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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

印刷用

第41回 株式会社竹尾

お話:5代目 竹尾 稠(しげる)さん(記事公開日:2014年9月22日、文:竹田令二)

■はじめに

――竹尾は、紙を基軸にデザインとテクノロジーを企業領域とし、汎用性のある一般印刷用紙の他、高級印刷用紙である感性素材「ファインペーパー」を主力商品として事業を展開している。更にはオフィス家具、物流 設備へと業容を拡大している。
「ファインペーパー」とは、印刷・情報洋紙の分類から言えば特殊印刷用紙になり、紙市場全体で言えば数%のニッチな市場にすぎない。少量生産・消費だが、日常生活の中で多種多様な用途で使われている。ファインペーパーは、色や風合い、模様などを施した情感を伝えるメディアで、製紙メーカーとデザイナーと共同で開発、創り出されてきている。竹尾の在庫商品の約360銘柄、9,000種の内、約30%は自社で開発された製品。更なる紙の可能性を追求した日々が続いている。
【竹尾のコーポレートトレードマークの「紙漉き小僧」。17世紀にドイツで刊行された「西洋職人づくし」から採った】

■初代 竹尾 榮一( ~大正3年[1914]没)

 私の祖父です。現在の三重県津市の出身で農家の5男でした。地元の第百五国立銀行(現百五銀行)の知己を得て、木綿・漆器・紙問屋の老舗、京都の柏原孫左衛門商店(現柏原紙商事)で奉公の後、明治24[1891]年の東京支店開設で上京しました。
 紙についての実務を習得し、明治32[1899]年の28歳の時に独立、創業しました。
 最初は、妻のふじのと2人で今の八丁堀に洋紙店を構え、その後、出版・製本業が軒を並べる神田に移転しました。当時、神田は大学や専門学校等の教育機関が次々に開校、それに伴い、出版関係の用紙を主に輸入紙や装丁関係の注文が増えました。竹尾のお得意先も数年後には300社を超え、明治40[1907]年に新社屋と倉庫を建て、今日の基礎が築かれました。
 しかし、初代は創業後、安定・成長期の最中、病に倒れ大正3[1914]年に44歳の若さで亡くなりました。祖母のふじのは浄土真宗高田派の明覚寺の出で、気丈な人でした。竹尾では歴代社長の祥月命日には、全社員でお参りをしています。
【榮一氏】
【明治43[1910]年頃の店舗】

■2代目 藤之助( ~昭和16年[1941]没)

 2代目社長は初代の甥です。豪放磊落で、仏心に厚く、先見の明があった方と聞いています。
 第1次世界大戦後の大不況に加え、大正12[1923]年の関東大震災で店を焼失するなど大変な時代でしたが、昭和4[1929]年には3階建てのビルの竣工、繁栄の基礎を築きました。戦時中は紙流通の指導者の一人として、統制下の業界運営に尽くしました。
 昭和12[1937]年に、合資会社から「株式会社竹尾洋紙店」にしています。「信用第一」「顧客へのサービス」「紙のデパート」をモットーに社業の発展に貢献しました。
【藤之助氏】

■3代目 榮一(2代)( ~平成10[1998]年没)

