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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第31回 株式会社玉川堂(ぎょくせんどう)

お話:7代目 齋藤 彰さん(記事公開日:2014年1月24日、文:亀井紀人)

■初代 和助 (明治9年[1920]没)

 創業は文政元年(1818年)。現在の店は神保町3-3で靖国通りの南側にありますが、創業当時は現在のホテルグランドパレス左側の飯田町中坂に店を構えていました。江戸時代は、今日の靖国通りの九段坂よりも中坂のほうが町人町として賑わっておりました。神田川畔には高杉晋作や桂小五郎の通った剣豪斉藤八九郎道場があり、南総里見八犬伝で有名な滝沢(曲亭)馬琴が中坂に住んでおり寺子屋をやっておりました。有名な馬琴の日記中に「玉川堂に筆を40本注文しに行った。後日、玉川堂に出来ているだけ10本筆を受け取る。」など玉川堂が頻繁に登場します。馬琴の日記からも筆屋として繁盛していたのではと推察されます。和助は律儀な性格で、文人墨客や旗本衆に愛され、堅実に店の基盤を整え信用を獲得してゆきました。幕末の会津藩最後の若年寄・西郷勇左衛門の明治3年の日記に会津へ帰国する折、講武所より千住まで送ってくれた和助との深いえにしを思い「出尽す 事も難しや 枝しげる 筆の林の 深きなさけは」と和歌を贈られております。御維新後、会津藩・南摩綱紀に伴われ、藩主松平容保候も玉川堂へお立寄りになった由、私は5代目虎起智より聞いております。
【江戸時代後期の九段坂・中坂あたりの賑わい。江戸の山王権現の天下祭りでは45台の山車が中坂をかけ上り、田安門から江戸城に入り、将軍上覧の栄に浴した由。はるか西に富士山、東京湾品川沖を眺めることができました。また今ある九段坂上の燈明台の光は、江戸港出入りの漁船の目標となりました】
【画像左:馬琴日記全4巻。この文政年間の日記に玉川堂が頻繁に登場。画像右:日記の一部を抜粋。9月8日の日記に「玉川堂江御筆二十対誂え。」と記されています】

■2代目 利喜造(明治42年[1967]没)、3代目 安太郎(大正4年[1915]没)

 初代和助の創った信用は、2代目利喜造、3代目安太郎へと引き継がれ、盤石なものとなってゆきました。幕府が大政奉還し明治新政府の下、旗本屋敷のあった今の神保町、駿河台には一ツ橋大学、中央、明治、専修、日大、国学院、学習院、暁星学園、開成中学と沢山の学校ができ、政府高官や学生に本を提供する本屋街が自然発生的に生まれました。玉川堂も縁あって中坂の小さな店から九段下俎板橋の船着き場近く、今川小路の幕末の大学者・木下順庵先生のお屋敷跡に、間口の広い店を構えるようになったのです。
 元々は筆屋ですが店の裏には広い庭と池があり、そこで「玉川亭」という茶亭(貸席)を開き、文人、墨客が集まって書画会を開き自分たちが持ち寄った書画を肴に鑑賞し楽しんだと謂います。ある時は東大の穂積重遠先生のご一党が集まり、当時の大学の講義はすべて英語や独語、仏語でしたので、それでは不便と皆で知恵を出し合い、適当な日本語訳を選定する会議にも使われました。他にも、初めて習字の国定教科書を書かれた東宮職御用掛・長三州先生が大分の大詩人・広瀬淡窓の流れをくみ、「玉川吟社」と名付け、月に幾度か漢詩を作る会を玉川茶亭で行っていました。(吟社=漢詩を作り楽しむグループ。詩の門弟二千人と称された神田於玉ヶ池の玉池吟社が有名で、当時東京には幾十もの吟社がありました)このように玉川堂は筆屋であるとともに、沢山の文化人たちの拠り所となる玉川亭と共に発展しました。この頃の文化人たちとのエピソードは枚挙にいとまがありません。
 明治28年小野塚喜平次、高野岩三郎、金井延、福田徳三など学者が集まり、社会政策学会を設立。社会改革の発祥の地となりました。当時、神保町には女子医大や順天堂大学があり、そこで助手をしていた野口英世が渡米されるに際し学友が集い、玉川堂の茶亭でささやかな歓送会を催した由。二松学舎で漢文を修めた夏目漱石は、学校を終えると九段の坂を下り、書と絵が好きだったことから玉川堂に寄り筆を買い求められました。麹町にお屋敷のあった永井荷風は、父親の使いで筆を買いにやらされ、その縁で晩年まで玉川堂の筆を愛用したと、その様子は昭和21年の永井荷風日記に克明に記されています。他にも斉藤茂吉、北原白秋、岡本綺堂、与謝野晶子、渋沢栄一、乃木希典、犬養毅などなど沢山の文化人に愛されました。また、坪内逍遥、島崎藤村など40人の友人が集まり北村透谷の一周忌を行いました。中華民国恭親王の孫で、有名画人・溥儒、満州国首相・鄭孝胥、張大干先生も大切なお客様でした。
【画像上:席亭・筆屋として営業した俎橋付近の絵。今の九段郵便局と船宿津久井屋があり、そこから猪牙船(早舟)が日本橋向島へと走りました。お江戸は水路の町でした。店は画面左下あたりに。画像下:当時の玉川吟社や書画会が開かれた玉川亭の様子】
【永井荷風の小説、随筆集「裸體」の表紙(画像上段左)と日記の一部(画像上段右)。画像下は「裸體」より抜粋した玉川堂の記述のある3月14日の日記。(旧字のものは新字に変換してあります)】

