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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

印刷用

第21回 株式会社三秀舎

お話:7代目 山岸 眞純さん(記事公開日:2013年1月17日、文:亀井紀人)

■初代 嶋 連太郎(明治33年[1900]創業〜昭和16年[1941]没)

 越前今立郡粟田部町(現在の福井県越前市粟田部)の造り酒屋、黒澤家の三男、連太郎が独立して嶋家を興したのが始まりです。三秀舎の創業者ということで、連太郎の晩年に当時の社員でしょう、連太郎の半生記を聞き取りした記録が残っていますので、初代についてはそれを参考にしてお話をさせていただきましょう。
 明治17年、連太郎15歳のとき政界、実業界で幅広く活躍していた同郷出身の自由新聞社社長、吉田健三氏を頼って横浜に上ります。最初の仕事は吉田氏(吉田健三氏は後の首相吉田茂氏の養父になります)の経営する醸造業で、酒や味噌、醤油の配達を乗り物のない時代、小僧として忙しく働いていたようです。明治19年、17歳のとき印刷業との出会いがあります。吉田氏の紹介で京橋区西紺屋町(現在の数寄屋橋)にあった秀英舎(現在の大日本印刷)に見習いとして就職し、営業職で活躍します。
 明治32年3人の仲間と神田美土代に、合資会社三光社活版印刷所を設立しますが、翌年となる明治33年(1900年)に三光社を発展的解消し、三秀舎を立ち上げました。
 三秀舎の社名の由来は経営方針ともいえますが、3つに秀でること、1印刷鮮明、2期日正確、3価格低廉を謳っています。
 明治43年(1910年)日本の文学を語る上で欠かせない文芸同人誌「白樺」が創刊されます。創刊前から武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、里見弴、石川啄木ら、名だたる文豪たちが原稿の校正に足しげく三秀舎に通ったと言われ、彼らの日記の中で何度も三秀舎の社名を見出すことが出来ます。
 順調に業績を伸ばしていた三秀舎に、大正12年9月1日の関東大震災が襲います。連太郎は当日樺太に旅行中で、震災の翌日にそれを知り9月5日にやっと東京に到着しました。全社屋を焼失した後でしたが、知人の紹介で乃木神社の境内を借用して、バラックの仮営業所を作り44日を過ごしました。そこから毎日神田に出勤して神田での復興準備をしたと記録されています。幸いなことに、400余人の従業員に死傷者はいませんでした。
【初代、嶋連太郎のポートレート。明治40年撮影。中段は、創業後7年、事業が順調に軌道に乗った頃、木造の社屋前での集合写真。後列左から3人目が連太郎】
【関東大震災直後の避難所兼仮営業所となった乃木神社境内に集う社員たち。前列左から3人目が連太郎】

■5代目 嶋 富士雄(昭和22年[1947]就任〜昭和30年[1955]没)

 5代目は私の伯父にあたります。2代目から4代目までの間、連太郎の長男の急死や太平洋戦争などがあり、同じ郷土の山岸家から養子に迎えた山岸富士雄が戦後の混乱の中5代目となり、三秀舎を復興しました。
 若い頃から連太郎と一緒に仕事をしていたのでしょう。今では名立たる白樺の文士たちが原稿を持って何度も印刷を頼みに来ていたことなど、三秀舎の歴史について入社前の私に折に触れ話をしてくれていましたね。
 戦時中は印刷工場不足となり、お札を刷ったこともありました。戦災で神田の本社、工場、芝浦の工場、倉庫すべてが焼失し、神田の土地はGHQに接収され、後に現在の本社の土地は戻っては来ましたが、大通り沿いの土地は戻ってはきませんでした。その後の復興への伯父の苦労は計り知れません。焼け跡から使えそうな機材を拾い集めて、磨きをかけて使ったそうです。
 伯父の語り草となっている逸話として、原稿を手に持った時の重さの感触だけで印刷料金が判ったといいます。神業を持った見積もりの名人と云われていました。印刷の本物のプロフェッショナルでしたね。
 伯父としての印象は、商売に大変熱心で厳しい人でしたが、私たち子供への躾にも厳しかったです。でも常に人情味が感じられました。
【5代目嶋富士雄のポートレート。中段は、大正3年郷土出身者が集う(南越花匡会)集合写真。2列目左から3人目が当時18歳の富士雄】
【左が昭和10年頃、関東大震災後に復興した社屋。右は昭和14年頃、三秀舎本社前で社員の出征(軍役入隊)を見送る壮行会】

■6代目 山岸 晟(昭和30年[1955]就任〜昭和53年[1978]退任)

