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神田資料室

KANDAルネッサンス 97号 (2013.06.25) P.4〜5 印刷用

20日13:30~14:40 第150回神田学会記念基調講演

高山 肇氏
2日目は神田学会第1期より会員である高山肇様に司会進行をお願いし、まちの歴史やコミュニティについて追求しました。


基調講演(西村幸夫氏)

神田の様々な顔と歴史
 本日のテーマは「ようこそ神田へ」です。
 これから新しく住まれる方も、古くから住まれていらっしゃる方も、もう一度このまちについて見直してみようと思います。
 実は神田はすごく歴史があるんだけれども、ダイナミックに変わってきているまちなんですね。老舗のまち、神田祭のまち、大学のまち、古書のまち、学生のまち。と同時に、関東大震災で非常に大きな震災復興の都市計画が行われ、それがよくわかる震災復興のまち、と様々な顔を持っている。
 まず老舗のまちとしての神田ですけれども、神田学会ではこの地域にある古い老舗のリストを作成しています。中には安政年間といった創業年が曖昧なものもあるため、まだ公開はしておりませんが、それでも約150店と多くのお店がある。
 これは日本の非常に大きな特色で、形は違っていても生業が続いているお店が多いんです。ヨーロッパの場合は形は変わっていないけど、お店の内容が変わっていることがすごく多いんですね。世界の中の古いカンパニーを調べますと、世界のトップ10の7割は日本なんですね。その中でも神田は本当に老舗が多いっていうのがおわかりになると思います。
 それから祭りのことですね。明治の頃の神田祭の様子なんですけれども、今と全然違うんですよね。今のような神輿ではなく、曳山ということなんですね。非常に巨大な曳山を競うということが神田のお祭りだったということを神田神社さんから伺いました。これはどうもまちに電線が張り巡らされて、大きな山車が引けなくなったからだそうです。
 これも先ほど言いましたように、エッセンスは続きながら形は変えてきたという、神田らしさ、そして日本らしい伝統の一つじゃないかなと思います。
 大学のまちとしての神田ということなんですけれども、かつて東大は3ヶ所にあって、その内2ヵ所が旧神田区なんです。一つは昌平坂、もう一つは一ツ橋。で、実は昌平坂の学問所のところが東大の本校だったんです。
 そこは本校から比べて南側にありましたので南校といって、ここは法学部や理学部があった場所なんです。それから東側に東校っていうのがあって、これは下谷区の御徒町にありました。それが神田区に移りまして、今の三井記念病院のところに移ったんです。ですから高等教育発祥の地と言ってもおかしくないまちなんです。


明治16(1883)年発行の麹町、神田近辺の地図。中央、川を挟んだ北側に東京大学の敷地がうかがえる。
(赤く囲んだ区域が当時の東大敷地)

震災復興とまちづくり
 それから、実は今の道路はずいぶん変わっているんです。それはなぜかというと、震災復興の中でこういう道を作ってきたからなんですね。その前にご説明したいのですが、ちょうどこの辺りに南北に崖線がずっと通っているんですね。いってみれば隅田川の河岸段丘にあるわけなんですけれども、実はJRの線路は崖の下を通ってる。北から来たのは秋葉原、西から来るのは飯田橋、次に万世橋のところまで来るんです。つまり神田は北や南からの鉄道が全部停まって、そのときの中心になっていたんですね。
 そのとき大きな課題は南、北、西から来る線路を繋ぐとき、神田は既成市街地のところを通らないといけなかった。そのときに鉄道が考えたのは、全部高架にすることでした。ですからこの辺りの鉄道は全部高架でレンガでアーチになっていますよね。あれは最初のときから鉄道を入れるなら、市街地にあまり被害を及ぼさないようにということで高架にしたんですよね。
 また、千代田区は非常に特色がありまして、北側から西側にかけて区に入る際に川を渡ったところで入るというのがすごくはっきりしているんですね。この外堀の内と外では高さが違う。内側が高いんです。つまりそちらが大事なので、圧倒的に高さが違うようなものを作っているんですね。
 そしてもう一つは千代田区東側は、震災復興で道路が作られました。どういうふうに大きな道を作ったかというと、東西と南北に大きな道を通して十文字を作ったわけです。その時に南北の軸線、これが幹線1号、昭和通りですね。横軸は幹線2号、靖国通りなんです。
ですから震災復興のまちづくりというのはこの南北の昭和通りと東西の靖国通りで十文字を作って、その中心を新しい都心にしようとしたんですね。後の道はそれに平行していくような道として考えられました。
 それは千代田区の中にある都市計画家協会に、震災復興で道路を作るときどんなことを考えたかっていう、原案の地図たちが15年くらい前に発見されたんです。
 初期のものは非常に大きな上野の駅前広場を通ろうとしているのがわかります。東西の軸線の靖国通りを見ていただくと、震災で焼けなかったところにも道を通す計画にして新宿にまで行くんですけれど、非常に大きな広場を通って、なおかつまっすぐに通っている。
 その後予算が10億円くらい削られたときも、名残がまだ残っている。蔵前通りもまっすぐでして、壱岐坂のところでくっついているんですね。
 そして基礎案。ほぼ完成形でもう道路の番号までついて、全体が決まりかけているところでもまっすぐ。で、最後に今のように曲がるんですね。東京の幹線で、こんなに自然に曲がっているところはないんです。この曲がり方は川の流路の曲がり方なんですね。こういうことを知ってみると、まちが本当にいろんなことを語りかけてくる。


