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KANDAルネッサンス 95号 (2012.06.25) P.8〜9 印刷用
神田仮想現実図書館55

黎明期のニコライ堂 もうひとつの遺産
ニコライ、そして建築家レスカスと長郷泰輔(ながさとたいすけ)


中西隆紀

 20年もさかのぼるだろうか。堂内には香油のにおいが立ちこめていた。クリスマスの夕、どうしても入ってみたかった駿河台の夜の大聖堂の記憶は今もって鮮やかだ。
 光り輝くイコノスタシスを背に外階段に出る。すると夜空の下、改めて敷地内前面にひっそりとたたずむ目立たぬ二棟の建物が気になっていた。もしかすると、これがあの最初期の建物「十字架聖堂」ではないか。
 ニコライ堂竣工以前、駿河台には地図に記されているように二棟の洋館がそびえていた。だが目の前の石造りはあまりにも質素だ。表面が漆喰と塗料で塗り固められているから、この建物も煉瓦造だとは当時私も気付かなかったのである。
 ニコライ自身が記したモスクワの正教会本部に宛てた日本の現状報告書がある。明治11年のことだからまだニコライ堂は影も形もない。二棟に関する次のような記述がある(ニコライ著・中村健之介訳「明治の日本ハリストス正教会」教文館)。
 東京にある教会の建物は「新しいきわめて堅牢な石造りの建物二棟」とあり、ここには教会と洗礼式場、及び事務局、教室、関係者居室などと説明しているが、端的にいえば二棟にすべてが詰め込まれていたと考えていい。
 さらに話が少し瑣末に流れることをお許し願うと、興味深いのは建物と建物の間の記述。これをつないでいたのは「二階同士をつなぐ屋根付き木造の渡り廊下」であったという。また、その廊下の真下は当時では珍しい「水洗便所」、まだ日本初の「神田下水」も完成していない時期、後に敷地内には井戸も掘られていた。
 いずれにしても、この建物が開化期を語るものとしていかに重要であるかは両国の江戸東京博物館もよく承知していて、さっそく館内にコーナーを設けている。そして大聖堂模型だけではなく、この二棟も加え復元した。だが大聖堂はよく知られているが、この二棟についてはあまり知られていない。いったいいつ頃、建てられたのだろうか。
 ニコライが初めて日本の土を踏んだのは幕末の函館だった。そして北海道から勇躍上京、いよいよ東京で布教を開始しようとしたのは明治5年2月のことである。まずは外国人地区、築地居留地の旅館で旅装を解き、果敢なニコライは時を移すことなく、築地ホテル近くの貸家を見つけ「築地講義所」の看板をかかげるのである。ここまではいい。だが、四、五人の日本人を前に講義を開始したとたん不運にも火事に類焼してしまう。
 この当時、まだ東京は「耶蘇教禁制」下にあり、ロシア正教の講義はおおっぴらには難しかったことが考えられる。当初は「仏教の講演会」(増上寺)を企画するなどくれぐれも事は慎重にと心掛けていたことは容易に想像できる。だが、火事で初回からつまずいてしまった。その後、米人宅、港近くの空き家など点々と模索の日が続き、暑い夏もこうして終わろうとしていた。そこに朗報が届く。
 明治5年9月、駿河台の高台にあった戸田侯爵邸(江戸からの定火消屋敷跡)の土地7,590平米と周辺の旧幕府6人の役宅をロシア公使館の付属地として購入が決定した。「府下随一の勝地にして(中略)、この邸内に大小の家屋幾棟もありしかば、この家屋を以て直に学校」(「日本正教伝道誌」)としたのである。だがその裏には、函館にあったロシア領事館がこの年東京に移り、公使館に昇格したという背景がここにある。
 ニコライの熱心な働きかけが功を奏したわけだが、それにしても「駿河台」という布教の一大拠点構想はこの時期、他の宗派では見られない壮挙ともいえる。私は、現在聖ニコライと呼ばれるこの強靭無双な熱い魂がひときわ高台にあるこの一等地を選ばせたのだと思えてならない。そして推測だが、この時期からすでに眼前にはささやかな聖堂像はなく、大聖堂建設なくして布教の拡大はないとまで思いつめていたと思われる。こうして自身にも重荷を課し神に誓い、第一陣として建てられたのが「十字架聖堂」と呼ばれる、ニコライにしてみれば取りあえずの小聖堂であった。
これは現在江戸東京博物館にニコライ堂とともに模型として復原されている。だが、見れば屋根に掲げられた十字架は建物に比して異常に小さい。なぜだろうか。
