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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第43回 キハラ株式会社

お話:2代目 木原 祐輔さん(記事公開日:9月24日、文:竹田令二)

■はじめに

――図書館設備総合メーカー、メインは書架などを含む図書館用品。しかし、受付前のスペースには、製本作業に使われる道具類や材料などが並ぶ。最近は個人で買いに来るお客様も増えている、とか。製本から始まった会社の原点がしっかり守られている。同時に本への愛着を感じさせる。本の街の表情の一つだ。
【会社受付スペースには製本に使われる道具やカルトナージュ用品が並び、販売されている】
【製本に必要なクロスなども扱っている。右は製本工具の数々】

■初代 木原乾輔(けんすけ)( ~昭和40[1965]年 没)

 父は新潟県の村上の出です。実家は真言宗の修験道、山伏系統の知楽院という寺で、村上藩から扶持をもらっていたようで、同じ様なお寺が12軒ほどあったようです。明治の廃仏毀釈の嵐の中で、明治40[1907]年に一家を上げて夜逃げ同様にして東京に来たそうです。三男坊で、小学校5年生くらいの時でした。ですから、掛け算はできても割り算はできない。新聞も読めなかったのですが、仕事を覚える間に英語も覚えたのでしょう。私が「calender」と綴りを間違えたときに「derではなくてdarだ」と直されました。計算も、掛け算を使って割り算の答えを出していました。
 上京後、大正3[1914]年、長兄の知教とともに表神保町(現神保町1丁目)で製本業「鬼原正三堂」を始めます。元の姓は「鬼原」ですが、昭和23[1948]年に姓も会社名も「木原」に改めています。姉妹が4人いましたが、学校でからかわれたことも改姓の理由にあったようです。ちなみに「正三」は創業「大正三年」からとっていますが、よく名前と間違われました。
 上京からこの間、誰かの下で修業をしたはずなのですが、いまだにわかりません。当時、名のある親方が10人ほどいたようで、その中のお一人についていたのではないかと思います。昨年創業100年を迎え「記念誌」を発行しましたが、皆さんからの聞き取りと文献資料でつくりました。父からいろいろ聞いておけばよかったのですが……、悔やまれます。
 長兄・知教は間もなく、家屋と工場をつくり移転していき、会社名も姓も「鬼原」のままでした。乾輔はとどまり、店舗は小川町、現在地の駿河台と移りました。兄の会社は新刊本の製本へと進みましたが、父は本の修理や図書館の雑誌の合本などへと進みます。
 戦時中に図書館との関係が深まります。紙が配給制になり、図書館でも思うように入手できません。紙を融通するうち、台帳やラベル、伝票などを「作ってほしい」と依頼されるようになりました。そのうちに「図書館の用品を」となっていきました。そうした仕事を当時の仕事仲間に紹介していきました。うちで抱え込むのではなく、ネットワークを広げる‘商社’的なやり方です。それは後々の仕事の拡大に結びついてきたと思います。
 父は職人肌で無口な人でした。営業は、母・つたが一手に引き受けていました。子どもの頃、手伝いでお得意さんに行くと「おふくろさんによろしく言ってくれ」と言われたものでした。父は戦後、学校や図書館の傷んだ本の修理に出張講習をやりました。無口で、よく人前で講習などできたと思いますが、知る人からは「お世話になった」とよく言われます。昭和25[1950]年には製本方法をまとめた「誰にも出来る製本の手引」を発行しています。
 今あるのは、両親が種をまいておいてくれたおかげだと思います。
 戦争で駿河台のこの辺りは戦火をまぬがれましたが、戦後は、図書館再開までは苦しかったですね。洗濯の張板を出して、作ったノートや単語帳、それに煙草の紙巻き器の紙もなんでも並べて売り、食いつなぎました。その店番もしました。また当時は荷物を鉄道で送り、駅で受け取る鉄道手荷物の「チッキ制度」があり、御茶ノ水駅まで荷物を受け取りに行ったり、出しに行ったりしました。自転車で行くのですが、大人用ですから‘三角乗’です。それで駿河台の坂を上り下りしましたが、苦労しているとよく周りの人が手を貸してくれました。
 また、米軍が進駐してきて、MP(米憲兵)が白いジープで闊歩していました。姿を見ると怖くて逃げだしたものです。しかし、進駐軍は米国のカタログをもってきて「これをつくれ」と注文します。米大使館と直接取引が始まりました。昭和26[1951]年に株式会社化します。大使館などに出入りするにはその方が「有利」と言われたからです。図書館家具などから書店などの店舗用品、さらに官公庁の家具工事などへも仕事は広がりました。
 私が入社した昭和37[1962]年には、東海道新幹線の管制室の家具工事を、さらには新幹線の駅改札のステンレス製の「ラッチ」も頼まれ、みどりの窓口の計算機の台も発注されました。うちのステンレス製のショーケースを見ていたらしいですね。それで「できる」と。開通の前夜、社員がぴかぴかに磨きに行ったことも思い出されます。もっともその後は大手が出てきてこうした仕事も2年ほどだけでした。
 一方で、書店ルートから思わぬ仕事を頼まれます。うちは書店を通じ小・中学校に品物を納めていましたが、地方の書店は「音楽教室」を併設していたことが多く「防音扉を作れるなら頼む」という依頼があり、長い付き合いの協力会社にお願いし、納めました。
 当時はまだ、住宅事情が悪く、文化的な興味を満足させる図書館くらいは良くしなければいけないという気持ちでした。時流に乗ったというのか、仕事は順調でした。
【画像上:乾輔氏、画像下:製本講習をする乾輔氏】
【画像上:木原正三堂(1950年頃)、画像下:「鬼原正三堂」時代の広告 『図書館学講座』第6巻1929年4月掲載】

