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神田資料室

KANDAルネッサンス 91号 (2010.06.25) P.12〜15 印刷用

神田駅誕生と町並変遷【前編】

毎日見慣れたJR神田駅・高架橋。
現在、新幹線の上に新しく東北縦貫線(東北・高崎・常磐線と東海道線を連結)をつくる重層化工事が進んでいる。駅舎のリニューアル計画も進んでいる。
知っているようであまり知られていない神田駅・高架橋誕生からの変遷を追ってみよう。

小藤田正夫(市井人・斎藤月岑に学ぶ会 書役)

神田駅誕生

 大正8年(1919)3月1日(土)、中央本線「神田駅」が開設された。現在の中央線快速電車が走る5・6番線である。その日、午前11時から神田区主催の神田駅開通祝賀会が始まっていた。来賓200名、区内有志者700名が参集し、鍛冶町側の駅前には天幕張の式場や余興場などが設けられ、区会議長の開会挨拶、鉄道院総裁、府知事、市長、神田区長等の祝辞があり、立食の饗宴後、夕方近くまで講武所芸妓百余名の踊り、海老一の太神楽などの余興で、お祭り騒ぎの賑わいであった。
「神田が事実上、東京の中心地になった」ことを祝すべく、開通祝賀会を開催したと当日の「万朝報」に書かれている。この頃の「東京の中心地」とは、日本橋地域を指すのが一般的であるが、神田駅が神田地域の表玄関だけでなく、日本橋も含めた中心商業地域への乗降駅、表玄関となったことを意味している。大正3年に開通した東京駅の前には、まだ丸ビルは建っていなかった。事務所が集中するのは、大正12年の関東大震災の後のことである。
中央線の電車運行は、中野から新宿・四谷・神田・東京を経て、新橋・品川・渋谷・新宿・池袋・田端・上野という所謂「のノ字運転」が行われた。運転間隔は約12分で、代々木・神田駅間は約24分かかった。明治22年に新宿・八王子間が開通し、開発の進んだ中央線沿線と都心部を結ぶことが優先された。山手線による環状運転は、大正14年に東京・上野間が連携されてからである。
神田駅が開通したこの日、青バスとよばれる東京市街自動車会社の乗合バスも上野・新橋間で開通し、神田駅の下を市営路面電車(明治36年開通)と一緒に走り出している。神田は、上野・新橋方面、両国・九段方面への乗換結節点となった。
神田駅は、万世駅誕生の8年後、東京駅誕生の5年後に開設された。駅の特徴は駅舎を独立して設けず、高架下に駅施設を収容するもので、汽車による長距離列車が止まらない電車による近距離列車専用の駅としてつくられた。同形の駅としては、有楽町駅に続いて2番目につくられたものであった。
神田駅の工事は、東京市街高架線建設工事とよばれた。この市街線とは、明治22年の市区改正設計で新橋・上野両停車場を高架線で南北に縦貫して連絡する路線を指していて、縦貫線とも呼ばれた。江戸の郊外西側に作られた「外郭線」(現在の山手線西側)に対し、江戸からの既存市街地を通る東側の鉄道路線を指していた。
駅名については、駅舎のおかれた場所(町名)である「新石町」や「神田鍛冶町」が予定されていたが、最終的に「神田」という駅名になった。確かにこの場所は、江戸時代に神田と呼ばれた地域の中心であるが、昭和22年千代田区の誕生とともに消えた「神田区」全体を象徴するような駅名となってしまった。この結果、神田神保町の古本屋に行くのに神田駅で降りるという現象が生まれた。ちなみに「停車場」に変わり「駅」という名称が使われるようになったのは、大正3年12月に開設された「東京駅」からである。
 大正8年(1919)は象徴的な年である。それは、都市計画法・市街地建築物法が成立し、明治の都市計画というべき、市区改正事業が終了した年であった。また、同年6月には、東京棒給生活者同盟会「サラリーメンズユニオン」が発足し、20世紀という職住分離のサラリーマンの時代が到来していた頃でもあった。
神田駅の誕生により、赤煉瓦と白い花崗石で化粧された高架橋と駅舎による一大モニュメントが東京都心にもたらされた。それは甍や江戸黒といわれた土蔵作りのモノトーンを基調とする商業地域の中で、明らかに異質な新しいものだった。道路上に架かる鉄橋は、緑色でなく錆止塗装のままの橙赤色であった。
鉄鋼・セメントの国内生産が始まった時代である。設計施工も外国技術者の手から日本人が行うものとなった。明治という時代の都市計画の完成である。今から91年前に作られ、今も現役で使われている東京市街高架線は、江戸東京の近代化遺産そのものである。

