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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第35回 神田川本店

お話:11代目 神田 茂さん(記事公開日:2014年3月27日、文:伊藤聡子)

■創業200年。町は変われど、ここのタレの辛さは変わらない

 江戸の総鎮守、神田明神のお膝元でもあるこの界隈には、かつて江戸城の賄い方が住んでいたことから「御台所町(おだいどころまち)」と呼ばれていた一帯がある。
 その一角に、築60余年の木造の日本家屋がある。高層化の進むオフィス街の中で、そこだけぽっかり時間の流れが止まっているかのような、落ち着いた佇まいが目を引く。うなぎの蒲焼の味は去ることながら、この建物に魅せられて暖簾をくぐるお客も多いだろう。
【店舗全景】
【店舗玄関 】

■初代 茂七(本名・宇田川 安次郎) (生没年不明)

 創業は文化2年(1805年)です。
 初代茂七は、江戸城の賄い方として働いていましたが、幕末に武士の株を売ってうなぎの商いを始めたのが、当店の出発点になります。
 万世橋のそばにかつて筋違橋という橋があり、その際に青物を扱うやっちゃ場がありました。最初は、そこを行き交う人達向けの茶店のようなスタイルでうなぎ屋を始めました。また、うなぎは生ものですから、神田川にうなぎを入れた籠を浮かしておけるという環境も良かったのでしょう。
 だからうなぎ屋は、川のそばに多くあったようです。
 うなぎは、今で言う「ファストフード」のようなものです。江戸のファストフードには、「そば」「すし」「てんぷら」が挙げられますが、ご多分に洩れず「うなぎ」も庶民の間では親しまれていました。市場に通う肉体労働者向けの商売でしたから、塩辛い味付けでしてね。代々その味が伝えられ、今日に至っています。
 タレは秘伝、門外不出といわれていますが、調味料の割合を秘伝というのではなく、代々絶やすことなく繋いでいくということに意味があるんだと思います。江戸のタレは醤油とみりん1対1が基本。今も同じです。
 当時は、うなぎを蒸さないで焼く地焼きが主流で、その後蒸すという工程が加わって、味も洗練されていったようです。
 
 初代茂七の生まれは、相州(今の神奈川県)神田村で、ここは寒川神社の米所でした。茂七は宇田川を名乗っていたので、『相州の「神田」村の宇田「川」』から「神田川」という屋号をつけました。今では、近くを流れる神田川にちなんで付けられたと思っていただいているお客様が多いかもしれませんね。(笑)
【神田上水の見守番屋は川を流れてくる芥などを拾い上げるのが任務だった。その傍ら上水を利用してうなぎ屋も兼業していた。店先の看板には「大かば焼」と書かれている。また、川岸にはうなぎを入れたと思われる籠が浮いている(「絵本江戸土産」二編六巻。国立国会図書館所蔵)】

■3代目 茂七(生没年不明)

 3代目はかなりの文化人だったようです。俳句や歌舞伎に親しみ、開花楼(料亭)などで開かれていた素人芝居の衣装を自宅の蔵に預かっていたり、神田祭の山車の面や衣装も保管していたようです。この界隈は、当時「講武所」という花柳界として賑わっていたこともあり、旦那衆の嗜みとでもいいでしょうか。ちょっとスケールが大きいですか(笑)。
 粋で羽振りがよく、ある時には地元(御台所町)の曳き山車を新調した際、山車人形の衣装を寄付したようです。しかも晴れの日用と雨の日用の二着も。
 そして当日、鳳輦が自宅の前を通らないと分かると、わざわざ山車の前に大の字に寝転んで、自宅の前を通るように朱引き(運行ルート)を変えさせたという逸話があります。大正景気のいい時代だったのでしょうね。
 花柳界が今の場所に移ってきたのは関東大震災後です。それまでいた神田旅籠町あたりが、いわゆる「講武所」という花柳界として賑わっていたのですが、先代達が音頭を取って引っ張りこんできたといわれています。なにしろ、うなぎ屋で芸者が入る店は当店だけだったようですから。
【浮世絵に描かれた各町会の山車。御台所町は上段右から5番目(神田明神所蔵)】

■4代目 柏木 正太郎(生没年不明)~9代目 神田 保ノ助(生没年不明)

 3代目の茂七が若くして亡くなり、後継者が幼かったことから親戚筋の柏木正太郎が店を繋いでくれました。
 この時代は、戦渦に巻き込まれた時代。さらに東京大空襲で家屋は焼けてしまい、残念ながら手元に資料などは残っておりません。
 ただ、店の命であるタレは人よりも先に疎開させたと聞いております。食糧事情が悪化してくると、うなぎの代用としてなまずを用いた蒲焼をお出しして、それもなくなるとうなぎは休業。当時は飲食店や食料品店には優先して配給がありましたので、飯屋のようなこともしていたそうです。
【創業当時の味を受け継ぐ蒲焼。炭火の香りと上品な脂の照りが食欲をそそる】

■10代目 神田 理二(みちじ)(生没年不明)、11代目 神田 茂(昭和27年[1952]生~ )

 私の父、10代目理二は、おかげさまで本業の傍ら、趣味の陸上にも力を注ぎました。平日はうなぎ屋の主人、休日は各地の競技場に出向き、スターターを務めていました。
 学生の頃、短距離走の選手として活躍し、社会人になってからは日本陸上連盟の役員として、東京オリンピックのスターターも務めさせていただきました。
 そのような父からよく言われた言葉が「よそ見をするな」。短距離走が専門の父だったからとか言うわけではなく(笑)、よそばかり眺めていると、いずれつまずき、転んでしまう。つまり商売も、目の前のものをきちんと見極め、邪念に振り回されるなということなのでしょう。一品商いという家業だからでしょうか、あえて変えないことが大切だと。
 最近は、国内産のうなぎの供給が低迷し、外国産の安価な蒲焼に押されてしまっています。また、蒲焼につかう竹串も南方からの輸入品がほとんどで、国産の竹串を手に入れるのも難しくなってきました。
 燃料の国産の炭も値上がり、ガスへ切り替えるうなぎ屋も少なくありません。確かに、手間暇かかかりますし、経費もかかります。10年、20年後は、どのようなやり方が良いのか、自問自答の日々です。
 ただひとつ私が確信しているのは、うなぎはやはりごちそうだということです。家族のお祝い事や大事な人のおもてなしに、みんなで食卓を囲んでいただくものであってほしいのです。そのためにも、お一人でもうちの味を愛してくださるお客様がいらっしゃる限り、今までのやり方を貫くことが私の仕事だと思っています。
【画像上:蒲焼に使う竹串。下側が国産品。竹の皮目や色に違いがある。皮目が多いと焼いたときに焦げにくく、持ちが良い。画像下:炭火でうなぎを焼くときに使う団扇。竹のしなりで扇ぎ方も違ってくる。かつては耐久性のある強い和紙を使用していたため、三週間位は使えた。今では、持っても一週間らしい】
【画像上:11代目 神田 茂さん。画像下:茂さんもご先祖譲りの数寄者のようだ。趣味でコレクションしている煙管と莨入れ。かつての旦那衆の上質な香りを感じる】
●神田川本店
千代田区外神田2-5-11
電話:03-3251-5031

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