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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第24回 株式会社新進

お話:4代目 籠島正直さん(記事公開日:2013年4月24日、文 亀井紀人)

■初代 籠島忠作 (明治27年[1894]生〜昭和7年[1932]没) 

 創業は明治27年5月24日、新潟県中頸城郡黒川村(現・上越市柿崎)出身の、私の曽祖父籠島忠作が群馬県高崎町(現・高崎市南町)で焼麩とでんぷんを製造販売する籠島忠作商店を創業したのが始まりです。新潟の長い冬の食料として珍重されている焼麩関連の商売を考えていた忠作は、高崎町で広く商売を営んでいた叔父の忠平の紹介で、東京浅草の麩とでんぷんを製造する店に奉公に出ます。そこで技術を身につけた忠作は原料となる良質な小麦の産地である群馬の高崎で、製粉屋から麦のふすまに近い部分を分けてもらい、そこから生成されたタンパクは焼麩に、でんぷんは糊にしました。
 叔父忠平の娘ミツと結婚した忠作は、麩は市内、県内の小売商に卸し、精製でんぷんは織物加工用の糊として染料商に販売します。夫婦揃っての真面目な働きぶりと共に、業績は順調に伸びて行きました。その頃の一番大きな取引先は、織物生産では群を抜いた栃木県足利市の染料店で、のちに忠作の息子の常太郎(2代目忠作)がこの店に奉公に出ることになります。 
 明治44年3月に利便性の高い前橋市神明町(現・大手町)に工場と店舗は移転され、翌年には新潟県高田市(現・上越市)に分工場を設けました。
【初代忠作(47歳)のポートレート。大正6年撮影】
【初代忠作の新潟県中頸城郡黒川村(現・上越市柿崎)にある生家(上)と明治45年より4年間営業していた、新潟県高田市の籠島麩店(下)】

■2代目常太郎(明治45年[1912]頃生〜昭和7年[1932])前期

 私の祖父にあたる2代目は当社の中興の祖といえる人物です。苦労の多かった足利の染料店での奉公から戻った常太郎は17歳の頃から父の仕事を手伝い、籠島忠作商店運営の基礎固めを行いました。常太郎は2代目襲名の前から、さまざまな改革をおこなっています。明治から大正に移り変わる時代の中、若い常太郎は、昔かたぎの商いを変えようと意欲的でした。まずは仕入れの現金化など財務体質の強化に取り組み、次には大手問屋の開拓など販売体制の充実化を図ります。
 昭和5年には、現在の当社の礎ともいうべき高級福神漬「新進漬」および各種漬物、佃煮の瓶缶詰の製造販売を始め、同年に東神田に店舗と倉庫を設置しました。当社にとって焼麩商から漬物商への大きな転換を迎えたときだったといえます。その後、販路は順調に拡大し、遠くは中国、ハワイ、北米に輸出されるようにまでなりました。
【籠島常太郎(後の2代目忠作)のポートレート。28歳当時。撮影大正11年】
【画像上:新進漬発売1周年の記念撮影。後ろの暖簾看板の文字は、浅井清吉氏の書による。撮影昭和6年。画像下:新進漬大売出しのお知らせとチラシ。昭和6年】

