちに向かない」と全て返品していたのです。真面目な本でした。しかし、先入観で売り上げチャンスを逃していたのです。すぐに直させました。
 本屋というものは利の薄い商売です。売上を上げるためには挑戦が必要です。私もいろいろやってみました。昭和56年にはビデオレンタルを新神田本店でやりました。日本ビデオ協会に場所を貸して、時間貸しでビデオを観られるブースも作りました。また、三省堂BOOK宅急便という事業では、西濃運輸と提携して、全国から電話で注文を受け顧客に配送するシステムを始めました。いずれも本邦初の試みでしたが、長くは続きませんでした。「今の業態のままでいいか?」と常に考えています。
 その後は、新店開設や退店、改装などを繰り返しながら今日に至っています。
 ごく最近のことですが、平成23[2011]年7月に北海道留萌市に出店しました。約500平方メートルの「留萌ブックセンター」です。留萌は人口が3万人に満たず、前年末、地元の本屋が閉店し、書店のない街となっていました。新学期を迎える子どもたちのために出店してくれる書店を探し、うちに“白羽の矢”が立ちました。お母さんたちが『三省堂書店を留萌に呼び隊』を結成、うちのポイントカードの会員を人口のほぼ1割にあたる約2500人分集めてくれました。出店は人口30万人を目安にしてきたのですが、地元の熱意に動かされ、承認印を押してしまいました。いくぶん先行きに不安を覚えていると、今度は『応援し隊』というものができ、開店の時からずっとお手伝いしてくれているのです。市内にたった1軒の書店なので、北海道庁留萌振興局や市役所をはじめ、市民の皆さんに厚いご支援をいただき、今では安定的に運営しています。
 4月に名古屋にも新しい店を出しました。リニア新幹線の入るJRゲートタワーのワンフロア、1000坪(3300平方メートル)の広さです。顧客満足のためには豊富な在庫が必要だし、遊びの空間がどれだけとれるのか、いろいろ気がかりな点はありましたが、なんとか順調にオープンしました。これからも大きく発展していく地域で楽しみな店です。
 今の時代は新刊本を売るだけではやっていけません。本を軸に売り上げを伸ばす知恵が必要です。例えば今オンデマンド印刷というのをやっています。店頭で注文したお客様がコーヒーを飲んでいる間に本を作ってしまうのです。大学の先生方が自分の資料を本にまとめたり、出版社で絶版になった商品を1部から印刷したりできます。店内での電子書籍の販売や、品揃えの幅を広げるための「三省堂古書館」、前にも触れた雑貨ショップの展開もその知恵のひとつです。
 一方で、神保町については「本の街が今のままでいいのか」という不安な気持ちを強く持っています。若い人、大学生が大学の構内から出てきません。大学内でなんでも済むようになっているからです。そしてお年寄りがお孫さんと一緒に来るようでないと、街のにぎわいは続きません。それには、本屋が楽しい、面白いと感じる環境をつくらないといけません。イベント性、情報性、新しいもの、そうしたサービスを提供する必要があります。
 規制緩和が進んでから、出版社や取次、新刊書店に節操がなくなった感じがしています。仲間意識というか、遠慮というものがなくなりました。何でもあり、切った張ったの世界になり、常識でマーケットが守れなくなっています。資本競争ばかりやっていると出版の多様性が守れなくなるかもしれません。
 そして今、当業界では電子書籍がクローズアップされていますが、雑誌、コミックに大きな影響が出ています。直近の業界の数字では前年比で6%減です。売上比で見ると、以前は雑誌:書籍=6:4でしたが、今は逆転してしまいました。本の業界は再販制で委託返品できるなどで守られてきました。しかし、権益を守り続けようとしても難しいでしょう。今年あたりから変わっていく気がします。
 平成22[2010]年に長男の崇雄(41)が専務に就任、片腕となっています。これからもいろいろ挑戦しながら、私は本屋を続けられるだけ続けるつもりです。
 
――本屋さんに行くときは、できるだけ多額のお金は持たないようにしています。店内を歩いているうちに、あれもこれも欲しくなってしまうからです。それだけ刺激が多いのです。棚の本は様々な世界への入り口だらけ、本屋さんは知識の“どこでもドア”なのです。でも東日本大震災で深夜帰宅したら、本棚が寝床や机に倒れていました。狭い家で蔵書は「これ以上は危険」の領域なのですが、つい手が出てしまいます。
【忠雄氏と現在の三省堂本社ビル】
【画像上:留萌ブックセンター、画像中:三省堂カード、画像下:神保町本店の古書コーナー「三省堂古書館」】
●株式会社三省堂書店
千代田区神田神保町1-1
電話:03-3295-1881
https://www.books-sanseido.co.jp

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