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神田資料室

KANDAルネッサンス 92号 (2010.11.25) P.12〜15 印刷用

特集2 寄稿 神田駅誕生と町並変遷【後編】

JR神田駅には三つの乗降場がある。
本稿では、大正14年(1925)に完成した第二乗降場、昭和31年(1956)に増設された第三乗降場の誕生の経緯、そして大正12年(1923)関東大震災が引き起こした神田駅の悲劇、震災復興の区画整理事業による神田の町並変遷を追ってみよう。

小籐田正夫(市井人・齋藤月岑に学ぶ会 書役)

縦貫線誕生と関東大震災

 大正8年(1919)3月に開業した神田駅は、中央線の東京—万世橋駅間に位置していた。東京駅を中心として本州を一つに結ぶためには、東京—上野駅間の東京市街を縦貫する工事が残っていた。計画では、東京—上野駅間に電車専用線二線と汽車(旅客列車)専用線二線の増設、秋葉原駅、御徒町駅の駅本屋新築工事が予定されていた。
 大正9年2月、東京—上野駅間の高架線工事が東京—神田柳原河岸間で始まった。工事は、東京—万世橋駅間工事で施工済の基礎の上に高架橋を建設することで、道路上にかかる鉄桁架設等の工事を除き、大正12年2月にはほぼ終わる。そして、大正13年度末の開通を目指し、残余の工事に着手しようとしていた矢先の9月1日午前11時58分、関東大震災が起った。
「地震と共に日本橋魚河岸方面に火災起こり、次いで北方及び西方に黒煙挙がり、折柄の風勢に煽られて漸次拡大し、午後三時頃には、風は烈風と化し、火勢愈々猛烈となり、次第に駅に接近し、火の粉を被ること夥しかったが、風位幸い四方に変じたため、鍛冶町通り北側を西に向かって延焼し去り、形勢稍良好となった。然しそれも束の間で午後四時頃には火は更に南側に移り、松屋呉服店より次第に駅舎を襲はんとし、一方錦町方面を延焼しつつ進行して来た火は突如として起こる旋風に益猛威を加へ、午後七時頃乗降場上家の一角に移り、他方の火は駅長室より延焼し遂に全部を烏有に帰せしむるに至った。危急漸く迫るや手荷物重要帳表類及び駅備品等を悉く安全と認めらるる四方煉瓦造の階段下倉庫内に搬入して置いたが、付近に多数避難者の持込んだ荷物があった為、これが導火をなし焼失するに至った。尚、当時待合ホーム等に避難していた公衆約五百五十名は逃ぐるに途なく無惨の焼死を遂げた。」(鉄道省『国有鉄道震災誌』1927)
 神田駅は、焼失した飯田町、水道橋、御茶ノ水、有楽町駅などの駅が外濠や神田川に面しているのと比べ、江戸からの既存市街地の真ん中に作られたものであった。中央通りを避難すれば神田駅にぶつかる。そこに鉄筋コンクリートで建設された高架橋がある。当時の最先端の土木技術で造られた鉄道施設は、神田の人にとって防災拠点に見えたのだろう。避難民であふれる神田駅構内に入らず助かった人の後日談では、「煉瓦造のガードだから地震に崩れる心配もなし、火の方もこの入口の鎧戸(シャッター)が締まれば何の不安もない」(松本義邦『東京の青果市場とわたくし』1993)と避難民は確信していたようである。しかしながら、耐震はともかく、当時最新の耐火構造の駅でも、線路の枕木まで焼失するような大火災に囲まれたのであれば、そこでの悲劇的な状況が想像できる。神田駅での焼死者の数は資料によって異なるが、百人以上の人が亡くなったのは間違ない。戦前、毎年9月1日には神田駅で慰霊祭が行われていた。
 神田駅は開設してから4年半で焼失した。江戸の町並を一変させた赤煉瓦と花崗岩の万世橋・新橋駅舎は壁を残し焼失してしまった。高架橋の煉瓦も焼け剥がれ煤けてしまった。
 東京市街縦貫線工事は震災で中断されてしまったが、神田柳原河岸—上野駅間の電車専用線路2線の敷設工事は早急に進められ、予定より半年遅れで大正14年11月に開通し、中央線と分離した山手線の循環運転が開始された。京浜線は上野まで延長され、神田駅にできた第二乗降場は京浜線との併用で使われた。さらに、昭和3年(1928)4月には汽車(旅客列車)専用線2線が完成し、神田駅は6線路構成となった。
 この工事でつくられた神田川橋を前編で紹介した外濠橋と比べてみると、高欄や親柱がないだけでなく、橋梁側面の花崗岩の化粧が疑石塗装飾に変わり、明らかにつくりが違う。高架橋についても、「黒門町橋以南は煉瓦及石材を用ひて装飾を施したるも其為め多額の費用と時日を要するを以て装飾は必要に応じ他日施すこととし、工費を節約して線路の延長を謀るを急務と認め東松下橋以北に於ては一切化粧工事を省略せり」(資料5)ということとなった。東松下橋以北のスラブ式高架橋の装飾は、現在まで行われていない。その後アーチ橋にそって増設される高架橋でも外観の統一性は問題とされず、高架下が有効活用でき、維持管理も容易で、軟弱地盤に強いスラブ式が震災復興以降は主流となった。現在よく見られる装飾のない鉄道高架橋のデザインはここから始まった。