■2代目忠作(昭和7年[1932]〜昭和41年[1966])後期

 昭和7年常太郎は父の亡き後を継いで、忠作を襲名します。昭和8年小麦澱粉の同業者の昭和化学(名古屋)でグルタミン酸ソーダの製造を始めたことを知り忠作は直ちに同社を訪問し、その販売の申し入れ快諾を得ました。後の大ヒット商品となる調味料「ミラクル」の誕生です。翌年には台湾の大手製糖メーカーと大きな販売契約が結ばれ、同時に「新進漬」も台湾で好評裏に展開できたのです。
 昭和15年忠作は籠島忠作商店の法人化に踏み切り、4つの会社を興します。製造部門は本店を前橋に「籠島食料工業株式会社」に変更しました。
 平和が長続きしない時代でした。昭和16年、太平洋戦争が勃発します。多くの物資が統制されましたが、食品製造業である当社も軍需向け以外、原料の入手が困難となりました。忠作は軍に働きかけ、「磐石糊」(小麦グルテンを加工して作る強力な接着剤)を軍靴の皮の接着用として陸軍に、漬物は福神漬の酸味を強くしたものを「勝利漬」という名称で海軍に納入することが決まり、小麦粉、塩、砂糖、醤油等の必要資材が入手できるようになり、多くの人の雇用が確保出来ました。
 昭和20年終戦間近に前橋は最大規模の無差別爆撃を受け、籠島食料の倉庫は直接被弾により全焼してしまいました。不幸中の幸いで前橋工場は被災を免れ終戦後、それまで見習士官として服務していた萬亀(3代目)が復員し、前橋工場長として働くこととなります。戦後の物資不足の中で、特に食料がなかった時、籠島食料では軍納していた「磐石糊」の副産物でできる澱粉がタンクや大桶にたくさん貯蔵されていました。それを澱粉餅にして、被災した前橋市民に寄付をし、喜ばれた記録があります。
 昭和22年から24年にかけては当社にとって大きな節目を迎えます。忠作は、味の素さんとのご縁からグルタミン酸ソーダの製造に着手し、同時にアミノ酸から生まれた調味液「味楽(ミラクル)」液の製造を始めることになります。調味料市場への参入です。
 前橋には「ミラクル」専用の工場も建設され、量産体制が整うと国内はもとより世界各国に輸出されていきました。
 昭和23年5月籠島食料工業株式会社を新進食料工業株式会社と改称し、本社を千代田区神田須田町1丁目6番地に移転します。
 
 祖父との思い出は、会社では人を寄せ付けない強さと威厳を持ったワンマンでしたが、長男の初孫である私は別格に可愛がられました。祖父は私を膝に乗せて晩酌をするのが楽しみだったようですが、ともかく怖い人というイメージが強かった私はそこから早く逃げたい一心だったことが鮮明に思い出されます。
 私の中学生時代、足を骨折したとき祖父が見舞いに来てくれました。優しく何が欲しいかと聞かれ、当時流行のエレキギターが欲しいといって叱られたことを思い出します。このお願いは叶いませんでした。
 会社でも家でも怖がられていた祖父ですが、祖父が一人で杖をついて工場へやってきたとき、祖父のことを知らない守衛さんが「爺さんここからは危ないから、入ってはだめだよ」と注意すると「わしは籠島忠作だ!なにがいけない!」と言った祖父に「誰だろうが、だめなものはだめです!」と断られ、入れなかったそうな。後日、祖父はしっかりした守衛がいると言って喜んでいたそうです。
 また、物が不足していた時代に、切れた荒縄を捨てる社員に「捨てればただのごみだが繋げば縄としてまだ使える」、釘が落ちていたのを見て「踏んだら危険な釘だが、拾えばまだ使えるではないか」と言って拾うなど、物を大切にすることには厳しく指導した人物でした。
【画像上:東京工業試験所より送付された「ミラクル」の分析結果と、商標登録通知(昭和6年登録)。画像下:日本橋三越地下一階で、量売りによるミラクルの宣伝売り出し。撮影昭和31年頃】
【画像上:千代田区神田須田町東京本社社屋。撮影昭和20年代後半。画像下:千代田区神田佐久間町(旧本社の場所)東京支店時代。撮影昭和27年頃】

■3代目萬亀(まき)(昭和41年[1966]〜平成2年[1990])

 6人兄弟の長男の父は、昭和20年終戦を迎え、9月に復員し、前橋工場長として祖父と共に働くこととなりました。
 昭和33年、日本人の食生活の欧米化が進んだ時代背景の中、当時副社長であった萬亀は世界の食品業界を回って見聞を広めようと、視察旅行にでかけます。アメリカの大手食品メーカー工場を見学した際、どこへ行ってもスタンゲ社のマークの缶があり、興味を持ちシカゴの本社を訪ねてみると、スパイスの会社でした。今後欧米化する日本の食文化に、スタンゲ社のスパイスは必ず必要になると萬亀は思い、同社と業務提携します。昭和39年日本スタンゲ株式会社を設立し、初代社長に萬亀が就任しました。会社はその後、順調に業績を伸ばし、現在では大手食品会社の調味部門の開発までお手伝い出来るようになり、必要とされる外注先(アウトソーシング)として活躍しています。
 当社にとって「和」の領域から食品工業用のスパイスで「洋」の領域へも進出した第一歩でした。
 昭和30年以降、それまでの樽詰、量り売りから小袋詰の漬物が主流になり、長期輸送に耐えれる保存が大きな問題となりました。そこで防腐剤の使用を最低限に抑えるため、低温殺菌の設備と包装の自動化も同時に進めました。これは当時の食品業界で初めての導入でした。
 昭和41年萬亀は3代目社長に就任しますが、忠作への襲名はしませんでした。本人曰く、「萬亀の名は大変気に入っており捨てがたく」。父に倣って私も襲名をしていません。襲名は2代目までです。
 昭和46年には手狭になった神田須田町から、神田佐久間町3丁目に本社社屋を新築竣工し、移転しました。
 父の時代の大きな仕事として、「しんしん」の宣伝戦略によるブランド化でしょう。昭和48年当時の人気タレントであった藤村有弘を起用してのテレビCMで、サウンドロゴに乗せた「しんしん」の呼びかけは効果的で、かなり浸透できたと思います。続いて昭和63年にはビートたけし率いるカレーショップ北野印度会社と業務提携し、ビートたけしのCM起用によって売り上げが大きく増大したことは言うまでもありません。放映後1ヶ月で、しんしん漬(福神漬)の都市部でのシェアは7%からいっきに51%まで上がりました。その年のフジテレビの広告大賞で入賞もしました。
 