■4代目 壽雄(昭和8年[1933]没)、5代目 虎起智(昭和52年[1977]没)

 3代目安太郎の妻は歌舞伎の台詞(セリフ)の中にも登場する宝来豆で有名な小網町「宝来屋」の娘でした。安太郎には長女富美を頭に長男、次男、次女の四人の子供がおりましたが、長男壽雄は早逝、次男の隆は幼く、そのため長女の富美に一番番頭であった虎起智を婿養子に迎え、4代目を継がせます。(因みに二番番頭の石川氏は日本橋有便堂の初代であり、三番番頭の松下大作(虎起智の弟)は池之端喜屋の創始者となった。)いずれも著名な画材商です。
 私の父の義兄である5代目虎起智は、玉川堂の中興の祖と謂えます。6代目となる隆が幼かった故、婿養子として玉川堂を継いだのですが、6代目となった私の父、隆も53歳の若さで亡くなり、その後も私を含む家族をしっかり支えてくれた大きな存在です。書道界の重鎮として尽くした一生でしたが、趣味も豊富で、観世流の謡曲は、梅若猶義先生の下で三井総家の三井八郎衛門氏とは謡曲のお仲間として、三田綱町の三井倶楽部など出入りしていましたね。虎起智の趣味は幼かった私にとって大きな影響も与えてくれました。小学生のころからよく歌舞伎座や水道橋の能楽堂に連れて行ってくれたのです。実はそこで出るお弁当が楽しみでついて行ったのですが、「勧進帖」や「隅田川」など謡曲の鼓の音を聴いたとたんに心が躍りました。骨董屋巡りにも子どもの頃から一緒して親しむことを教えられ、それは私にとって今も続く楽しみとなっています。
【最前列、右から3番目が5代目虎起智。虎起智の左隣は私の母(6代目隆の妻)喜美、一番左が7代目となる彰。店前にて】
【虎起智の謡曲のお仲間の三井八郎衛門氏がしばしば謡曲の宴を開かれた大正2年設立の三田の三井倶楽部。私も小学校生の折、訪れては宝生会館同様能を鑑賞しました】

■6代目 隆(明治42年[1909]生~昭和38年[1963]没)、6代目女将 喜美(大正6年[1917]生~平成23年[2011]没)

