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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第45回 漢陽楼

お話:4代目 和田 康一さん(記事公開日:2016年12月12日、文:竹田令二)

■はじめに

――どうしてこうなってしまったのだろうか? 日本と中国。大陸からの人と文化は日本の歴史の基層に幾重にも重なっているのに。遣唐使や貿易以外にも、日本から文物を求めたためのほか、中国の王朝の交代などで国が荒れると、民族大移動のように人々は外へ逃れ、日本にも流れ込んできた。「三剪」は、仕立て職、床屋、そして料理人で、外国に渡った中国人が身を立てるための手段だった、といわれる。日清戦争に敗れると、日本に新しい国づくりを学びに多くの中国人留学生がやってきた。1896年に13人が来日したのを皮切りに、1905年ころには1万人を超えた。留学生の世話から始まった漢陽楼の歴史には、激動の中国史が刻み込まれている。
【現在の漢陽楼】

■初代 顧 雲生(明治44[1911]年~没年不明)

 浙江省寧波の出身だったと聞いています。日本へ来たのは店を開くより前ですから、一旗揚げようとしてだと思います。
 最初ロシア銀行の賄いで働いていました。そこがなくなって、神田には明治法律専門学校(現明治大学)などがあり、中国人留学生がたくさん学びに来ていたので、留学生の賄い付きの下宿をはじめ、店へと発展しました。場所は、神保町交差点の近くです。
 周恩来が通っていた「東亜高等予備学校(今の愛全公園)」や下宿街、青年会館などに近い場所でした。今の場所になるまで、4~5回店の場所が変わっています。
 孫文率いる「同盟会」組織の人たちが下宿していましたが、1911年辛亥革命が成功し、同盟会の人たちは帰国することになります。その際お世話になったお礼として「漢陽楼」の屋号を命令し、看板を寄贈してくれました。当時は、1階が食堂、2階と3階は留学生のたまり場として開放していました。
 辛亥革命後、中国は軍閥が力をつけ、内戦になっていきます。国民党の指導者、孫文さんは大正2[1913]年から大正4[1915]年にかけ東京に亡命しています。孫文さんは胃が弱かったため、初代はおかゆをつくって講演会場に講演会場に持って行き、送り迎えもしたそうです。今も店のメニューに「孫文粥」があります。
 大正7[1918]年の1月27日に、後に中国の首相になった周恩来氏が初めて来店しました。この事実は、周恩来氏の死(昭和51[1976]年)後に、日記『周恩来「十九歳の東京日記」』が発見され、「漢陽楼で月例会」という記述があったことからわかったことです。
 中国では「周恩来旅日日記」として刊行され、日本では『周恩来「19歳の東京日記」』として刊行されました。
 周恩来氏の出身地江蘇省(原籍は浙江省紹興)は、初代の出身地の浙江省と近かったので、料理の味も似ていて懐かしかったのかもしれませんね。質素な生活をしていたので、普段は安価な「焼き豆腐」をよく食べていて、月に一度自分へのご褒美として「獅子頭」(大きな肉団子の澄ましスープ蒸し)を食べていました。
【写真上:1911年頃で現存する一番古い店頭写真。孫文、周恩来が来ていた。中央右から2人目が初代・顧 雲生。1階は食堂、2、3階は孫文率いる「同盟会」の組織の人や「中国留学生交友会」の人のたまり場として開放していた、写真下:レオマカラズヤの隣にあったころ】
【写真上:孫文、写真中:孫文粥、写真下:19歳の周恩来(『周恩来『十九歳の東京日記』―1918.1.1~12.23 』小学館(1999/09),周 恩来(著), 矢吹 晋(編集), 鈴木 博(翻訳))】

■2代目 顧 佑來(生年不明~平成3[1991]年)

 多分他にも、歴史の秘話があるのでしょうが、店には伝わっていません。日中間の政治が絡みます。人の出入り情報を口にするのはタブーでしたから。まして日中戦争以後、第2次大戦終了までは中国人は敵性国民でしたし。
 そんなわけで、店に伝わっている情報はありません。開店当時の写真で、中列左から2人目の学帽を被っている子どもです。この頃は錦華小学校(今の小川町小学校、夏目漱石も出たところです。)に通っていました。
【顧 佑來氏】

■3代目 林 松英(昭和16[1941]年生~平成22[2010]年没)

 2代目顧 佑來の長男のところへ京都から嫁いできました。
 実父(林同官)は、福建省より15歳で来日。繊維業が盛んな足利市で裸一貫から呉服商で成功。昭和12[1937]年に盧溝橋事件が勃発。急遽商売をたたんで帰国すべく、神戸に移動。同族、同郷の仲間は旅費もなく帰国できない、仲間を日本に残し自分だけ帰国して良いのだろうかと、苦悩の末、帰国を断念し京都に住むことになります。
 戦争中は“敵国人”ということで特高にマークされるなど、ご苦労もあったようですが、帰国に先立ち、商いを整理する際、取引先とは精算をきれいにしておりました。その誠実さが評判となり、新たに立ち上げた繊維業「ロンシャン」も大証2部に上場することとなりました。
 そのような実父の素養を受けついだ、林 松英は義父(顧佑來)より才覚を見込まれ、3代目として店を立て直していくわけでございます。いわば「中興の祖」です。
 バブルの頃、「他で大きくやらないか」と銀行等から誘惑もあったようですが、「神保町でやるのが漢陽楼だ」と、耳を貸しませんでした。おかげで我々も路頭に迷わないで済んだのかもしれません。
 地道にコツコツ、誠実にやれば人は見ていてくれます。
 3代目は、店を株式会社化しました。税金や銀行融資などのこともありますが、従業員の福利厚生を考えてのことです、安心して働いてもらわないといけない。それが店の存続につながるわけですから。人を大事にしてくれました。
 3代目は誠意の塊のような方でした。よく言われていた言葉があります。「目先の利益にとらわれず、お客様のことを第一に考えなさい」「おいしいものを食べると、人は笑顔になる。争いは起こらない」。
 とてもわかりやすい、気負いのない言葉だと思います。
【林 松英氏】