 父との思い出はたくさんあります。6歳の時から晩酌につき合わされ、16歳になると銀座にも連れて行ってくれました。海外にも一緒に遊びに行きました。お客様とも私とも楽しく付き合ってくれる洒脱な父でしたね。楽しい思い出ばかりです。なんといっても自分から常に目を私に下ろしてくれていましたね。
【画像上:3代目萬亀のポートレート。画像下:日本スタンゲ川越工場。撮影昭和64年】
【画像上:昭和46年7月竣工の千代田区神田佐久間町旧本社ビル。画像下:ビートたけしと握手する3代目萬亀社長。この出会いが、販路拡大の大きな布石となった】

■4代目 正直(平成2年[1990]〜 )

 男の私は大学卒業後、三井物産に就職しました。父は後継ぎとして戻らなくていいと言っていたのですが、8年目のこと物産でシカゴに留学させてもらえる話が起きました。喜んだ私は父に戻らないからと宣言。すると、2週間ほど経って父が私の上司に掛け合いに来て、結果引き戻されました。父はいつか戻ってくるだろうとタカを括っていたのでしょう。三井物産のその時の上司とは、今でも楽しい飲み仲間です。
 会社の平均寿命30年説がありますが、商品の寿命も30年と謂えます。私が社長に就任する平成2年ごろまで、当社は漬物、澱粉、調味料の3本柱でやってきましたが、これだけではいずれ終わると思った私は、4本目、5本目の柱を築こうと新商品開発や技術の革新に取り組みました。まずは当社で特許は取ったが、まだ商品化されていない技術の掘り起こしを始め、凍結磨砕法と出会います。一般的に野菜のペーストは、裏ごしで加工されますが、この方法では皮殻に含まれる有効な栄養素や繊維質が失われてしまいます。その弱点を凌駕できる手法が、凍結磨砕法でした。茹でた新鮮な野菜を凍結し、凍結状態のまま素材を細かくペースト化するので、食品のペースト化の方法としては画期的なものでした。この技術で生まれたのが「ミクロペースト」です。続いて開発した「チルドポテト」「ジュレ」は、「しんしん」ブランドとして直接消費者の目に触れることはありませんが、夫々がスープの原料など大手食品、飲料メーカーへの食材として納入され、着実に売り上げを伸ばしています。お客様の多様な価値観やニーズを踏まえて、「野菜をコーディネートする会社」を目指しています。
 社長に就任の翌年竣工した利根川工場では、440アイテムの漬物を作っていましたが、無駄が多く不採算でした。効率化を図るため1年半かけて300アイテム減らし、140にしました。技術者たちとは、かなり喧嘩をしましたね。でも結果は、しっかり利益を出せる工場に生まれ変わりました。
 平成6年(1994年)創業100周年を迎え、同年CIを導入し、社名を株式会社新進と改称。社名の新進は立ち木を斧で切り開いて進むという開拓精神を重要視した社名です。先日は野菜の最適地を探しに、ゲリラが出没する某国のジャングル奥地まで行ってきました。まさに新進でしたね。
【画像左:CI導入後、ロゴマークを一新した総社工場。画像右:ミクロペースト・パンフレット】
【4代目正直のポートレート。本社にて】
●株式会社新進
本社:東京都千代田区外神田1-18-19
TEL:03-6206-4111(代表)
http://www.shin-shin.co.jp/

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