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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第2回 株式会社龍角散

お話:5代目 藤井隆太さん(記事公開日:2005年11月17日)

 ノドの薬としておなじみの「龍角散」は、もともと秋田・佐竹藩に伝わる家伝薬に、蘭学を学んだ藤井正亭治が改良を加えたもので、藤井家は代々佐竹藩の典医を務める家系でした。時代が変わって明治になると、正亭治は東神田に薬屋を開業し、龍角散を一般薬として売り出しました。「龍角散」という名称は、初期の処方に龍骨、鹿角霜、龍脳が使われていたことに由来します。

■初代

 正亭治の長男、得三郎は処方改良を行い、微粉末状の現在の処方を確立しました。何種類もの生薬を粉砕して均一に混ぜるというのは、世界的にみてもかなり高度な技術です。
 大正12(1923)年7月、東京ではまだ珍しかった鉄筋コンクリート3階の本社を建設、しかし同じ年の9月に関東大震災が起こります。建物が頑丈だったため建物自体は残りましたが、ビルの中は完全に焼けてしまったそうです。
【販売店に取りつけられた看板】
「たんせきぜんそくの特効薬 本舗東京藤井得三郎」とある。

■2代目

「龍角散」は2代目得三郎(米次郎)の力で、全国に知られるようになりました。当時、本社ビル裏手に工場と倉庫があり、1階は薬局になっていました。家族は2階と奥に住んでおり、職住を兼ねていたそうです。
【薬局の店内の様子(昭和初期)】
左手半分が薬局で、薬のほかにネクタイや帽子などの衣類も扱っていた。ハイカラな店として有名だったという。
【本社前を通る特売の龍角散を積んだ配送車】
物流が発達していなかったため、秋口にまとめて全国の一次取次店に配送。店に在庫をかかえてもらうかわりに、割増しのサービスを行っていた。

■3代目

 3代目得三郎(勝之助)は、「龍角散」の科学的な裏づけを大阪大学の研究室に在籍していた息子の康男に依頼します。研究機関に分析をしてもらうと、「成分は完璧、このまま何も加えてはならない」と言われたそうです。
 また、3代目は業界のことに力を尽くした人でもありました。
【昭和30年代の本社ビル】
まだ都電が走っていた。

■4代目

 4代目(康男)は、薬学から理学部生物科学へ進み、時代に先駆けて臨床試薬メーカー「ヤトロン」を創業。まだ血液検査が一般的でなかった時代に、臨床診断試薬を開発して販売しました。
 30代で龍角散の社長に就任した4代目は、個人商店を会社という組織にして近代化させました。私が知っている親父(4代目)というのは、非常に熱心な研究者だったということです。亡くなる寸前まで、こういうものを開発したかったと語っていました。経営に関してはあまり得意じゃなかったらしく、「俺はあまり商売のことはわからないし、好きじゃなかった。お前がしっかりやってくれ」と言われました。親父の分までがんばろうと思いましたね。
【音楽に造詣の深かった4代目】
社内管弦楽団定期演奏会で指揮をする4代目。読書家で、クラシックLPの蒐集家でもあった。神田ぬきの青春は考えられなかったというほど、古本や古レコードを求めて神田界隈を歩き回ったという。

■5代目

 私が社長になって10年ですが、会社の歴史からすればたかだか5%です。しかし、200年の重みがあるということは常に意識しています。(佐竹藩時代から数えて)8代も続いたというのは、要するに各代が一生懸命やってきたということです。一人として適当にやった人はいないと思いますね。
 会社を大きくすることは特に考えていません。あまり冒険もしないし、博打的なこともしない。しかし、本当にひと様の役に立つことがあれば経営判断でやる。いかに安定的に社会貢献ができるか、これが当社の方針です。
【新しいキャッチコピーが貼られた龍角散】
昨年、会社のキャッチフレーズを「ゴホン!と言えば龍角散」から「ノドをキレイに ひとさじの龍角散」に変えた。龍角散をせきの予防薬としてアピールしたのである。「長年支持されてきた製品を見直して、使う人やライフスタイルにあわせて提案の仕方を変え、改良を加える。進化させることが必要だ」と藤井社長。
●株式会社龍角散
住所:千代田区東神田2-5-12
電話:03-3866-1177
http://www.ryukakusan.co.jp

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