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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第11回 福井自動車株式会社

お話:5代目 福井忠雄さん(記事公開日:2012年2月22日、文:亀井紀人)

■初代 福井 伊助(文政元年[1818]~明治33年[1900])

 文政元年に福井市大野で生まれた伊助は、天保11年(1840年)に上京。日本橋本石町に居を構え、指物師を業としました。福井姓は明治維新後つけられた姓であり、以前は越前屋伊助と名乗っていました。 
【初代伊助が指物師として作った仏壇】
 安政の江戸地震、関東大震災、戦災と、3度の大火で家は焼け出されたが、その都度家の者がこの仏壇を背負って逃げた。勿論現在も使われている。福井家にとって大変貴重な、家宝とも言える存在。

■2代目 亀吉(天保14年[1843]~明治43年[1910])

 神田宮本町にて、車大工として荷車荷馬車の製造を業とし、屋号は車亀(くるま亀)。その後、福井製車場と改め開業。手作りによる大八車の製造販売ですが、当時は棒屋(ぼうや)と呼ばれていました。現在に至る車屋としての原型は、この亀吉の代に生まれたと言えましょう。
 晩年の亀吉のエピソードとして、以下母から聞いた話です。「亀吉さんは60過ぎには隠居して、毎日お昼過ぎると(神田)明神様の奥山に出かけ、お茶を飲んでいた、いい身分の人だったそうだよ。息子の久吉さんが働き者で、夜なべなんかすると嫌がったって聞いたよ」
(私のブログより http://utau.cocolog-nifty.com/blog/
【2代目亀吉の肖像画 】
【写真は亀吉の時代のものではないが、福井製車場でつくられた大八車。】
 木製の円形の車輪と、人力で引っ張る樫の木で出来た木部を、火で炙り微妙な曲線に仕上げる技術が職人技であった。

■3代目 久吉(明治7年[1874]~昭和34年[1959])

 神田宮本町より明神下の現在の地に移り、今日の基礎を固めてくれました、私の祖父です。移転理由は、神田宮本町は坂の上であり、当時は舗装された道もなく、大八車の移送に大変苦労したからと聞いています。商売としては、神田市場(やっちゃ場)が近くにありましたので、大八車の需要は多かったのです。また、頻繁に荷車が必要でない人のために、金澤町(外神田三丁目)にあった巴商会さんに代表される貸し車屋、現在のレンタカー屋も繁盛していました。分解が出来るので保管がしやすく、客が来ると用途に応じて組み立てるのです。
祖父の思い出としては、講談を聴きに、須田町交差点前にあった立花亭によく連れて行ってくれました。私が歴史好きなのは、その影響が大きいと思います。
【写真左:大正13年(1924)当時の久吉夫妻のポートレート、写真右:大正12年(1923)関東大震災で焼失前の福井製車場】
 

■4代目 豊次郎(明治34年[1901]~昭和28年[1953])

 昭和6年 山口自転車の販売と修理業を兼業。
 小学校を出てすぐに跡継ぎとして福井製車場で働いてきた父は、怒りっぽく涙もろい、まさに職人気質の神田っ子でした。車大工の技術を生かして、戦前は神田区役所からの注文でゴミの収集車や散水車を作ったり、戦時中は電線を巻く車輪を作って陸軍に納めたりしていました。
 父から教わったこととして、関東大震災の時に池之端に逃げたのですが、御成街道(現中央通り)が避難民で混雑し子供たちが逸れてはならないと、こぶを作った綱に掴まって逃げたそうです。それは安政江戸地震の時から、福井家代々伝えられた教訓でした。また、私が中学2年生の時、戦災で家が焼かれ、家族揃って防空壕から脱出して聖橋の下に逃げました。そのとき火は西から下ってくるという教えを父から聞かされましたが、それも江戸時代から代々伝えられていたことでした。そのとおり、お茶の水方向から火の粉が飛んできました。そして当時希少なコンクリート造の湯島聖堂に逃げ、助かりました。父との楽しい思い出は、淡路町にあった洋画館「シネマパレス」に映画を観に連れて行ってくれたり、正月に上げる凧を骨組みから絵まで描いて作ってくれて、神田明神や聖橋で揚げたことです。
 昭和28年、長女の結婚祝いの桐箪笥を買いに岩槻までホンダドリーム号で出かけた父は、不運にも交通事故に遭い、帰らぬ人になってしまいました。享年52歳の若さでした。
【発売されて真っ先に買ったホンダドリーム号に乗った父。】
 息子兄弟は後ろに乗せてもらい、釣りに行くなど方々連れて行ってもらうのが楽しみだった。昭和28年、父はこのオートバイで事故に遭い、急逝する。
【「山口の自転車」の看板を掲げた店】
 戦災で一帯が焼け野原となった当地に、戦後に建てた木造の本社。街はヤミ市、露天商から徐々に電気街の様相に。店の前には都電のレールが見える。

