KANDAアーカイブ

神田学会
お知らせ 神田資料室 神田マップ 神田写真館 百年企業のれん三代記 神田の花咲かじいさん 出版物紹介 神田学会とは 神田学会資料請求 関連リンク Perspectives in English 神田アーカイブとは リンクについて 問い合わせ

百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

印刷用

第25回 株式会社小山弓具店

お話:8代目 小山雅司さん(記事公開日:2013年6月13日、文:亀井紀人)

■初代 小山源祐(安永9年[1780]生)

 菩提寺の記録を辿ると、小山家の先祖は私から16代前に徳川家康公の江戸開府に五石二人扶持の下級武士として三河から移住し、薪炭調達係として仕えていたらしいことまでが分かっています。
 弓で生計を立てるようになったのはそれから8代先、小山家の娘婿の源祐で小山弓具の創始者といえます。文化2年(1805年)のことです。
 小山源祐は弓が好きで自作の弓を試していたところ、「よく飛ぶ」と評判になり、ついに江戸弓師として独立を果たしました。
 弓矢は全長120mもの縁を南北に矢を射通す「京都三十三間堂」の「通し矢」に代表されるように諸藩が「天下惣一」を争う競技として発展していました。
 保元元年(1156年)から慶長10年(1605年)までの約450年間の通し矢は、武士たちが弓矢の上達を祈願するために行われていましたが、戦乱の世が終わると、それ以降は諸藩が「天下惣一」の掲額を争うためになされたものでした。慶長11年(1606年)尾洲の浅岡平兵衛が100射中51筋通して以来、これが刺激となって通し矢を試みる者が急増し、三十三間堂は「天下惣一」を争う競技場と化していました。
【江戸時代の弓道の絵。武士の間で競技として流行った(小山弓具所蔵)】

■2代目~4代目

2代目 光盛  寛政10年生(1798年)
3代目 隆景  天保5年生 (1834年)
4代目 得蔵  安政5年生 (1822年)
【江戸時代の弓道の絵(小山弓具所蔵)】

■5代目 清三郎(文政11年[1828]生~ )

 三十三間堂で行われた「通し矢」は江戸でも行われ、弓矢は藩が争う競技用として大変盛んになりました。しかし各藩が威信を掛けて一昼夜24時間で13,000本余射るこの競技は大変お金も掛かり、記録を出せない者が腹を切るなど有為な人材をなくすことに批判が出て廃止となり、弓道は衰退の時代に入ります。
 それでも、この頃の江戸の花街には、町矢場と呼ばれる遊技場があちこちに出来、賭け弓が流行るなど町の旦那衆の娯楽の場として繁盛しました。この時代、2、3軒の矢場をお客に持てば一家は楽に暮らせたそうです。
【三十三間堂通し矢の絵(小山弓具所蔵)】
【江戸時代花街の矢場の絵(左:『江戸と東京風俗野史』図書刊行会、右:『江戸風俗図絵』柏美術出版)】

■6代目 勝之助 (慶応元年[1865]生~昭和2年[1927])

 慶応3年(1867年)大政奉還があり、時代は江戸から明治となり廃刀令が出され、武器である弓矢の市民権が一時失われました。6代目勝之助の初期の時代、弓師では生計が成り立たず、弓具に使う藤で藤細工や椅子などを作ったこともありました。小山弓具の歴史で最も辛かった時代と謂えます。
 明治28年、小山弓具に転機が訪れます。京都にできた大日本武徳会が、再び弓道はじめ各種武道を包括し奨励普及を図ることになったのです。明治35年には「武術優遇例」が制定され、明治38年京都に武術教員養成所が設置されました。そして勝之助は、神田猿楽町の小笠原宗家(神田教場)に、御用弓師として出入りを許されることになります。今も続く小笠原宗家とのご縁は6代目から始まりました。
 勝之助は、私の祖父にあたりますが、直接の接触はありません。父や先輩諸氏からの伝え聞きでは「仏の小山」と謂われるほど温厚な人物だったようです。反面躾には厳しく、間違ったことをすると、いつも使っている愛用の長い箸で叩かれたそうです。 楽しみはお酒で、まるでお茶を飲むように好きな酒を飲んでいたそうです。
【小笠原流式絵巻より(小山弓具所蔵)】
【6代目勝之助のポートレートと須田町2丁目の実家前での家族写真。右から2人目が勝之助】

