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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第22回 タカサゴ

お話:11代目 熊谷晃一さん(記事公開日:2013年3月6日、文:亀井紀人)

■初代 高瀬屋七兵衛(享保14年[1729]没) 

 高瀬屋七兵衛が慶安の変のあった、慶安3年(1650年)神田三河町(現在の内神田1丁目にある高砂ビルの場所)で一膳飯屋・高瀬屋を創業したのが始まりと聞いています。振袖火事、関東大震災、戦災など少なくとも3度の大火で資料が皆焼失していますので、祖母や近隣の古老からの伝え聞きですが、祖母の代、父の代にあった夫々の店の看板に創業300年と書いた看板がありました。祖母からは、新撰組の近藤勇がお玉ヶ池にあった千葉道場での稽古の帰りに、高砂に立ち寄って飲食をした話も聞いています。菩提寺の高輪・光福寺にある過去帳によると私で11代目となります。
【私の所持している写真で一番古いものです。震災直後のバラック造りの高砂屋です。現在の内神田1丁目3-1。大正12年暮撮影】

■9代目 祖母 豊(とよ)(明治16年[]1883生〜昭和40年[1965]没)、祖父 丈之助(明治10年[1877]生〜昭和20年[1645]没)

 当家は代々養子を迎えて繋いできた歴史があります。豊の母、かつは一人娘の豊に養子として丈之助を迎えます。今では理解しがたい話ですが、丈之助はなんと江戸川区の3分の一を持つ大地主の息子で、持参金付で来ました。資産家の間では、自分たちの財産を守るため余所者を入れないよう、このような養子縁組があったそうです。
 店は、当時道路を挟んで向かい側に職安があり、毎日のように日雇労働者が集まり、昼に夜にと大変繁盛していました。この頃でしょう、屋号の高瀬屋は高砂屋に変わりました。高砂屋の由来は、老夫婦が仲睦まじく働く姿をお客が見て、「これぞ高砂の夫婦のようだ」と、謂われたことからと聞いています。語呂がいいし、縁起もいい。誰でも一度聞いたら覚えてくれる屋号だと、私は気に入っています。
 祖父の代には関東大震災がありましたが、店は総檜造りのしっかりした建物でしたので、震災の揺れにはびくともしませんでしたが、その時の火災で類焼してしまいました。
 祖父丈之助の功績として、しっかり遺言を遺したことでした。後々の近親者同士のトラブルを避けるため、よくやってくれたと思います。生活は地味でしたが、書画、骨董、刀剣類には目が利くこともあってせっせと集めていました。横山大観の国宝級の襖絵もあったそうですが、戦災で全部焼けてしまいました。
【祖母豊と、祖父丈之助のポートレート】
【母の兄(伯父)が内神田1丁目でミルクホールを開業したときの模様。左隣が高砂屋。この頃の店の看板には、創業300年の文字がありました。昭和7年11月2日撮影】

■10代目 母 光(みつ)(明治39年[1877]生〜昭和47年[1972]没)、父 伍朗(明治39年[1877]生〜昭和39年[1964]没)