■5代目 忠雄(昭和28年[1953]~平成元年[1989])

 私が早稲田大学の4年生の時父が亡くなり、長男である私が後を継ぐことになりました。職人の倅ではありましたが、手仕事は苦手でこれまでは仕事を継ぐつもりはなく、大学の学部も経済を専攻し、卒業後はサラリーマンになりたかったので、父の早過ぎた死去は大きな衝撃でした。
 後を継ぐ決心をし、会社に入ってすぐに荷車製造を廃業して株式会社福井サイクルと社名変更し、自転車、オートバイの販売、修理業とし、夫々を修理できるように技術を懸命に覚えました。経理も営業も、教えてくれる人もいませんので、全て独学で学びました。
 昭和34年小型自動車分解整備事業の認証を受け、翌年社名を福井自動車株式会社とし、国家資格の整備士の免許も取りましたし、民間車検場としての検査員の資格も、まずは自分が取らなければ社員に示しが付かないと思い、真っ先に取りました。夢中で働き、情報収集のために業界団体にも顔を出すようになりましたが、私のように自転車からオートバイ、そして自動車へと経験を重ねた方は皆無で、同業者のほとんどが戦時中軍隊で乗物の修理を覚えてきた人たちでした。私の経験が役に立ったのでしょう、気づかないうちに、社団法人東京都自動車整備振興会など業界団体の会長に推されるようになっていました。
【5代目忠雄のポートレート】
【昭和30年代の店前の様子。写真左:昭和34年頃山口自転車が製造していた125ccのバイクで、お得意さんと奥多摩方面に出かける前に撮影した。一番左にいるのが5代目忠雄。写真右:同じく昭和30年代後半、店の前を走る都電は、日本橋から王子駅を往復していた19系統。店は左の写真のものを建て替えた。街は家電の急速な成長により、すっかり電気の街となる。】
 

■6代目 監物孝司(平成元年[1989]~)

 私の社長業は36年続き、60歳になった年に次男の孝司に社長業をお願いしました。孝司は監物家に養子に行っていましたが、幼い頃からずっと一緒に仕事をして、特に営業面で会社を支えてくれていました。戦後になって車社会となり、メーカーは車を作り売る、修理は町の修理屋でという時代を背景に、修理屋がどんどん増えて競争が激しくなりましたが、お客様は買った所に修理を出したいと云う鉄則を知っていた当社は、孝司が率先して販売に力を入れてくれたお陰で、今日になったら差がつき、同業の二代目さんから羨ましがられる会社になれたのです。同業の修理屋は売る大切さを知らなかったのです。孝司が営業で外回りをしてくれたお陰で、私は管理に専念出来ました。野球にたとえれば、孝司が投手で、私がキャッチャー、いいコンビでしょ。
当社のお得意さんは、大八車の時代からほとんどがこの地域の企業であり個人です。祖父の代は米問屋ばかりの街でしたが、父の代は炭の問屋街、私と孝司の代は電気部品から電子部品の街に。時代は変わろうが、地域が元気でいてくれる限り、140年続いたこの地のファミリー企業として、これからも永く存続させて行きたいですね。
【6代目監物孝司のポートレート】
【平成24年正月、社員の集合写真。前列左が社長の監物孝司、右が取締役相談役の忠雄。】
 
●福井自動車株式会社
千代田区外神田2−2−12 
電話:03-3253-2538
http://www.fukui-car.co.jp/

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