左から初期、中期、基礎案。赤線は昭和通り、青線は靖国通りを示す。複数に渡って案が残っているのは、震災復興の中で段々と予算が削られたという背景がある。右の基礎案はほぼ最終段階だが、昭和通りがまっすぐなままである。現在のように曲がったのは、道なりに沿ってつくることで費用が抑えられるというメリットのためだった。

 もう一つおもしろい話があります。靖国通りには、今は珍しい横断歩道橋が1ヶ所だけ残っているんです。ここのなにがおもしろいかといいますと、狭い道の方が元々の幹線なんです。そこに震災復興のとき、新しい道を作ってここは実は道を狭めたわけですね。広い道を作る際、電車も通るようにして混雑を緩和したんです。
 それから、区画整理をしたのでだいぶ変わっていますけれども、この靖国通りから北と南を見ますと、全然感じが違う箇所がありますね。これはなぜかというとここは元々武家地で、その持ち主が違うからなんです。それぞれが持っていた敷地を宅地開発したので、全然別なんですね。
 本当にまちが歴史的なものを尊重しながらも、すごくダイナミックに変わっていったということが読めるおもしろいまちなんです。


画像左■左の道路が元々の幹線。かつては路面電車が3線走る都内有数の混雑地帯だった。画像右■神田の特徴の一つは武家地が多かったことである。武家地単位で宅地開発されていった様子は、道路パターンの差異にあらわれている。

 また、このとき同時に公園をつくっていったんです。元々の形で残っている公園が一つだけありまして、これは残念ながら千代田区じゃなくて文京区の元町公園ですけど、ここに当時できた小学校の建物がまだ残っています。これは震災復興で公園と学校をセットでつくるというのが、うまく残っている場所なんですね。大体学校はL字型かU字型につくって、中庭に子どもたちが避難して来ると、鉄筋コンクリートなので大火があっても守れるんです。同時に震災があったときに中に場所が取れるよう、木は公園の周りに植えた。なおかつ、校庭は狭いので学校でも使えるように、公園と校庭が重なるような計画がつくられたわけですね。同じようなものがこの後たくさんできました。
 これも考えたらすごいことで、当時コンクリートってすごく高くて、木造でつくった方が遥かに安いんです。そして復興ですから、いろんなものにお金が必要になってくるわけですね。普通はお金のかかるものを、お金がないときにやるとはどうかと思いませんか。
 そういう時代でも子どもたちには最高の環境で、火事から守れるよう、レベルが高くていいものをつくっているんです。都心の全部の小学校がそうなんですから。
 こういうちょっとした関心を持ちながら歩くと、まちにいろんなものが刻まれているっていうのが、よくわかるのではないかなというふうに思います。
 それで様々な橋をつくる。聖橋っていうのはニコライ堂と湯島聖堂が向かい合っていたんですよね。ところが大きなビルができて見えなくなってしまった。でもここに新しくソラシティっていうのができて、広場に立つと両方が見えるように設計してある。残念ながら駅側からは見えなくなった光景を、新しい設計では見えるように設計者が考えてくれた。失われた景色が新しい開発の中でまた取り戻されようとしているんですね。
まちを通して共有する
 この地域だけでなく、昔の朱引の中の既成市街地は非常に大きな変化を遂げています。でもそれぞれの時代に一生懸命考えてまちをつくってきた。
 武家地が市街地として住宅地になってきたり、駅をつくったときに高架をつくったり、震災復興のときに公園と学校をセットでつくったり、また靖国通りを少し曲げたり、靖国通りと昭和通りで見事な十字路をつくって新しい都市の背骨をつくったり。そして万世橋の前に見事な駅前広場があった、非常に賑わっていたところを震災復興で もう少し静かなまちにまた変えていったりとかしてきたんです。そういう大きな変化をやりながらも、全部消し去るわけじゃなくて、昔のものの中に継ぎ足していったりしたので何層にも重なっているわけです。それを読むことができるわけですね。
 東京は、日本は変化が激しいし、木造が多いのでいろんなことで変化するんです。しかし一番最初にお話ししたように老舗の商売は、お店はいろんな形を変えながら続いている。そういう心を持って、形を変えながらもなにか繋げていくということを日本人は持っているんだろうなあと思います。
 様々なものを神田のまちを歩くだけでも、実感することができるんです。神田はそういうダイナミズムと歴史の蓄積とを両方持っているまちで、それを大事だと思うのは、新しく来た方も古くからの方も共有できる感覚だと思うんです。
 そしてそういうふうに思えると、このまちに関心が広がって、大事に、自分のまちだと思えてくるわけですね。それがまちづくりから考えて、このまちを新旧の住民がその思いを共有して次の時代へ伝えていくということに繋がっていくんじゃないかと思います。


西村幸夫(にしむら・ゆきお)
工学博士。1996年より東京大学教授、2013年より東京大学先端科学技術研究センター所長。この間、MIT客員研究員、コロンビア大学客員研究員などを歴任。専門は都市計画、都市保全計画、都市景観計画など。
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