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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第46回 博善株式会社

お話:6代目 藤井 城さん(記事公開日:2月16日、文:竹田令二)

■はじめに

――「送りびと」で再評価された感のある葬祭業。お葬式は人の最後をただ送るのではない。逝く人と残る人をつなぐ最後の場を作り上げる。逝く人が残る人々の記憶の中で生き続けるように。神田の地で、明治時代の創業から多くの人を送ってきた。
【社章】

■初代(創業者) 木村 荘平(天保12[1841]年生~明治39[1906]年没)

 明治34[1901]年に神田美土代町で木村が創業しました。その後、神田鎌倉町(現内神田)で葬祭業の先駆けとして営業していました。
 木村という方は京都生まれの実業家で、文明開化のシンボルともいえる牛鍋チェーン「いろは」を展開、「いろは大王」と呼ばれた方です。艶福家で、子どもさんは作家や画家など、活躍されました。また、明治20[1887]年に、神田に先駆け、日暮里村の火葬場運営を請け負う東京博善株式会社を設立しています。木村の進出は、東京警視庁(当時は保健所も警視庁の管轄だった)など役所に頼まれての事のようです。
 明治に入って、日本では神道系からの影響で火葬が禁止(明治6[1873]年~8[1875]年)されたりして二転三転していました。
 東京市の発展と郡部の膨張に伴い公衆衛生上の観点から火葬場の存在が問題視されるに加え、明治19年[1886]には東京でコレラが大流行し、遺体の累積と異臭問題で市民の間で火葬場移転の請願運動が勃発しました。それまでの火葬場は寺院の一部にあり、熱量が小さく、異臭を発生させていたのです。それで、実業家である木村に白羽の矢が立ったのです。
 当社の場合も同様の事情のようです。当社は大正7[1918]年12月に桐ケ谷火葬場を任せられ、火葬業とともに葬祭業を行うようになりました。桐ケ谷火葬場は現在の桐ケ谷斎場の門前に現存する霊源寺の荼毘所として徳川4代将軍、家綱時代に発足しています。火葬場は本来寺院の付属物だったのですが、明治中期頃から、西欧資本主義の影響で、営利産業としての参入する人もあったようです。営利性に反発、「送る」という宗教性を重んじ「博善=善を広める」という意味での社名でした。
 創業者木村氏は明治終わりに退き、大正~昭和初期に亘り「松田」「佐藤二郎」「辻田豊彦」なる3氏が浮上しておりますが残念ながら、出身、業績などはわかっておりません。
 その頃、東京博善では慈恵医大の初代学長になった金杉英五郎が社長に就任します。それまで薪を燃料とし、熱量が不足していたため、石炭や重油燃焼の研究を始めています。においの問題など環境問題があり、無煙・無臭の研究を進めました。
 大正15[1926]年に桐ケ谷斎場の売却により一時東京博善と合併しますが、昭和4[1929]年12月に法人化し、火葬業を切り離し、神田鎌倉町に葬儀相談所として専業することになります。この神田の地は創業の地であり、この後何度か本社を移転しますが、「博善と言えば神田」という思いは強く根付いています。
 大正12[1923]年9月1日の関東大震災は都内の死者5万9539人もの方が亡くなられました。しかし、火葬場も多くが大破。芝浦に臨時火葬場が作られ、また、被害の大きかった本所被服廠などで、青空火葬をしました。各火葬場から派遣されてきた職員たちの懸命の奉仕で、一段落したのは大正13[1924]年の下期でした。
 東日本大震災でもそうでしたが、災害時の大量のご遺体への対応は、今でも重要な問題です。各地方自治体と協定を結んでおり、災害時には全国組織(全国葬祭業協同組合連合会・全葬連)からの指示で、棺・納体袋をはじめとした物資の拠出等支援活動を行います。
【木村 荘平氏(国立国会図書デジタルコレクションより)】
【大正葬列】

■2代目 宇都宮 日綱(昭和4[1929]年就任~昭和37[1962]年退任)

 日蓮宗法華経寺貫主でした。宗教性を失わないようにするため、仏教界から出資、日蓮宗系からは、宇都宮貫主と私の祖父で日蓮宗堀ノ内妙法寺住職の藤井教詮、真宗大谷派赤羽山法善寺住職から中山理々が役員に入りました。中山が専務、祖父は監査役でした。東京博善も同様でした。東京博善との深い関係は昭和50~60年代まで続きました。
 宗教者による経営です。悪く言えば坊さんたちの“殿様商売”です。のちに、そこに付け込まれる隙があったのです。いわば待っていればいい商売ですから。
【宇都宮 日綱氏】

■3代目 中山 理々(昭和37[1962]年就任~昭和56[1981]年退任)

 昭和19[1944]年11月13日、米軍の空襲で鎌倉橋にあった本社が全焼してしまいます。本社は一時町屋に移りました。
 葬儀のお手伝いではこの頃、佐藤栄作元内閣総理大臣(昭和50[1975]年)、大平正芳元内閣総理大臣(同55[1980]年)、歌手の越路吹雪さん(同57[1982]年)など多くの方々の葬儀を扱わせていただきました。
【中山 理々氏】

■4代目 宇都宮 鐵彦(昭和56[1981]年就任~昭和61[1986]年退任)

 初代社長の息子さんです。当社の役員でもあり、同時に多摩斎場の会長です。宗教界からの3家が相次いで経営に携わってきました。一方、東京博善は昭和60[1985]年に株式の買占めがあり、宗教者経営は幕を閉じ、現在は廣済堂グループになっています。水原弘元読売巨人軍監督(同57[1981]年)、美濃部良吉元東京都知事(同59[1983]年)などの葬儀を扱わせていただきました。
【宇都宮 鐵彦氏】
【水原弘元読売巨人軍監督葬儀】