 母、光には3人の男兄弟がいましたが、ここでも当家の伝統でしょうか、女の子には厳しく教育しますが、男の子には甘やかす家風があったのでしょう。跡取りはしっかり者の一人娘の光となり、養子として伍朗を迎えます。父伍朗は岐阜の中津川市の保母家から出てきて、親戚の紹介で高砂屋の向いの職安の食堂で働いていました。光の母が働き者の伍朗を見初め、養子に迎えたのです。戦災で店も家屋も焼け出された苦労もありましたが、働き者の父はすぐにバラックで再建し店を繁盛させました。
 戦前から近くの大蔵省の外食券食堂といって、政府発行の食券で訪れる人がたくさんいました。後に総理となる、池田勇人、大平正芳という当時の大蔵官僚たちもきていました。
 父の思い出としては、しょっちゅうポイと家を飛び出し、実家のある郷里の岐阜に帰っていたことですね。その度に、光の祖母にあたるカツ(豊の母)が迎えに行っていました。
 自分ばかり一人あくせく働いての不満のはけ口が神田にはなかったのでしょう。そんな時、養子できた父にとっては帰る場所は岐阜だったのですね。
 当時はどこも同じかもしれませんが、飲食店の休みは月に1回の日曜日と、盆と暮で3−4日だけでした。
 そのような忙しかった中でも、父の唯一の楽しみは仕事が終わってからのダンスでした。先生を呼び、店内を片付けて従業員と妻も一緒に楽しんでいましたね。店は和風の大衆食堂でしたが、趣味はけっこうモダンで、お洒落でしたね。
 母は、たまの休みには歌舞伎鑑賞に私を連れて行ってくれましたが、子供の私にとってテンポの遅いリズムの演目にはすぐに飽きてしまい、ただただ苦痛でした。しかし母にとってはおめかしして、銀座に行くのが大きな楽しみだったようです。
 町会では、父が副会長、母が夫人部長をやりお祭りの時は、大忙しでしたね。
【左が父伍朗 右の写真、しゃがんでいるのが母光】
【高砂屋で働く従業員一同と、店前にて(前列左から3番目が父伍朗、後列右から2番目が母の光)】

■11代目 私 晃一 (昭和16年生[1941]〜 )、ヱイ(昭和22年[1947]生〜 )

「親は家業を熱心に、子供は女中(従業員)に預けておけばよい。」こんな環境の下に育った私は、店の繁盛は子供心にも嬉しいのですが、夜の宴会が入ると酔いがまわった酔客の大声で、受験勉強では大変苦労をしました。私には姉がいましたし、父からも母からも店を継ぐことはない、自由でよいと言われていましたが、大学4年のとき父が癌に侵され、余命いくばくも無いと医師から宣言されたとき、家業を継ぐ決心をしました。継ぐことを止めたら、いつか後悔すると思ったからです。
 大学を卒業後、私は和食のてんぷらを習いたかったのですが、母の「これからは洋食」という強い薦めに従い、銀座のコックドールで1年、竣工したばかりの竹橋のパレスサイドビルのフレンチレストラン・アラスカで4年修行しました。フレンチの修行を積みましたのでオードブルには結構うるさかったですよ。日本の料理研究家が初めて5つ星レストランのガイドブックを作ったときに、私のスモークサーモンが載りました。アラスカでの修行や、パレスサイドビルのレストラン街への出店には父が亡くなった後、親代わりとして面倒を見てくれた父の兄、すなわち私の伯父にあたる保母道雄さんのお陰と謂えます。当時伯父は、パレスサイドビルの経営最高責任者でした。パレスサイドビルではフレンチの店を開きたいところでしたが、同じビル内で同一業種の営業が出来なかったので、カレーの専門店として屋号も「タカサゴ」で開業しました。フレンチが専門ですので、タカサゴのカレーは欧風カレーです。
 内神田の店は閉めて、そこを貸しビルと住宅に建て直したのもこの頃です。竹橋での営業は今年で42年目になりますが、私と妻ヱイと息子の浩晃が中心となってやっています。古いお客様がひょっこり尋ねてきてくれて、「味は昔と変わらないねー」と言ってくれたり、懐かしいなーとわざわざ遠くから来てくれたりと、客商売ならではの出会いの楽しさを夫婦で味わう毎日です。
 地域では父母と同じく、ビルのある内神田美土代町会の会長を、妻のヱイは連合会婦人部長をやり、今は企業と住民のコミュニティー問題に取り組んでいます。
【左が68年前、美土代の店前で自転車に乗る私。右が昭和35年ごろの高砂屋】
【妻ヱイ(左)、11代目晃一(中央)、12代目浩晃(右)。パレスサイドビルB1Fタカサゴ店内にて】
●タカサゴ
千代田区一ツ橋1-1-1パレスサイドビルB1F
電話:03-3214-2520

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