■2代 祐輔氏(昭和40[1965]年4月~平成21[2009]年7月会長就任)

 入社して2年後の昭和39[1964]年、父が脳梗塞で倒れました。酒は飲めませんでしたが、ヘビースモーカーでした。父からは「早く米国を見に行った方がいい」と言われていました。翌年4月に社長に就任しましたが、母から「お父さんは大丈夫だから」と言われ、8月に北回り便で米国とヨーロッパに3週間ばかり行きました。コネもなく、闇ドルを手当てしてもらい「日本図書館協会」の紹介状を持っただけでした。帰ってきたときは10ドルしか残っていませんでした。ドイツでは新しくできた図書館に行こうと、町の図書館の司書に行き方を聞いたら、電車賃をいただいたのが驚きでした。案内できないお詫びだったのでしょうか。
 父はその年の10月に亡くなりました。
 母からは「家の本業を大切に」と言われています。ですからバブルの時も株や不動産には手を出しませんでした。
 新しい図書館をつくる時は、設計事務所と協力してやりますが、必ず「郷土資料の収集」を入れています。郷土を疎かにするとその地域は滅ぶと思います。我が家の出身のことも、村上市の郷土史家の方が、残っていた古い戸籍簿を調べてくれたおかげでわかりました。また、寺の場所も持主が古い寺門を解体した時、小板に寺の名が記されていたことから、確認できました。今はスーパーになっていました。
 書架などの図書館用品のライバルは、事務機や文具、家具メーカーの上場企業です。単価競争をしたら、品質を落とさざるを得なくなります。それはできませんから、武器と言ったら‘誠意’しかありません。手がけた図書館には年1~2回必ず訪問します。ある市長さんからは「おたくは最後まで面倒を見てくれるからすべて任せる」と言っていただきました。
 今、古い図書館用品を集めています。カードケースなどかつて活躍した家具・用品の数々が時代の流れとともに舞台から消えてなくなっていくことを危惧し、図書館界でも切望されてきた事業です。平成16[2004]年から、弊社創業90周年事業の一環として継続しています。
 平成8[1996]年から金沢工業大学に協力してもらい書架などの強度試験をやっています。書架は倒れにくいもので、けが人などの被害はあまり出ていないのですが、実際はどうなのかと。製品ができる度に実験をしています。転倒防止への明確な答えは出ていませんが、結果を見て一部の鋼板を厚くするなど手当をしてきました。最近は免震装置付の製品も作りました。ただ、地震で本がごそっと落ちてくると、コンクリートが倒れるのと同じで極めて危険です。本の落下を軽減する用品も開発し、書架の転倒防止施工と併用することを提唱しています。
 東日本大震災(平成23[2011]年3月11日)では3月中に、千葉県、茨城県から福島県まで支援チームを送り出しました。「棚を直してほしい」の声が数多く、修理用の簡単なパーツも持参しました。宮城県名取市では書架が倒れたので、4~5人の社員を派遣、ボランティアの人たちでも復旧させられるように‘下作業’をしました。
 また、平成23[2011]年は本を運ぶ「ブックトラック」を被災地に送りましたが「送るだけでいいのか」という疑問の声が上がり、翌年からは社員が直接届けています。被災地の子どもたちに描いてもらった絵をブックトラックに貼る「お絵描きブックトラック」も届けています。一般財団法人日本出版クラブが集めた震災関係の本約1,400冊を巡回展示する「本の力巡回展」を全国11カ所の図書館で開催し、その後も学校向けにブックトラックに乗せて貸し出しています。本の裏表紙にカードを添付し、読んだ人にメッセージを書いてもらい東北に伝える計画です。少しでも汗をかきお役に立ちたいと思っています。
【祐輔氏】
【画像上:書架の強度試験、画像下:ブックトラックに貼る絵を描く子どもたち】
 

■3代目 一雄氏(平成21[2009]年7月就任~ )

 昨年創業100周年を迎えることができました。記念誌「図書館とともに キハラ100年の歩み」の発行とともに、社員旅行で海外に行こうという機運があったのですが、最終的には「東北」になりました。社員の気持ちが東北に向いていたからだと思います。
 一私企業の社史ではなかなか一般図書館には置いてもらえません。社員とともにお世話になった図書館に向けての記念誌にしました。「図書館学」の棚に並べていただきたいと、図書館の歩み、図書館用品・家具の変遷にも重きを置き、そうした研究に役立てていただける内容を目指し、定価も付け、発行しました。国立国会図書館の月報(2014年12月)で「本屋にない本」というコーナーで紹介されました。昨年、全国横断検索をかけてみたら、120館以上でヒットしました。今はもっと増えていると思います。記念誌には社員全員の名前を「情報・資料収集」として載せました。
 100周年を機に「経営ビジョン」を見直しました。私たちの未来へ向けての5つの夢です。その4つ目は「将来、20年30年と時間が経った時に『キハラにお願いして、良かった』という一言をいただける仕事をしていくこと」です。例えば、私たちの納品させていただいた家具は30年前のものでも現役で使われ、今でもメンテナンス対応をしております。
 
――3代目一雄氏は父祐輔氏から「下請けになるな どことも喧嘩するな」と言われているという。昨今の経済至上主義の目からは、なかなか厳しい。大手と伍していくには経済原理以外の何かが必要である。喧嘩をせずに競争するにも同様だ。しかし、経営ビジョンの「夢」に、その覚悟が見える。
【一雄氏】
【経営ビジョン】
●店の名前
千代田区神田駿河台3-5
電話:03-3292-3301
http://www.kihara-lib.co.jp/

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