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神田資料室

KANDAルネッサンス 88号 (2008.12.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館48

江戸城・竹橋の極秘イベント

——ペリー献上の汽車が走った

中西隆紀

 江戸市内に初めて足を踏み入れたアメリカ人とは誰だろうか。ペリーではない。次に来日した初代米国公使タウンゼント・ハリス、社会科の教科書でもおなじみだ。ハリスはその後、初めて念願の江戸城入りが許され、将軍に謁見した。その前後、宿舎として与えられていたのが今の九段会館の位置にあった蕃書調所(ばんしょしらべしょ)であり、蛇足ながら、ここに急誂(あつら)えの西洋式便所も用意されたということは以前紹介したからすでにご記憶の方も多いだろう。
 このことからもわかるように、最初に来日したペリーは念願の江戸入りは果たせなかった。
 この時のペリーの艦隊は羽田沖までで、あげく、日本の開港は確約させたものの、江戸と将軍謁見はあきらめて帰国するしかなかったのである。
 しかしいずれにしても、日本開国のきっかけはペリーにあることは間違いない。またこれを歴史の舞台として地理的に見れば、ペリーの場合は江戸ではなく、あくまで三浦半島と東京湾の内海手前まで、ここで任務を終了せざるを得なかったということになる。
 したがって、江戸市内にハリスの痕跡はあっても、ペリーの痕跡は何もない。誰しもそう考えるだろう。
 ところが実は、江戸城北の丸にペリーの痕跡があった。これが今回のテーマである。
 当然のことながらペリー自身ではない。彼が持参した電信機など多数の品々。これはペリー帰国後、横浜から将軍への献上品として江戸城内に運び込まれていたのである。
 このなかには後に篤姫が手にすることになるミシンも含まれていたが、何といっても、多数の文明の利器のうちでも最大の目玉が「蒸気機関車」の模型であった。だが、驚くのはその大きさである。なにしろ大きい。実物の四分の一模型とはいっても、一輌が約シングルベッド一個分なのだ。もうこれは模型を超えている。また大きさもさることながら、燃料も石炭という本格的なものだった。それをいったいどのような経路、方法で江戸城に運び込んだものか、残念ながらその資料が残されていない。


ペリー献上蒸気機関車(模型複製/神奈川県立歴史博物館)