 5代目虎起智と富美の間には女子が誕生しましたが、虎起智は安太郎の次男で私の父、隆に家督を譲ることを心に決めていました。隆は当時淡路町にあった開成中学を出ると進学せず、店を継ぎます。「兄(壽雄)が早逝しなければ、本当は商科大学(今の一ツ橋大)に行き商社マンになりたかった」と言っていましたが。
 父の時代での大きな出来事は、第二次世界大戦の敗戦後、GHQによる習字の廃止によって書道文具業界の苦境が続いたことです。そうした中、父は書家の先生たちと一緒に書道界挙げて習字の復興運動に取り組みます。功を奏して業界内に活況の兆しが見え、昭和23年に書道が日展五科に加入を認められ、同年第1回毎日書道展が開かれるなど書道熱の気運が急激に高まり、やっと書道界にも将来の展望が開かれてきました。書人の多くはいずれかの結社に帰属して、結社の活動も軌道に乗り展覧会の開催も華々しくなり、戦後の経済成長と共に書の世界も発展していったのです。昭和47年日中国交回復の条約締結の際、田中角栄首相が毛沢東主席への御土産に玉川堂製の馬毛の太筆を持参されたのも父の代の大きな出来事でした。父の果たしたことでもう一つ、江戸末期から明治にかけて文化人たちの拠り所となった玉川亭の復活です。震災、戦災で途絶えた集まりの場を提供したところ、神保町の店の2階は毎晩のように書家の先生たちの集いが行われるようになりました。父は柔和な性格で、周りの誰からも愛された人です。いつもはよく蝶ネクタイを身につけるモダンな人でしたが、着物姿が良く似合う人でした。当時流行の社交ダンスが大好きで、飯田橋や銀座のダンスホールに通いタンゴを踊っておりました。
 そんな父でしたが、志なかばで昭和39年のオリンピック開催の前年、癌のため53歳の若さで鬼籍に入りました。店を継ぐにも、当時私は慶應大学三年、弟の夫治雄は高校卒業したてだったため、止む無く隠居をしていた虎起智とともに、母の喜美が店に立つことになりました。
 母喜美は戦後14あった宮家の一つ、渋谷の梨本宮家に行儀見習いに上り、梨元宮守正王と伊都子妃の下24歳まで奉公を務めておりました。縁あって父の元へ嫁ぐことになり、父がいない間は店を取り仕切っておりました。このことが図らずも、父が病に倒れた後も店舗経営に支障をきたさなかったことに繋がったのでしょうね。父の亡き後、夜遅くまで甲斐甲斐しく働く姿を今でもよく覚えています。
 笑顔が優しく慈愛を含んだ眼差しの印象が強い人でしたが、それでいてなかなか太っ腹で胆が座っておりました。私が家督を継いで引退してから、80歳まで世界各国を旅して回り、和泉雅子さんや今井通子さんとともに南極や北極、エベレストのベースキャンプに訪れたり、中国敦煌、チベット、アフガニスタン、エチオピア、南米アルゼンチンなどなどを回ったほどです。正に“胆っ玉かあさん”だった母の奮闘があったからこそ、今日の玉川堂があるのです。
【画像上:6代目隆の写真。右が6代目隆氏、左は7代目彰氏(慶応高校1年生)。店前にて。画像下:梨本宮妃伊都子様(2列目中央)を囲んで、縁の人々の梨葉会。昭和22年頃、星ヶ岡茶寮にて。2列目向かって右から2人目が6代目女将喜美。前の子供が彰と夫治雄】
【画像上:昭和47年日中国交回復時、田中首相が毛主席への御土産に玉川堂の「驃騎(ひょうき)大将軍」銘の大筆を持参されました。画像下:吉田茂の書。戦犯で処刑された文官広田弘毅に宛てて書いた書。犬養毅や吉田茂、田中角栄、中曽根康弘など歴代の首相も、皆様玉川堂の筆の愛用者でした】

■7代目 彰(昭和17年[1942]生~ )