1:大正12年(1923)春頃、中央通り越しに見た神田駅、既設の中央線の左に山手線上野方、第2乗降場、山手線東京方、2本の汽車線の高架橋ができている。(資料1)
2:赤は震災による焼失地、●は焼死者の多かった場所。(資料2)
3:震災後、神田駅から日本橋方面を見る。三越が遠くに見える。(資料1)
4:焼失した万世橋駅、大正14年焼け残った部分を活かして仮駅舎が作られた。昭和11年には鉄道博物館として建て替えられた。昭和18年には廃駅となる。(資料1)
5:焼失した新橋駅、その後改修され使用されたが、昭和45年横須賀線の地下乗降場建設にともない撤去された。(資料1)

6:9月4日の神田駅 写真左が東京方、中央線下り線路には焼失した電車、写真右下の中央通りの白い点は歩行者。(資料3)
7:東京駅方面から見た神田駅、西口のアーチ上部が見える。(資料4)
8:神田駅付近高架橋の火害。(資料4)
9:神田駅構内(中央通り側)全焼の惨状(資料1)
10:神田駅構内(西口側)、菰にくるまれた焼死者の惨たる光景(資料1)
11:神田駅は乗降場上家を仮復旧、大正12年12月9日に営業を再開した。(資料1)
12:万世橋から見た神田川橋、鉄筋コンクリートアーチ橋でき上がり側面(資料5)


縦貫線と区画整理

 大正13年、東京上野間の第二期工事が急がれる中、震災復興計画の中に田町—上野駅間2線増線計画が取り込まれた。それは第一次世界大戦の頃から旅客貨物の輸送量が予想以上の増加となり、将来に備えるための計画であった。このための事業は、復興局に委託して行われ、区画整理施工地区内の土地を任意に買収して鉄道用地に換地するというやり方で、高架橋の東側に2線分追加の用地が確保された。しかしながら、昭和4年、ニューヨークで起こった世界恐慌の影響で大不況となり、増線計画は実現しなかった。鉄道用地は、子供の遊び場や材料置場などに暫定利用されている。
 神田の大半の焼失地では区画整理が行われていた。区画整理は、道路や公園等の公共用地を確保するため、宅地を減歩整理して行うものであったが、神田駅の周辺では大正(靖国)通りと昭和通りが交差する場として大規模な道路用地確保のための宅地の減歩が行われた。この結果、戦前の神田区の道路率は旧15区で最も高い33.2%となり、外国の主要都市と比較しても遜色のないものとなった。しかしながら、幹線道路をこのエリアで結んだため高架橋と同様に三角形の街区を新たに多く生み出すこととなり、鉄道用地は確保されたものの小学校に併設される小公園はつくられなかった。また、区画整理街路は、幅員6m以下の街路は建設しない方針であったが、下町は小敷地が多いため、宅地を接道させるため、幅員3m、4mの道路が多く建設された。
 区画整理の単位は、河川や主要道路で区切られた地区で行うものであるが、神田は鉄道高架橋が境となった。高架橋は川のようなものと扱われ、区画整理の対象から外された。そして高架橋を区切りとして町界の再編が行われたため、江戸からの両側町は、高架橋で区切られる形の町として再編された。戦後この高架橋が千代田区役所出張所の境となったりして、中央通りを中心にしていた神田のコミュニティ単位としての町並は、高架橋を境とする構成となってしまった。そして、震災復興の最中、浅草—新橋間に地下鉄(現・銀座線)が建設され、神田駅は昭和6年(1931)11月開通した。昭和9年には、上野(浅草)—新橋間に地下の縦貫線が新設された。