開設当時の神田駅(JR神田駅所蔵)
写真の絵葉書は中央通りの北側から神田駅の東面を写したもので、空地は、山手線の建設予定地として買収され、すでに杭打工事等が終了している。ここで開通祝賀会が行われた。神田駅舎の場所は地盤が悪く、アーチ橋ではなく、不等沈下に構造的に橋台と桁を一体にした強いラーメンスラブ橋でつくられた。この橋は桁下が有効活用できることから、その後の高架橋の主流となった。

1:開通当日夜の神田駅大通(中央通り)側入口(大正8年3月2日東京朝日新聞)
2:大通側からみた構内(資料1)
3:改札口からみた大通側構内(資料2)
4:乗降場の腰掛・水飲場・待合室(資料1)
5:東京駅方面からみた乗降場、左に構内明り取りのための天窓がある(資料2)


神田駅平面図(資料2)
神田駅の出入口は、北側は中央通りから、南側は多町大通りから線路の間を入る構造となっている。写真は北側の改札口で現在の機能主義一辺倒な駅施設と違い、白タイルによる壁面装飾や天窓による明り取り等、繊細な建築設計がなされている。また、鍛冶町大通(現在の中央通り)から入ると、人力車切符売場、売店、自働電話室があり、手荷物は改札手前の取扱所から高架線下通路をへて昇降機で乗降場へ運搬されるようになっている。改札口の中には便所、乗降場には待合室もある。現在、乗降場は長く延長されていて誕生当初の面影はないが、当時の白タイルは一部残っている。



6:神田駅平面図、本文解説参照(資料2)
7:明治45年(1912)開業の万世橋駅(資料1)
8:神田駅、現在の神田駅西口(資料1)
9:「のノ字運転」ルート(中村建治『山手線誕生』2005年)
10:大正3年(1914)開業の東京駅(資料1)
11:明治43年(1910)開業の有楽町駅、大名小路側からみたもので、電車の左側に報知新聞社(現在のビックカメラの位置)がみえる。(資料3)
12:明治42年(1909)開業の烏森(新橋)駅(資料1)


市街高架線の建設

神田が東京の中心地になるには、負担もまた大きかった。丸の内の中央停車場から秋葉原貨物駅を直線で結んだため、江戸からの碁盤の目のような街区構成に対し斜め30度で1km余りも横切る特異な形の市街高架線が誕生した。この結果、三角形の土地が多くでき、神田の道はわかりにくいものとなってしまった。
上野・秋葉原間は御成道の街区構成にそって概ね建設されている。総武線の隅田川から都心への乗り入れでは、東西の街区構成にそっている。また、東海道線も当初、新橋から丸の内へ銀座を斜めに通す計画があったが、銀座煉瓦街での用地買収は、多大の経費と時間がかかることから、外堀の土手の位置を使う計画に改められた。これにより烏森停車場付近(現新橋駅)で既存市街地を横切り、明治生まれの有楽町も一部横切るところがでてくるが、大半は国有地を使うこととなった。
 東京市街縦貫高架線は、昭和30年代に作られた首都高速道路のように、主に河川や道路の公共用地上に建設するのとは大きく違い、既存の密集市街地の中を縦貫する日本で唯一の事例はないのではないかと思う。用地買収は神田区内だけで一万坪余におよび、「買収に当たり土地所有者と価格の協定上大なる支障なく、全体に於いて良好な成績を挙げたり」と建設記録にある。明治23年に開通した上野秋葉原間の地平を走る貨物線の建設にあっては、下谷区を上げて反対運動があった。また、明治29年から32年かけて行われた新橋・東京間の建設用地買収にあっても、土地収用審査会へ土地建物所有者から裁決を求めることも多々あった。しかしながら神田では大きな反対運動も東京府の土地収用審査会に裁決を求める人もいなかった。火の粉を吐き出す汽車でなく電車主体の運用となり、煉瓦や鉄による橋でなく鉄筋コンクリート造りの高架橋という最先端技術での建設ということで、反対する大きな理由が見つからなかったのだろう。特に明治の終わり頃には、鉄道は軍事手的利用だけでなく、経済活動にとって重要なものと認識されてきていた。明治25年には青森県産のリンゴが神田多町の青果市場で取り扱われている。問屋や仲買の集積でもある都心の市場が、全国につながる鉄道という新しい輸送手段を求めていたからであろう。