■4代目 和田 康一(平成22[2010]年就任~ )

 私の父・覚二は、2代目の総料理長でした。実家が築地の中央市場の仲買人でしたので、魚河岸で働いていたのですが、戦後仕事がなくなり、伝手を頼り仕事を探したところ、中国人のところなら、戦勝国人のため物資は豊富で、食べ物に困らないから、と紹介されました。母・きみ江も働いており、一緒になりました。
 母は先ほどの周恩来氏も食べていた寧波料理の「焼き豆腐」をよく作ってくれました。私にとっては家庭の味であり、原点でもあります。
 父はその後独立し、「中華料理 覚陽楼」を横浜で開きました。料理人の出世は外に出、自分の店を持つことですから、私も父の店を継ぐため修行に漢陽楼に入りましたが、この店の伝統・味を誰が次へと繋げていくのかと考えた時に私しかいないのではないかと思い、3代目林松英との信用・信頼の元、漢陽楼の4代目代表となりました。
 子どもの頃から店で育ちました。東京メトロ神保町駅A5出口付近に店があったころ、「開かずの間」がありました。ある日開けて入ると、額や置物などがたくさんありました。お世話した人たちがお礼においていったものと聞きました。
 店を移転する時に捨ててしまいました。今も持っていて、お宝鑑定団に出せば、どのくらいになっていたんでしょうかね。そんなことを思わないでもありませんが。いろいろな歴史が詰まっていたと思います。
 当時は日本橋、水道橋、神楽坂などに支店もあり、子供の頃はよく連れて行かれました。
 周恩来氏の関係では、西武セゾングループ元代表の堤清二さん(ペンネーム辻井喬)が、しばしばお出でくださいました。衆院議長だったお父様の堤康次郎さんの秘書として中国に同行し周恩来氏に会ったのがご縁です。周恩来氏が好物だった「獅子頭」に興味がおありだったようです。よく、運転手を待たせたまま、「料理長また来たよ」と気さくに声を掛けてくださり、“焼きそば”をご注文になりました。漢陽楼の味は出身地の浙江省の味です。素材の持ち味を生かした深みのある、まろやかな味です。メニュー外でしたが、海鮮も入れ、お出ししました。それをよくご注文になりました。そんな様子を見ていたお客様もいらして「“堤さんの焼きそば”お願いします」というご注文もよく受けます。
 松山バレエ団も、中国で「白毛女」を上演したとき、周恩来氏に会ったのがご縁で、ご来店いただけるようになりました。特に「文化交流貢献賞」を受賞した際の打ち上げを漢陽楼で行ったときには我々スタッフも座敷に呼んでいただき「川の流れのように」に合わせて踊ってくださいました。50名ほどの団員の皆様は私服でノーメイクでしたが、畳の上で踊る姿は圧巻で感激いたしました。
 3年前には、周恩来氏の甥御さん2人、姪御さん2人が、氏の日本での足跡を訪ねて来日された際、店に寄っていただき、いろいろ交流を深めました。
 最近は激辛ブームですね。当店では特に浙江省の料理とはうたわず中国名菜としており、コース料理にはバリエーションとして辛めの料理も入れていますが、あくまでうちの味は素材を生かす味付けです。
 私は4代目社長となり、立場が違ってきて、いろいろな人との交流が増え、調理場だけでは経験できない、見たことのない景色を見ることができたように思います。成長させてもらいました。これからも漢陽楼をもっと世に出すのが私の使命ではないかと思っています。
 最後に3代目林松英は大病を患っていたにも関わらず、命を懸けて漢陽楼を守り通しました。私4代目和田康一も一所懸命に漢陽楼を守り通す所存でございます。そして3代目の子息である5代目林勇に繋いでまいります。これからも共に伝統と人の縁を深めていきたいと思います。
 
――漢陽楼の店内には周恩来との縁を伝える資料もさりげなく展示されています。人のつながりは表の歴史からは見えにくいが、あるとき突然浮上してきて、思わぬ効果をもたらす。声高な政治ではなく、人と人のつながりの不思議さと重さが歴史の底流をつくってきたともいえるように思えます。危機の時代だからこそ、そのつながりを築いていかないといけないのかもしれません。
【写真上段左:4代目の両親・和田覚二(右)と和田きみ江(左)、写真上段右:前列左から2番目が堤清二氏。その右が小宮山量平氏、右が窪島誠一郎氏。後列左が3代目林松英、中央が4代目和田康一、右が5代目林勇。写真中段・下段:松山バレエ団との記念写真。写っている人物は(1)松山樹子氏、(2)清水正夫氏、(3)三代目林松英氏、(4)4代目和田康一氏、(5)5代目林勇氏、(6)清水哲太郎氏、(7)森下洋子氏】
【写真上段:獅子頭、写真中段:周恩来の甥と姪と店の前にて。前列右松本洋一郎氏(東亜高等予備学校創設者・松本亀次郎の孫)、前列左二人が周恩来氏の姪、後列両側が周恩来氏の甥、後列中央左が4代目和田康一、右が5代目林勇。写真下段:「日中国交正常化20周年記念」の「周恩来展」のポスター】
●漢陽楼
千代田区神田小川町3丁目14−2 漢陽ビル
電話:03-3291-2911
http://kanyoro.com/

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