■7代目 茂治 (明治37年[1962]~昭和59年[1984])

 私の父茂治は8人兄弟の4男坊で、10歳のとき家を継ぐか僧になるかの二つの道の選択を迫られ、根津在住の弓師吉田音吉の下に口減らし同然のように預けられます。小学校は吉田家から通い、兵隊検査まで奉公していました。雪の降る日に素足で弓を担ぎ使いに行ったことや、教わっていないことを出来ないと、「普段よく見ていないからだ」と殴られたり。そんな経験もあってか「仕事は盗んで覚えろ」「生涯修業」が父の口癖でしたね。
 関東大震災後、神奈川県伊勢原の安田家に住み込み職人となり、兵役を終え、福島県平の斉藤勝原弓具店に弟と二人で移り、昭和2年実家に戻り7代目として始動します。
 神田猿楽町の小笠原宗家に改めて出入りを許され、小笠原清明先生から「御弓師」の看板をいただき、当流の式弓を作る唯一の店になれました。
 戦時中は陸海軍の御用達、そして昭和8年の今上天皇ご誕生には全国学校連盟より献上弓の製作を依頼され、弟の博と無事納入したことをよく話してくれました。
 この頃の先代の自慢は、朝から晩まで寝る間を惜しんでよく働いたこと、また弓具店として初めて自家用自動車を2台持つなど、当時としてはかなり時代の先端を行っていたようです。
 家業は順風万帆とも謂えましたが、よき時代は長続きせず、太平洋戦争になり職人が徴兵され、弓具店は休業状態になりました。幸い海軍に出入りがあったので海軍将校用の軍刀の製作の仕事を引き受けて事業を継続していきましたが、片腕と頼む弟博の戦死を知り、さすがに悲しく辛かったようです。
 敗戦後は、弓を引く人もなくまた、占領軍の古武道中止命令で弓具店を営めず、兵役時代に身につけた電気知識を生かした電気モーターの再生販売業をしつつ、武道の復活を待ちました。
 昭和26年頃、愛弓家も次第に増えていき、弓具店への完全復帰をしました。しかしながら6人の子供を持つ大家族、弓士は少なく暮らしは楽ではありません。そのため神社に破魔矢、破魔弓、御礼の串などを納め生計の足しにしていました。世の中の景気が良くなるに連れ、弓士も増え昭和32年に淡路町から須田町に店を移して、学生弓道の復活も相まって家業は順調に進みました。
【今上天皇(当時の皇太子)誕生祝の献上弓を作成する7代目茂治】
【昭和10年ごろの店の看板を付けた自家用車と679号と印刷された警視庁発行の父の免許証 】

■8代目 雅司(昭和19年[1944]生~ )