 最近、私事で恐縮だが鉄道と縁が切れない。『幻の東京赤煉瓦駅』(平凡社新書)の出版では神田一の「万世橋駅」と須田町がテーマだったのだが、それはいつの間にか広がりを持ってしまった。そして日本の鉄道史をたどるうち出会ったのが今回の蒸気機関車であり、これがまたもや神田とつながってしまったのである。
 ペリー来日当初、客車も含めこの巨大模型一組は横浜にあった。将軍への直接献上はならず、とりあえず横浜に陸揚げが決定され、応接所裏に設けられた空き地で組み立てられた。そして嘉永七年二月二三日から「何回かにわたり、幕府の応接掛その他多くの日本人の前で、アメリカ人の手によって運転されたのである」(日本国有鉄道百年史)。
 ところがある日、武士がこの黒煙を上げる馬上ならぬ「屋根上」にまたがり、海風を受けて横浜を疾走するという一日があった。どうしても乗ってみたかった男は、林大学頭の下で塾長をしていた河田八之助だが、アメリカ側も文明の威力を見せつけたいというのが本音だから、こんな即興は表向きには大歓迎、だが裏では失笑を禁じえずといったところだろうか。だが八之助は真剣だった。かつ爆弾級の異国の危険物は武士の股下で振動するのである。彼は日記に「前車一は煙筒、火箱及び諸機関」、そして「後車一は人を載する」箱で、左右にドア、中は「数十人の安座」とあるが、大人が中に入るのは無理だったようだ。アメリカ側の記録では「六歳の子供をやっと運ぶ」程度のものに、その武士は「乗らないと承知しなかった」と書いている。だが、大人には屋根に乗るのがやっとで、まさに八之助にとっては馬の鞍に見えたに違いない。
 この時横浜はまだ魚の匂いがするただの寒村だった。水深等はすでにペリーの小型測量ボートが確認済であったものの、港としての機能はまだこれからという状況だったのだ。
 日本の鉄道が新橋—横浜から始まったことは誰でも知っている。だが、本物の汽車よりも先にペリーの土産がまず走ったことにも、今少し注目してみたい。すなわちこれが、寒村から一気に開港に向けて華開いた第一声であったからだ。
 さて、この蒸気機関車に最も興味を示したのが、あの伊豆韮山の反射炉で有名な江川太郎左衛門であった。おそらく彼はすでに書物で汽車を知っていたものと思われる。しかし実物をひと目見たい。こうしてたびたび口実を設けて横浜へ出かけている。
 その後ペリーは土産を置いて帰ってしまったが、江川は何とかこれを実際に江戸城で走らせたいと思った。日米和親条約が結ばれた二ヵ月後、すなわち贈り物が将軍に献上された後、嘉永七年五月八日に江川は伺い書を老中阿部正弘に提出している。
 すなわち江戸城内でレールを敷き(おそらく円形)、石炭をくべて走らせようというのだ。これは江戸城に煙があがるということだからたいへんなことだ。だが、城外でやればもっとたいへんなことになる。この時、三十歳に満たぬ病弱の将軍家定はぜひ見たいと言ったかどうか、早くも二日後に許可された。そして五月二十三日、将軍以下幕府首脳の面前で竹橋御蔵地において披露されたと『日本国有鉄道百年史』は語る。
 さて問題は極秘裏で行われたその場所「竹橋御蔵地」だ。いったい江戸城のどこなのか。地図を見てびっくりした。現在の千代田区役所の目の前だったからだ。それはまさに濠の内側、現在の北の丸公園の東のはずれであった。幕末の地図と現代を重ねてみよう。
 幕末の地図では、北の丸は清水家と田安家が大きく二分した形で並んでいる。その東端の濠際が「御蔵地」だ。今までこんな場所に注目したことは一度もなかった。鉄道探索からペリーに至り、まさかこんな場所で煙のにおいを嗅ごうとは……。
 三田村鳶魚全集で「御蔵地」にあたる。さすが偉いのは陰の索引作者だ。おかげで、即刻「竹橋御蔵」にたどりつくことができた。以下鳶魚翁。「竹橋御蔵というものは、宝永五年に代官町(作者注…これも城内)の御蔵を崩して、その代わりに建てられた。延享四年に御賄方(おまかないかた)支配となって、宝暦年中はそこで切米を渡した」とあった。要するに城内まかないの倉庫とその前に広がる広場があったのだろう。
 新装なった千代田区役所の九階が図書館だが、ここから窓外眼下に広がる一帯がそうだ。前面に清水門、その左側一帯がかつての「竹橋御蔵地」で、門から入って、竹橋の国立近代美術館の手前までということになる。その間には科学技術館、立ち入り禁止の警視庁第一機動隊、皇宮警察の宿舎ビルが並んでいるが、周囲を清水濠で囲まれた一角だ。
 江戸時代、ここはどうだったのだろうか。確かにここも城内には違いない。だが大奥からは竹橋の内濠で隔てられていて、その外側に当たる場所だ。したがって安全も考慮して、ここならばということになったものと思われる。


九段下のビルの屋上より北の丸公園方面を望む

 さてその後、残念ながらこの機関車は無能な幕府の管理によって焼失している。したがって今は絵図しか残っていないということを最後にお伝えしなければならない。
明治五年に京都府で博覧会を企画した際、ペリーの機関車模型も展示しようということになった。 しかしこのとき出向いた調査官によって初めて、機関車はすでに存在しないことが判明したのである。機関車はいったん神田一ツ橋の開成所に置かれ、その後幕府海軍所に保管中、火災によって失われていたのだ。
 ここに掲げた写真は各種資料からの複製だが、以上のような理由で忠実に再現は難しかったことはいうまでもない。
 明治五年、日本で最初の鉄道、新橋—横浜が誕生する前、まずはこの巨大模型が江戸城北の丸で黒い煙をあげながら密やかに走ったのである。その場所が竹橋だった。



中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。著書に「幻の東京赤煉瓦駅—新橋・東京・万世橋」(平凡社新書)。
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