■5代目 藤井 教海(昭和61[1986]年就任~平成17[2005]年退任)

 父です。祖父の後を継ぐ気はなく、僧籍は昭和41[1985]~2[1986]年頃にやっと取りました。昭和26[1951]年に旧帝大法学部を卒業、グンゼ産業(現GSIクレオス)に入り、サラリーマン生活を送って、役員まで務めました。退職後の昭和61[1986]年に5代社長に就任しました。
 厳格でストイックな人で、下のものには面倒見がいいのですが、息子としては面倒くさい人、怖かった父でした。私とはなかなか口をきいてくれず、結婚して子どもができて初めて口を利いてくれました。「ようやく一人前になった」と評価してくれたんですね。
 上場企業役員であった父は財務諸表に強く、当時営業職を主としていた私は、会社経営の極意を授かりたいと思うようになりました。バブル景気の終演によりすっかりうなだれてしまっている財界人を横目に、父だけは矍鑠としていました。
 そんな父も酒と煙草の放蕩がたたり、平成16[2004]年12月、肺がんの手術をし、病床で弱っていたところで後を託されました。父の葬儀では、息子の黎元(れいげん)が津軽三味線で献奏をしました。
 お互いサラリーマンであった親子が晩年になって、祖父から継いだ会社で一緒に仕事をすることができ、本当に良かったと思います。
 父の時代の平成11[1999]年9月に、本社を現在の神田錦町に移転しました。
【葬儀祭壇】

■6代目 藤井 城(平成17[2005]年就任~ )

 大学は国際武道大学で少林寺拳法をやっていました。僧籍はとっていません。父は同世代の若者が就職活動に走り回っているのを見て、「あいつは何をやっているんだ」と母に言い、母から「どこかに行きなさい」とねじを巻かれました。家に出入りしていた自動車輸入商社「ヤナセ」の営業マンが格好良かったので、「ヤナセ」にお世話になりました。平成元[1989]年の入社し、営業職になりました。バブル経済絶頂期の終わる頃で、高級外車がどんどん売れました。その後梁瀬次郎会長兼社長の秘書室勤務になりました。その後、父がどういう考えで経営しているのかを知りたくなり、ヤナセを退職し平成10[1998]年に博善に入社しました。
 最初は現場での仕事と営業を担当し、経営について学び始めたのはそれから5年後の平成15[2003]年からです。当時は取締役本部長だったので、相変わらず仕事は現場と営業をやっていました。
 父ががんで入院した時、当初は術後回復次第会社に復帰する予定でした。ところが容体が良くなる兆しがなく、父は私に会社を託すこととなります。手術からわずか2か月後、平成17[2005]年2月のことでした。
 趣味は津軽三味線、「青城会」という会の会主です。週1回指導しています。息子も弟子でしたが現在はプロ奏者となり、最近、NHKの番組「ももクロ和楽器レボリューションZ」で、桃色クローバーZのバックで演奏しました。後継ぎ? まだ考えていません。
 生まれた人間にとって死は必然で、誰にも平等にやってきます。火葬することも同じです。その意味では、火葬場は社会的インフラであるべきと思います。東京以外の自治体の多くは公営です。今は高熱で火葬しますので、燃料代もばかにならず、多くが赤字です。
 葬祭業界には「2030年問題」があります。「2030年には人口の1/3が高齢者になる」ともいわれる超高齢化です。2010年には約1億2800万人だった人口は2030年には約1億1600万人に減少し、さらに2024年には日本の高齢者は人口の30%にも達すると予測されている問題です。将来の人口減を考えると、いま、無理な設備投資は考えられません。結局、効率運用しかないのではないでしょうか。
 明治時代には昼間の火葬は禁じられた時期があります。無煙化で昼間も許されるようになったのです。それに通夜には会葬者はたくさんいらっしゃいますが、本葬は近親者中心になっています。夜間の運用ができれば、と思います。
 お葬式というと最近は経済的な問題も含め、簡素化の傾向があります。施主さんのお考え次第で、私どもは何でも出来ます。でも大事なのは、故人との思いを繋げる場であるということです。そのために、故人がどのような方でどんな人生を送られてきたか、施主の家族、家庭環境などもお聞きします。葬儀にいくら掛かるか、掛けるかはそのあとの問題です。
 このヒヤリングを十分できた葬儀ですと、後で皆さんに「よかった」と言っていただけます。代金を頂戴にうかがって「ありがとうございました」と言っていただけるのですから、ありがたいことです。
 また、お寺さんとの関係が薄くなり、宗教的関心が薄まっているのではとの声もありますが、若い人にはパワースポットとか、神社ガールなど、決して宗教的なものへの興味はなくなっていないと思います。また、小さなお子さんでも、旅仕度や納棺のお手伝いに立ち会わせてあげてほしいと思います。そこから将来、人をお送りする気持ち、信仰心が芽生えてくる気がします。
 
――「人間」という言葉は中国語では社会を意味する。人は他人との関わりがあって初めて人であるのだからと思う。親しい、大事な人の死は、残された人にとって自分の体の一部を切り取られたような痛みをもたらす。葬儀は、故人と残された人の思いをつなげることによる、痛みの癒しの始まりだと思った。
【藤井 城氏】
【本社ビル】
●博善株式会社
千代田区神田錦町1-13
電話:0120-878-890
http://www.hakuzen.co.jp/

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