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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第18回 神田錦町更科

お話:4代目 堀井市朗さん(記事公開日:2012年9月11日、文:亀井紀人)

■初代 堀井丈太郎(不明〜大正5年[1930]没)

 神田錦町更科の由来を語るには、麻布永坂の総本家更科堀井の来歴からお話しましょう。更科蕎麦は、江戸幕府第三代将軍徳川家光候の腹違いの名君と云われる、保科正之から繋がる保科松平家との強いご縁が見逃せません。総本家更科の堀井家は、信州高遠の保科松平家の御用布屋でした。江戸入りするにあたり、蕎麦打ちがうまいのを見込まれ、これからは布を扱う仕事よりも蕎麦の商売の方が良いのではと、御領主から勧められ、寛永元年(1789年)保科家の下屋敷のあった麻布永坂に、初代となる布屋太兵衛(堀井清助)が店を出したのが始まりです。屋号は「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」。布屋太兵衛の屋号は2代目まで続きますが、実際は更科蕎麦が世に馴染まれてゆきます。更科の名は、信州信濃の国の更級から更、保科の苗字から科を採って出来ました。
 ここから、当店の話に入って行きます。神田錦町更科の創業は明治2年(1869年)麻布永坂の総本家更科堀井の当主、布屋太兵衛(堀井清衛門)の従兄妹同士が夫婦となり、現在地である神田錦町に更科分店として創業したのが私の曽祖父、丈太郎です。現在でも分店と呼ぶのは、本家と血脈が繋がっている神田錦町だけで、他は支店と呼んでいます。
 このように保科家のご縁を戴いて出来た更科蕎麦の蕎麦は、天皇、将軍といった身分の高い方々にも献上していましたので、「細くて、白くて、汁が甘い」という上品さが特徴となりました。
【初代丈太郎のポートレート】
【明治44年1月6日付駿河台の岩崎邸への蕎麦代金領収書。(静嘉堂文庫の方からコピーを戴いたもの)これも保科家とのご縁か、当時保科正益の長女が岩崎弥太郎の長男久弥に嫁いでいる】
      

■2代目 亀雄(明治26年[1893]生〜昭和43年[1968]没)

 私の祖父にあたります。私が小学5年生の頃亡くなりましたが、優しい印象と、いつも着物姿で着流していたことを覚えています。
 祖父は麻布の本家の娘と結婚し、血筋からもますます更科の分店としての存在が明確になりました。更科蕎麦は初代からのご縁で宮内省御用達となり、宮中の台所に蕎麦づくりのための釜まで設けていただけるまでになり、祖母に至っては、当時民間人は入ることの出来ない華族女学校に入学することが出来たそうです。
 亀雄はそんな恵まれた環境の中で、独自の道を切り開きます。手打ち蕎麦の名人としての地位を確立しました。東京でそば打ちが出来るのは、上野の蓮玉庵と亀雄の2人だけと云われるほどの名人でした。「水まわし」と云う木鉢で蕎麦を練る技術ですが、蕎麦粉と水の馴染ませ方や、次の工程の「鏡のし」と云って、真円にするのがうまかったと伝わっています。鏡餅を作っても、通常1週間も経てばひびが入り割れますが、亀雄が作った鏡餅は1週間経っても割れないと、一般人はもとより同業者たちからも耳目を集めました。蕎麦店老舗と謂われる大旦那さんたちに手打ちを教えたり、ご縁のあった主催者の会合に呼ばれて蕎麦打ちの実演をしたり、更科蕎麦を大きく世に知らしめました。今、私も水まわしをする際、祖父ならこうやったろうかと思いながら、作業しています。
【関東大震災で焼け出された後、昭和2年神田錦町に再建した店前にて。「本日より営業」とある。子供を抱いているのが2代目亀雄。抱かれている子供が3代目。この写真は、開店祝いとしてポストカードにしてお客様に配られた。その後の太平洋戦争時の東京大空襲で店ごとすべて消失したが、ある日お客様が持ってきてくれたもの】
【昭和初期、当時は「更科お七軒様」と云われた七店を紹介する、蕎麦の持ち帰りに使った包装紙。更科の暖簾を掲げることの出来るのは、麻布、神田、品川、有楽町、上野池之端、牛込、芝二本榎、この七軒のみ。(神田錦町更科所蔵)】

■3代目 松太郎(大正15年[1926]生〜平成23年[2011]没)