 この小聖堂は何と明治6年に着工されている。この年はやっと「禁制」の高札が撤去されたばかり。まだキリスト教界には不穏な空気が続き、したがって巨大な尖塔ははばかられたと思われる。
これは現在「主教館」「司祭館」と呼ばれる二棟だが、その建築家をジュール・レスカスという。このフランス人といったいどこで知り合ったかは不明だが、ニコライは日本語以外に仏語、独語もこなしたらしい。レスカスは当時、関西(生野鉱山)から上京し横浜で建築事務所を始めたばかり、皇居の地盤調査などにもあたるなど新鋭の建築家でもあった。元々土木構造にも強い、このあたりが頑健を志向するニコライとの接点をもたらしたものと思われる。
 レスカスは、後に「THE JAPAN GAZETTE」にも論文を寄せているが、地震国日本には強健な建築をと文部大臣に進言している。この文書は日本公文書館に保管されていて、文中に例として示されているのが「ニコライ邸」だが、レスカスはこの文書で、すなわち私が「駿河台ニ建築シタル「ニコライ」氏ノ家屋」は単なる煉瓦積みではなく、鉄や木の支柱などを組み込んだ耐震造を試みた良い例であると力説していた。
 しかしこの「ニコライ氏ノ家屋」とは何か。当然これはニコライの自邸ではない。ニコライにとっては神の家しかあり得ないから、これは明らかに「十字架聖堂」を指していると考えていいだろう。
 さてそれでは年代はいつか。小野神父によると明治7年説と8年説があるという。これを当時の新聞で見てみよう。結論からいうと、明治7年暮れには「功を竣(おわら)んとす」、ほぼ出来上がっていた。これは12月10日の「新聞雑誌」だから、年内に竣工したと思われる。だが開堂式まで行われたかどうか、これが8年説の根拠だ。
 しかしニコライはこれで拠点が完成したとは思わなかった。明治12年、ニコライは大志を抱き再度ロシアに帰国、資金集めに奔走する。11月、ニコライはすでに日本大聖堂建設のために、府主教及び彼に推薦されたシチュールポフ(ロシア工科大学・建築家)と三人で具体案を協議して再び日本に戻った。
 明治17年3月に現在の大聖堂が着工した時、ニコライは工事監督にある男を起用する。戊辰戦争の下、旧会津藩の生き残りであり信者であった長郷泰輔だ。これはおそらくあの建築家コンドルの采配ではないだろう。ニコライ上京後、長郷泰輔はニコライの紹介で横浜のレスカスに学んでいて、さらにレスカスが十字架聖堂の建築を任されたことなど、これらを総合するとここで「レスカス」つながりになることを初めて知った。
 こうして「長郷泰輔」の奮闘により7年の歳月と34万円の巨費を投じて建てられたのが現在「ニコライ堂」の愛称で親しまれている大聖堂である。24年2月に完成したが、私にはコンドルよりこの会津の残影のほうに興味が残った。
 さて、これ以後、ニコライと大聖堂の命運は、日露戦争という荒波に翻弄されたかに見えたが、ニコライはあくまで日本に踏みとどまり続けた。
 そしてあの関東大震災。ニコライ堂も例外ではなかった。鐘楼上部はドーム側に大きく崩れ、火が入ったため内部が焼け落ちる。また主教館、司祭館の二棟からも出火、木造組みの屋根は瓦もろとも崩れ落ち、内部は焼失して外壁だけが残された。
 その後の再建により今の姿に復興したのはご承知の通りだが、今回とりあげた二棟はどういう変遷をたどったのだろうか。
 江戸東京博物館の調査によれば「主教館は十字架聖堂の部分を一、二階共、他は二階部分を撤去」し、二棟とも屋根をかけ直したのだという。分かりやすく言うとL字型に張り出した主教館のうち、十字架聖堂部分が消え全体に背丈を低くして現在の姿になった。
つまりこれは総体として、外壁だけは創建当時のままだから、明治7年末という驚異的な遺産が外壁に残されて今日に至っている。
 いずれにしてもこれは、現存する都内でも屈指の建築遺産であり、改めて光の当る日の近いことを期待したい。最後にラスキンの言葉「人は建築がなくても生きていけるだろう。人は建築がなくても礼拝はできる。しかし人は建築なしに記憶することはできないだろう」


現在「主教館」となっているこの建物は、元は2階建てであった。神田、いや都内でも最古の洋館と考えられる。

※一部写真はホームページでの掲載を控えさせていただきます。


中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。著書に「幻の東京赤煉瓦駅—新橋・東京・万世橋」(平凡社新書)。
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