1:建設用地につくられたコンクリート杭の現地製造現場、金物通り付近(資料2)
2:蒸気鎚による杭打機、右に万世橋駅がみえる(土木学会誌 第二巻第三号 1916年6月)
3:アーチ脚基礎杭の打立終了(資料2)
4:アーチ橋側面からの工事写真。アーチ部のコンクリート打設は一度に打てないため分割して行われた(資料2)
5:アーチ橋断面方向の工事写真(資料2)
6:「第二小柳町橋」付近から万世橋駅方面をみた工事写真(資料2)


7:江戸からの既存市街地の中につくられた神田駅。
二万五千分一地形図「東京首都」、大正8年
明治41年、鉄道院(初代総裁・後藤新平)は東京駅となる中央停車場の基礎工事を進めながら、東京駅以北—神田柳原河岸間、そして鍛冶町・万世橋間の実地測量に着手した。既成市街地に高架鉄道を建設するという明治の都市計画がやっと動きだした。同43年より用地買収に入り、同45年に終了する。工事は新宿以西の新市街地形成にともない、東京・万世橋駅間を先に連絡することとなった。用地買収の結果、中央線で電車線二線、汽車線二線の計画は、用地買収が困難なことや東京駅に乗降場が確保できないことから電車線のみの二線となり、東京・神田駅間は電車線二組、汽車線一組の六線分の用地を確保された。
工事は、東京・上野駅間建設のための基礎工事も一緒に行われ、大正4年11月に着手、大正8年3月開通にいたった。完成に時間がかかったのは、第一次世界大戦による資材不足等の影響による。
明治45年に開業した御茶ノ水・万世橋間高架橋、大正3年に開業した新橋・東京間は、煉瓦積によるアーチ高架橋であったが、東京・万世橋間は、鉄筋コンクリート造りによる高架橋となった。そして、高架橋西側面と橋台は、赤煉瓦と花崗石で化粧され、既存の市街高架線と一体的なデザインとされた。東側は線路増設が予定されているためコンクリート築造のままか、モルタル仕上げとなった。現在も須田町付近で高架橋の西と東で仕上げデザインの違いを見ることができる。
高架橋の基礎は、従来の松丸太杭から鉄筋コンクリート杭に変わり、杭打工事も人力でなく蒸気ハンマーで行われた。この基礎杭は空き地となった建設地の中で製造され、杭の長さは、地盤の良かった龍閑橋付近での約5.5mから地盤の悪い鍛冶町付近で最長約15mのものが使われ、中央線の高架橋用で4547本、線路増設用のため4734本、合計9231本が打ち込まれた。工事は大正5年3月から大正7年5月まで、一日平均14本弱を打込む工程で、さぞかし大変な音が、連日神田中に響いていただろう。
また、高架橋の本体工事は、鉄筋コンクリート造りのアーチ橋、ラーメンスラブ橋を大規模に連続して建設する日本で初めての事例となった。外濠(日本橋川)に架かり、江戸城曲輪内に入る外濠橋は、外観を花崗石で化粧し、石造の高欄や橋の四隅に高さ約10mの親柱を立てるといった、城門と橋が一体となったようなデザインでつくられている。
東京市街高架線は既存市街地を縦貫するだけでなく、本州を縦貫するという、東京への新たな道と門の顔をつくり上げた。そして職住分離というサラリーマンのライフスタイルを都心に可能とさせた。

8〜10:市街線橋梁立面図。宅地を通る高架橋には町名が橋名となっている(資料2)



11:万世橋駅を神田方面から見る(資料2)
12:高架橋西側の写真、警察前通りから「黒門町橋」をみる(資料2)
13:「鍋橋」・「大通橋」鉄桁架設工事写真、手前道路は神田警察通り、中央に建設中の神田駅、左上に松屋がみえる(資料2)
14:中央通りにかかる「大通橋」、神田駅側からみる(資料2)
15:高架橋東側の写真、中央の鉄桁は金物通りにかかる「千代田橋」(資料2)
16:日本橋本石町から神田駅方面をみる、中央右に神田堀がみえる(資料2)
17:日本橋川にかかる「外濠橋」、親柱は東京駅前に一本移築現存(資料2)


写真・図面の出典
資料1 東京鉄道局写真部『大正十二年九月一日関東地方大震火災記念写真帳』1924年
資料2 鉄道省東京改良事務所『市街高架線東京万世橋間建設紀要』1920年
資料3 鉄道院東京改良事務所『東京市街高架鉄道建築概要』1914年


小藤田正夫
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