 私の父、晟は5代目富士雄の実弟です。兄の死去によりそれまで勤めていた厚生省の役人を辞めて継ぐことになりました。
 父は、学生時代から社会派の学生運動員として活躍し、またクリスチャンで社会福祉活動にも熱心でしたね。全国給食連合会の会長や全国消費組合という現在の「生協」の創始者の一人にもなっています。
 社長となって自ら労働組合を作るなど、その後の三秀舎らしさを作り上げてもくれました。印刷については素人でしたが、政治力があり顔が広かったので金融面、営業面で活躍してくれました。昭和39年に美土代に本社ビルを建て、40年に錦町に工場を完成させたのも父の時代です。
 思い出としては、父の板橋区大山の自宅には、人の出入りが絶えなかったです。人間好きだったですね。
【6代目晟のポートレート】
【昭和39年6代目晟の代に建てられた本社ビル】

■7代目 山岸眞純 (昭和53年就任〜 )

 中学生の頃から、三秀舎では5代目富士雄の下で活版の重い鉛を自転車で運んだり、重い紙の束を担いだりのアルバイトをしていましたが、実は大学の卒業時点では会社を継ぐ意志はなく、ある銀行に就職を決めていました。それを知った父から「銀行へはいくな」の一声で昭和34年三秀舎への入社が決まったのです。一人っ子の長男坊でしたので、父としては当然の命令だったのでしょう。
 入社してすぐに千葉大学の印刷科(現在の情報工学科)で募集がありましたので、聴講生のつもりで行くと、いきなり助手として採用になり、しばらくの間そこでみっちり学ぶことができました。会社では自動組版機を導入し、オフセット事業部を立ち上げるなど、活版だけでなく商業印刷にも業容を広げました。
 その後昭和53年に父が退任し、私が社長を継ぐことになります。印刷の実務は幼い頃から伯父の仕事ぶりを見て育っていますので、父より私のほうがよく判っていました。         
 父には専ら金融関係との折衝をお願いし、私は社内改革を重点的に取り組みました。
 興味のあった経理の原価計算を徹底的にマスターし、設備投資に使った多額の借金をうまく返済することができたのです。昭和58年から現在まで続く電算システムの導入、神田工場の越谷への移転、平成元年には父の建てたビルの建替えもしました。この年同時に、労働時間の短縮に取り組み、それまで年間91日の休みを123日に一気に増やしたことで、結果その後から若い優秀な社員を迎い入れることが出来るようになったのです。
 時はバブル景気の終焉期でしたが、私はこんな景気が続くわけがないと思っていましたので、本業以外の余計なことには一切手を出さず、堅実経営に徹しました。5代目の伯父が、戦災の焼け跡から部品を拾い集めて使った苦労を思えば当然です。先代の背中を見てこれまでやってきましたが、本当にいい人たち、いい社員にめぐり合えたことがこの仕事を継いでよかったと思えることです。平成13年には創業100周年の記念行事もそんな社員たち関係者たちと一緒に祝うことができました。
 今、三秀舎は大きな節目にあります。2010年が電子書籍元年と謂われましたが、10年以上続く出版不況を打破するのが電子でしょう。紙から電子に変わろうとする大きな時代の潮流に、我々が乗り遅れてはなりません。これからの時代に活路を見出すために、次期社長となる山本専務を筆頭にプロジェクトチームを立ち上げました。その成果は2013年14年に目で見えるようになるでしょう。
 不易流行の精神で、変えてはならないもの、変えなければならないものを見極めて、三秀舎は永続を目指します。
【画像上:平成元年、内神田一丁目に竣工された東京本社の新社屋(地上7階、地下1階)。画像下:初代連太郎が昭和11年郷里の越前市粟田部に図書館を建て寄贈した。今は島会館の呼び名で市民ギャラリーとして使われている。昨年このギャラリーで「山岸眞純とその仲間展」という絵画展を開催したときのスナップ。正面コート姿の山岸眞純社長を囲んで絵画仲間、地元の関係者たちと。眞純氏は年1度銀座で個展を開くなど、趣味の絵画にも力を注いでいる】
【右が7代目山岸眞純社長、左が新分野の開発を進める山本静男専務。バックの書は6代目晟氏が師事した賀川豊彦の書いた敬愛、勤労、純潔、平和、奉仕の書。これは三秀舎の社是ともなっている。三秀舎応接室にて】
●株式会社三秀舎
本社:千代田区内神田1-12-2
電話:03-3292-2881
工場:埼玉県越谷市西方2728-1
電話:048-986-8141
http://www.kksanshusha.co.jp/

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