 私の父で、初代榮一の長男で2代榮一を襲名しています。小学生の時に父親を亡くしました。
 榮一は小・中学校時代は母方の里方三重県津の明覚寺(村田和上住職)に預けられ、津中学校2年に高田派の信者達とともに母ふじのと北海道苫小牧地域に開拓に渡り、北海中学、私立北海高校を卒業後、北大に合格しました。本人は農業をやりたかったようでしたが、母方の祖父に当る村田和上から「合格したら十分、帰ってこい」と大正14[1925]年に東京に呼び寄せられ、当時の竹尾洋紙店に入社しました。昭和に入ってからは、2代目社長の片腕として仕事をほとんど任せられるようになり、現存している一番古い見本帳1924年(昭和4年)も製作しています。
 社長に就任したのが昭和16[1941]年でした。戦中戦後の昭和19[1944]年から昭和23[1948]年までは、統制経済で会社は停止していました。その時期を乗り切り、戦後、紙とデザインを結び付ける今の基礎を作りました。榮一は「紙好き」で、色や質感を考え、「こんな紙を作りたい」と、戦前には特種製紙他と、昭和22[1947]年には日清紡績が加わって、輸入に頼っていた特殊紙の供給を両メーカーの協力で国内で開発、生産できるように注力してきました。
 外国にあって日本にない特殊紙を国内で生産するため、色々なテーマを製紙会社に持ち込みました。例えば、フランスの木炭紙、アメリカの白紙特殊紙他、数え上げたらきりがありません。
 更に、単に技術的にクリアーして国産化するだけでなく日本人にあった色合、風合をもった特殊紙を市場に提供するために、グラフィックデザイナーの原 弘(ひろむ)先生のお力をお借りしました。
 昭和36[1961]年に特種製紙と日清紡の協力で開発したファインペーパーで、原先生は毎日デザイン賞を受賞しました。高名な原先生と組んだことで、後に続くデザイナー皆様の「良い紙を使って、良い仕事をしたい」という気運が生まれ、市場の拡大に結びつき、グラフィックデザインの発展に寄与したと考えています。
 3代目の榮一が手掛けて市場に出した商品は50銘柄以上で、「特殊紙(ファインペーパー)の竹尾」の基盤を作り上げました。今もベストセラー商品として売れています。
 しかし、いい紙というだけでは“芸術品”になりかねません。見た人が使いたくなるような形で見せることが、需要を喚起させます。そのために、昭和40[1965]年に銀座松屋で製品見本市「creativity on paper-紙を生かした印刷デザイン」展を開催しました。現在も続く「竹尾ペーパーショー」の初めです。
「紙の文化」にも大きな力を注ぎました。創業70年記念事業に日本の手漉和紙の集大成「日本の手漉和紙」を、創業80周年に世界の手漉き紙を集めた「世界の手漉紙」を、創業90周年には「東西の職人図絵」を出版しています。竹尾のロゴマークの「紙漉き小僧」はこの「職人図絵」にあるものです。
 また、昭和34[1959]年から毎年関係先にお配りしているデスクダイアリーはすべて竹尾が開発した商品で作り、機能性充分なデザイン・センスを盛り込んでいます。毎年テーマを決め、ディレクションを著名なデザイナーの方々にお願いして、製作を続けて65年になりました。
 経営面では、見本帳を完備し、在庫を常備、価格表整備などのシステムセールスの採用や、多品種小ロットに対応すべくコンピューター管理による高層立体自動倉庫の導入等、先を見越した手を打っています。また、それまでは紙の業界は、メーカー→代理店→卸商という流通構造で、竹尾は東京で卸商(2次店)でしたが、昭和30[1955]年に特種製紙の開発品は代理店(1次店)となり市場の開拓を行ってきました。当然、代理店になると2次店に卸さなければならなくなり、主要都市に拠点を設ける体制が必要になりました。海外へも30年代後半から目を向け始めています。
 緻密で大胆な決断力、将来への先見性、包容力のある人柄から、日本洋紙商連合会や東京洋紙同業界の理事長など全国組織の紙卸商業界団体の長を歴任しました。昭和48[1973]年に会長に就任、藍綬褒章を受章、昭和54[1979]年勲四等瑞宝章を受章し、平成10[1998]年に91歳で逝去しました。同年には故人として宮内庁より産業振興功績者として叙位正六位を拝受しました。
【画像左:榮一(2代)氏、画像右:原弘氏】
【画像上:昭和初期の見本帳、画像下:360銘柄・9000種類が収録されている現在の見本帳】

■4代目 正一( ~平成21[2009]年没)

 2代目藤之助の長男です。就任した翌年、昭和49[1974]年に会社名を「株式会社竹尾」に商号を変更しました。4代目は実務型の人で事業の拡大を進めました。
 日本の高度成長期の潮流にも適応し、仙台・名古屋・札幌に支店・営業所を設立、流通でも高島平に流通センターを開設しました。
 紙は主に大型トラックで運ばれてきます。業務拡大だけでなく、倉庫周辺は交通渋滞が起こりがちになるため、都心から周辺部へと移転を迫られたこともありました。私の時代になってからですが、平成18[2006]年、江東区若洲に完成した湾岸物流センターは、コンピューター制御で、人手はお客様別に数量を仕分けする部分だけです。
 紙の見本を手にとって見ることができる「青山見本帖」(渋谷区神宮前5)は平成元[1989]年にオープンしています。その10年後、本店の「見本帖本店」は見本帖の旗艦店として従来のショップをリニューアルしました。
 海外へもこの時期に出店準備に入り、昭和59[1984]年に香港が現地法人として開設されました。その後の東アジア各地(マレーシア、バンコク、シンガポール、上海)の開設のきっかけとなっています。
【正一氏】