 6人兄弟の末っ子の私が、弓具店を継ぐことになったのは、子供の頃から勉強が嫌いで、勉強よりも面白そうな父の仕事ぶりを見て手伝うようになったからでしょう。兄もいましたが、皆違う道へ進みました。父の考えは生活の安定しない職人は苦労ばかりが多く、そんな苦労は俺一人で充分と言いたかったようです。子供たちには決して店を継ぐことを勧めず、もっと安定した職業を選びなさいという方針でした。
 私は中学生の時からずっと店の手伝いをしていましたが、大学を出るとき、当時はスポーツが好きで運道具関係の仕事に就いてもいいなと思っていました。そんな矢先、父から「お前の好きなようにしろ」とポンと実印を渡されました。
 後日、経営者のお客様から宮仕えのサラリーマンになるよりも、自分の意思が通る家業を継いだほうがいいぞと助言をもらいます。そこで考えました。淡路町の家を貸しビルにして家賃収入を得ることで、職人最大の問題点である安定収入を得ようと考え、早速実印を持って銀行に掛け合いに行ったのです。21歳の若造に対して全く相手にしてくれなかった銀行と、親身になって相談に乗ってくれた銀行がありました。その後の銀行とのお付き合いは皆さんの想像どおりです。無事ビルは竣工し、次には7年後の28歳で現在の須田町1丁目にもビルを建てました。
 不動産収入という基盤を確保し、弓具職人としての仕事に専念出来る体制が整いました。私が心血を注いだのは、新製品の開発です。弓の世界では昔から、買った竹弓は一度でも使えば折れても保障はしないという決めごとがありました。しかしこれを改善しないことには、若い弓師は育ちません。そこで学生時代やっていたスキーの板も洋弓も既にグラスファイバー(以下グラス)を使っていたことに気づき、和弓でも出来ないかと、何度も試作品を作るなど試行錯誤を繰り返し、やっとの思いで昭和46年の和歌山国体で発表しました。
 ところが今までの和弓の常識を破るこの試みには、各所から猛反発が起きます。そんな折、理解を示して下さる方がおられました。全日本弓道連盟会長、中野慶吉先生です。先生があるとき店に立ち寄り、「今、連盟の会議で『グラス弓は日本弓ではない、すぐに禁止して下さい』というから『わかった禁止してやろう、だけど年々高騰する竹弓の価格をグラスの様に安価にそして、何本引いても壊れない弓が供給できるならばね。グラス弓は学生弓道の発展には必要だ』と言ってやった」。この先生の一言で、グラス和弓は市民権を得たのでした。今や学生弓道のほとんどがグラス。強くて、扱いやすく、価格も安い。底辺拡大に大いに貢献できました。
 矢も竹矢からアルミ矢の普及に力を入れました。弓と同じ理由で拒絶反応が強かったのですが、現在の学生弓道で使われているシャフトのほとんどが米国イーストン社のアルミ矢です。イーストン社との代理店契約を結ぶには何度も断られましたが、粘り強く本国へ乗り込み、先方の社長に「今は4人の小さな会社だが、100年後も変わらず弓具店をやっています。将来は10万、20万本と発注できる会社にします」と。先方も米国で3代続く会社で心が通じました。正式に輸入代理店契約を獲得し、今や年間30万本を輸入できるようになっています。
 
 平成元年、弓師として一番の名誉ある仕事が来ました。今上天皇の即位の礼の弓と矢の製作です。見本はなく、時代絵師が正確に写し記録した絵と仕様書だけです。まずは職人と仕事の分担を決め、試行錯誤の連続が始まりました。納品の期限はしっかり決められているため、見たことのない材料を捜し、蒔絵師の協力を要請するなど、てんてこ舞いでした。
 この仕事は、昭和天皇の崩御で喪に服している最中、お祝い行事の注文書など出せないという理由で正式な注文書がもらえず、断られたらという不安がありましたが「小山さんにしかこの仕事は頼めない」という言葉に励まされ、大礼の一ヶ月前に完成。警察の警備のもと、皇居の乾門をくぐったその時の充実感は、一生忘れられません。
【今上天皇の即位の礼の弓と矢の製作スタッフと完成した作品。中央が8代目雅司氏。今上(平成)天皇については小山家親子2代に渡って誕生祝と、即位式の献上弓を作る栄を賜り、納めている】
【日本弓は竹の繊維を炭化させて曲げ、弾性を強化する。これを800年前からしていることは日本人の知恵のすばらしいことだという事実を知り、それがきっかけで沢山の試作品を作り、昭和62年やっとの思いで完成したカーボン竹和弓「清芳」。戦後2度目のお堂に上がることを許され、この矢をもって三十三間堂の通し矢に挑戦し、見事矢を通す。この模様はTBSテレビでも取り上げられた。写真下、弓士の右が8代目小山雅司氏】

■9代目 塙 将一(昭和48年[1973]生~ )

 幸い次女夫婦が跡継ぎとして修業を経ようとしてくれています。平成12年(2000年)から正式に夫の将一が会社の社長に就任しました。異業種からの転進ですので今までは覚えることでいっぱいでしょうが、これからは会社のリーダー・経営者として活躍して欲しいですね。8代目の私が継いだ時点で4人だった社員は今35人となりました。当社の社員は夫々特殊な技術を持った職人さんたちです。彼ら夫々が持っている技術に追いつく必要はなく、その技術を見る目を持ち理解し、そうですね、オーケストラのコンダクター(指揮者)のような存在になって欲しいと思います。
 本人も10代目、11代目と絶やさぬよう頑張るのが、自分の使命だと言ってくれています。
【右が8代目小山雅司氏、左が9代目塙将一氏。須田町本社店内にて】
●株式会社小山弓具店
千代田区神田須田町1-6
電話:03-3256-2001
http://www.koyama-kyugu.com/

戻る

ページの先頭へ
ホーム ホーム