 地元の錦華小学校、一ツ橋中学、慶応高校、慶応大学と進みましたが、一ツ橋中学では、大分県知事の広瀬勝貞氏や画筆で有名な得応軒の宮内社長と御一緒でした。大学では元総理大臣の小泉純一郎氏と同期でした。卒業後は、血が騒ぐと云うのでしょうか、私も父と同様に商社マンになりたくて大学を出て商社に入社しました。6年目のこと米国駐在員としての赴任話が持ち上がった時、この頃後見人として店を見守っていた虎起智が玉川堂の後継問題が大幅に遅れてしまうと危惧し、私の勤める商社の創業者の処まで出向き直談判。よって私は円満退社となり、家業に就きました。父からは店を継いで欲しいと言われたことはありませんが、義理の祖父からは子供のころからサインを送られていたようです。私が家業を継ぐこととなった時代は日本経済も我が業界も昇り坂の時であり、書道人口もピークを迎えていた一番良かった時で、店は順調に運びました。平成元年、バブル景気の真只中に、店の建て替えに踏み切りました。古い店を壊すに際し、小さな店でも江戸、明治、大正、昭和と連なる先祖の思いがあることを感じて深川の菩提寺に法要をしていただき、地元の三崎神社山崎宮司にお礼のお払いをしていただきました。自分は無からでなく有からの出発ができたこと、ここまで店を潰さずにやれたのは先祖のご苦労があってこそと。その思いに感謝いたしました。
 偶然ですが昭和天皇の1月7日御大喪に前後して、100年以上経った木造の店を壊す最後の夜、何か忘れ物がないかと眠れなかったので、電気の止まった店を見に行きました。真っ暗な中3階への木の階段を上りますと、階段脇の隙間に見慣れぬ屏風があり、何気なく観音開きのそれを広げると、新年に必ず帳場に飾る赤い屏風だったのです。その真ん中に私どもの大恩人、鈴木翠軒先生の「玉川堂」の文字が金箔紙の上に書かれておりました。この時、私の気持ちとご先祖の心が繋がったと安心し、平成元年1月10日の朝を迎えました。新しい玉川堂の出発日でございます。
 これからの玉川堂のことを考えると、時代は大きく変わりました。どの商売も同じように大変でしょうが、高齢化がますます高まり、趣味も多様化しています。扱う筆だけでも何百種類となりますし、紙も質や色を多品種用意しませんと商売になりません。それに、世界が身近になったのでしょう。西洋人でも東洋文化、日本文化に理解ある人が増え、店を訪れる外国人客は確実に増えています。自国では買えない高価な良品を求めてわざわざ来店くださる中国人や台湾人、韓国人の方もおられます。最近ANAのガイドブックに取り上げられたら、それを見て早速訪ねてこられる方も。そんな傾向を見ると、8代目の息子征一と一緒に世界に開かれるホームページをしっかりしたものにしなければと話し合っています。
 妻雅子は京都で代々続く陶芸工房「土渕陶あん」の一人娘で私の最高のパートナーであり、最大の働き者です。弟の夫治雄も片腕となって私を支えてくれております。
【孔子直系77代後裔(2500余年間)孔徳成(こう・とくせい)氏。77代目は日本に来ると必ず山本書店始め、神保町の本屋街を訪ね、最後に玉川堂で純狠毫の筆を買って行かれます。中央が77代目孔徳成氏、左が彰、右が妻の雅子。来店される際には孔徳成氏が70年前10代の時に書かれた対聨の書(棟墨試磨新賜硯 焚香還読旧傅経(旧字は新字に変換してあります))を店頭に掲げてお迎えします。最後に玄関前で両手を合わせられ、温かい手で握手されお帰りになります】
【7代目のポートレート。店内にて。後ろは100年以上前大正時代に作った桐の引き出し】

■8代目 征一(昭和55年[1980]生~ )

 大学を出て茶道具の老舗・味岡松華園にて先代・現主人のお教えの下で修行いたしました。
 玉川堂に入って4年目ですが、商品の筆、硯、墨、紙、書籍とそれぞれ巾が広いので覚えることが多く大変ですが200年以上に渡りたくさんのお客様にご愛顧され、助けていただいた歴史に囲まれて楽しく仕事をしています。これからの彼の努力、工夫による発展が楽しみです
【7代目、8代目揃ってのポートレート。右が8代目の征一氏。持っているのは白馬毛の大筆】
【現在の玉川堂の看板・丹羽海鶴の筆による。明治時代の昔の店には高杉晋作の幕客野村素介の看板がありましたが震災で焼失。昭和の御代に店を新築し、昭和3年(戊辰)の時、丹羽海鶴氏のところへ、玉川堂第一の職人に作らせた日本一最上の尾脇毛(馬毛)の「潮風」筆を持参し揮毫していただきました。看板は欅の大板で今日までに85年経ちましたが腐らず、朽ちず、びくともしておりません】
●株式会社玉川堂
千代田区神保町3-3
電話:03-3264-3741
http://gyokusen-do.jp/

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