■5代目 稠(平成3[1991]年就任~ )

 私は昭和39[1964]年に慶応大学を卒業後、同業の紙専門商社を経て、米国に渡り、昭和43[1968]年にウェスタンミシガン州立大学を卒業しました。
 平成3[1991]年、社長に就任しました。
 継続は力なりです。デスクダイアリーは今後も続けていきます。当初、ペーパーショウは製品見本市としてスタートしましたが、今のペーパーショウはどのように紙を使ってもらうかという提案型にしています。3日間のペーパーショウには約18,000人もの多くの方々が来場されます。
 転機は平成23[2011]年の東日本大震災でした。開催直前でしたが、やむを得ず中止し、それを機会に見直しをしました。毎年開催から2~3年に一度にし、5~6年先の紙のトレンドを見て頂こうと思いました。そのためには社員一丸となって取り組まなければなりません。社員の知恵、社員がどれだけアンテナを張っているかで、商品開発は決まります。「社員たるものひとつぐらいは新製品を出せ」とはっぱをかけています。「こんな紙がほしい」と思い、「ないものは創る」です。
 周年事業も見直しました。100周年事業としてだけでなく、事業発展のスタートとなる周年事業として考え、110、120、130周年事業に活用できるものをと、ニューヨークにあった20世紀のポスター3,280枚のコレクションと書籍を購入しました。それを多摩美術大学に寄託し、共同研究できるようにしました。100周年は「20世紀ポスターデザイン展」新宿伊勢丹で開催し、110周年は平成23[2011]年に東京都庭園美術館で20世紀のポスター「タイポグラフィ展」を開催し好評を博しました。
 平成14[2002]年には「竹尾賞」を創設しました。デザインそのものに対する賞はありますが、竹尾賞はデザイン書籍を単なるブックデザインや造本、タイポグラフィなど視覚的、感覚的に表出される部分だけではなく、ヴィジュアル・コミュニケーションに関わるコンテンツやそれらが出版されるバックグラウンドなど大きな視野で総合的にデザイン書籍を選出、表彰するものです。
 平成21[2009]年に社内で保存されてきた見本帳を写真に残した「竹尾のファインペーパーの歩み 見本帳から辿るⅠ」(~1962年(昭和37年))をまとめました。「Ⅱ」は1971年(昭和46年)までのものです。社会で紙の立つ位置も変化しています。今はパソコンで誰もが自分の封筒なども作れる時代です。それまで加工素材だったものが消費素材に転換する時代を迎えていました。
 平成6[1994]年に、紙を消費財と捉え消費者に直接提供する「PCM竹尾」を設立しました。感性のある紙製品を百貨店、ホテル、セレクトショップ等を得意先に納品しています。
 量が勝負の世界は難しいものです。紙業界そのものも陰りがちですが、「竹尾は陽のあたる場所に居続けます!」。市場は東アジアから、そして世界から日本を見るグローバライゼーションで、欧州市場に平成19[2007]年より挑戦しています。
 竹尾は株式の半分以上、外部資本が入っていますが、今後もオーナー企業の精神を継続して、「絶えざる革新、創造する事に生甲斐と感動、そして時代にチャレンジするクオリティカンパニー」の新たな企業像を構築していきたいと思います。
―ファインマテリアルの企業から、「ものづくり」に立脚した付加価値を創造、提供するファインプロダクツの企業として。
 
――取材に訪れた際、社員の皆さんが立ち上がって、笑顔で大きな声であいさつしたのには驚かされた。竹尾社長は「社員が自分だけの殻に閉じこもって他の社員の動きに気づかないのはだめ」、という。社員のアンテナの感度がこうして磨かれているのかもしれない。
【稠氏】
【湾岸物流センター(上)とデスクダイアリー(下)】
●株式会社竹尾
千代田区神田錦町3-12-6
電話:03-3292-3611(代表)
http://www.takeo.co.jp/

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