 私の父です。生まれながらの、「坊ちゃん」育ちで、幼い頃から爺や婆やに囲まれ育ちました。現在漫才協会の名誉理事長の内海桂子さんが9歳の時、当家に年季奉公として入ってきました。3つ年下の三代目が小学校に入学し、その送り迎えをするのが桂子さんの仕事になったころ、三代目が夜店で買った白さやの刀をふざけて振り回し、それが桂子さんの頭にあたり怪我を負わせてしまいました。父亀雄が大変申し訳ないことをしたと謝り、1年で3年分の奉公費を払って帰ってもらったそうです。予定より早く浅草に帰った桂子さんは、その分芸道に励むことが出来、漫才界のスターに上って行くことが出来たと感謝されています。その後も桂子さんとは、永いお付き合いをしています。桂子さんの初めての旦那様とのデートも当店に来てくれました。昨年の父の葬儀にも来てくれました。今でも亡き父のことを「ぼっちゃん」と呼ぶのですよ。当店との短くも永いお付き合いのことは、講演やエッセイで書いてくれています。
 お坊ちゃん育ちの父に、戦争という過酷な災いが襲います。昭和20年3月10日の東京大空襲の1,2日前の予備空襲で家は真っ先に焼け出されてしまいました。東京生まれの祖父や父にとって、疎開先にする田舎がありません。やむなく猿楽町に逃げたと聞いています。
 戦後、財産税と称する税の取立てや戦後のドサクサで、中庭まであった広い土地は召し上げられ、現在の土地のみとなっていました。食料統制もあり蕎麦粉は手に入らず、今はもうありませんが、小川町の金澤スポ—ツに勤めていたこともあったそうです。
 父にとって立ち直るためへの一番苦労の多い、辛い時期だったといえるでしょう。
 しかし店が再開すると、更科の暖簾に対するプライドは大きく、「江戸っ子は口がきれいでなければいけない」と、闇市で手に入るものでも一切手を出しませんでした。
 また、「二足の草鞋をはかない」とご飯ものはやらない、うちはそこらの蕎麦屋と違うのだと、いつも言っていましたね。
【3代目松太郎のポートレート】
【松太郎の結婚式 本人から一人おいて前列左に2代目亀雄夫妻】

■4代目 市朗(昭和38年[1963]生〜 )

 私は一人っ子でしたが、父から店を継げと言われたことはありません。大学時代、蕎麦屋でない他のことをやりたい。漠然とサラリーマンに憧れていました。父が38歳の時の遅い子でしたので、私が大学を出た時父は60歳でした。就職を決めなければいけなくなった頃に父が、何気なく「あと10年も働けないかな……」とぽつんと呟いた一言が、この店を継ごうと決めたきっかけでした。兄弟のいない自分が継がなければ、このままでは店は終わってしまう、やるしかないと。
 一人っ子の境遇で、親との接触が多かったことも手伝って、父からはたくさんのことを教えられ育ちました。歴史と旅行が好きだった父に連れられて年に4,5回は母と3人で旅行に行きました。一度は学校の運動会の時に旅行に行ってしまい、後で先生に怒られたこともありました。神社仏閣廻りが好きで、神社の鳥居の前を通るときは頭を下げろと、お寺ではご先祖様があるから今の自分があるのだぞと教わりました。今は自分の子供にも同じように教えています。
 反対に、仕事は見て覚えろと直接手取り足取り教わった記憶はありません。汁の味も、母の腹の中にいた頃から教えているのだからと。でも蕎麦は毎日食べさせられましたね。
 今思うと、父はご先祖からの声、家訓と云うのかもしれませんが、繰り返し繰り返し更科蕎麦4代目である私へ大事な言葉を残してくれました。
 それは、「金と肥溜めは、たまればたまるほど汚くなる」「人間の欲というものは際限がない。」「博打はするな、酒には飲まれるな、金のために余計なことに手を出すな」と。
 バブル景気で世が浮かれていたとき、今思えばこの言葉でどれほど救われたか知れません。当事はNTTの株を何故買わないのか、何故ビルにしないのかと。父からの言葉がなかったら、多分今ここにはいれないでしょう。
「山椒は小粒でもぴりりと辛い・小さな店でも特徴のある店になれば一生食いっぱぐれない。店は一軒でいい。」これも父の言葉です。
 蕎麦は温かいか冷たいせいろかしかありませんが、私は今、これに季節のものを工夫してメニューに取り入れています。しかし、基本は蕎麦一本。せいろ一枚でいいから食べに来てもらえる店になろうと毎日励んでいます。
【4代目市朗夫妻 店前で2ショット】

■5代目 雄太朗 (平成9年[1997]生〜 )

 大学生の長男が自分の道を進みたいと宣言した後、次男の雄太朗が「僕があとを継ぐ」と言ってくれ、自ら駒場学園の食物科に進学して今調理の実習中です。ここを出ると調理師の免許も取れますので、跡継ぎが決まって嬉しい限りです。ここへ来る時は、いつも2階の仏壇に手を合わせてから店に下りて来るんです。姿かたちも歴史好きも、父とそっくりなんですよ。
 息子には、祖父の代から油揚げを奉納している氏神様である五十稲荷を通してこの地域との深いご縁を教えています。
 先日、祖母の嫁入りの情景を知っている90歳になるお婆さんが、そのときの盛大な行列の様子を昨日のことのように話をしてくれました。祖父母のことを知っている人がこの町にはまだいるのだと思うと、胸が熱くなります。こうやって祖父から父から同じ暖簾を受け継ぎ守っていますが、次に繋げるという私の大きな使命が今、果たされようとしています。
【5代目雄太朗 着物姿の母と】
●神田錦町 更科
千代田区神田錦町3-14
TEL:03-3294-3669

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