戦後の縦貫線工事

 戦後も昭和24年頃には山手線の田町—田端駅間にあって、山手・京浜線が同一線路を使用して運行されている状況は輸送力の限界に達していた。この間での遅れの影響は全区間の列車に影響するため、京浜・山手線を分離する必要が生じた。昭和25年(1950)にはGHQから公道上の露店を撤去すべき指示が出て、靖国通り、中央通りや金物通りにあった露店商は、公道から排除された。しかしながら、神田駅東側の鉄道用地に集積していたバラック群(俗称アツミマーケット)は手つかずであった。
 昭和28年(1953)7月、神田—秋葉原駅間高架線新設工事が金物通りの南側に位置する千代田町橋新設工事から着手された。問題は鉄道用地内に建つバラック群と在来高架下の家屋の立退きであった。「在来高架橋と家屋の間3〜5mぐらいの狭い場所でも杭打可能な所は少々の危険はあったが、杭打を強行した。」(資料8)これにより昭和30年7月までに全面的な立退きが完了した。この鉄道用地に鉄筋コンクリートラーメンスラブ橋が建設され、昭和31年11月19日に運転開業された。この復々線により神田駅には新たに第三乗降場が追加され、電車専用6線、回送・引上線2線の構成となった。
 また高架下では、在来高架橋々脚は壁式であったため、駅の出入りに不便があったのを柱式にし、乗降客の歩行の自由性を増し、コンコースを設け、駅施設の改良が図られた。
 これにより新橋から東松下町まで続く高架橋東側の赤煉瓦化粧やアーチ橋は見られなくなってしまった。また、この混乱の最中、昭和28年12月、東京で二番目に建設されていた地下鉄丸の内線は、地域の反対で御茶ノ水駅から銀座線神田駅に接続するコースでなく、外堀通りから大手町駅に至る現在のコースとなってしまった。
 その後も東京市街縦貫線の増設は続き、平成3年6月には、東北新幹線が東京駅に乗り入れた。しかしながら、東海道新幹線とつながることはなかった。
平成14年(1998)3月、JR東日本より東北縦貫線計画が発表された。東北新幹線の工事で行わなかった神田駅での二重高架による東北・高崎・常磐線の東京駅乗入れと東海道線の直通運転をはかる計画である。外郭線と呼ばれた山手線西側で既存の貨物専用線を活用した湘南新宿ライン等による直通輸送に対する、山手線東側で引上線等を活用した東京の市街を縦貫し直通輸送する計画である。明治の市区改正設計以来、神田にとっては、五度目の高架線工事となる。
 大正8年、神田駅が開設された時、「神田が東京の中心になる」と区民は喜んだ。今、神田駅周辺の賑わいはどうであろうか。駅や高架橋で分断された神田ではなく、江戸時代には「神田大通り」と呼ばれた今川橋から万世橋までの中央通りを基軸として、「元々の神田」地域から駅や高架橋を据え直すことが今求められているのではないだろうか。
空襲で焼けた東京駅が平成23年に復元される。東京市街縦貫高架線も、日本の近代化遺産そのものとして評価され活かされることに期待いたしたい。

1:神田駅東側で行われた区画整理後の「第九地区換地位置決定図」。この地区では鉄道用地の確保や幅員36mの靖国通り(須田町交差点を南に移動したため、柳原通りに変わって両国橋へつながる通りとして新設された)と幅員44mの昭和通り(和泉橋と地蔵橋を直に結んで新設されたため高架線と同様に神田の旧来の街区を斜めにきっている)により減歩率が非常に高い地区となった。このため、幹線道路が交差する地区に集積する駄菓子製造業者や菓子原料店を、図左側に示されている本所区の内務省所管地へ半ば強制的に飛地換地することで減歩率の緩和を図られた(資料7)
2:大正14年(1925)11月1日開通した第2乗降場から秋葉原方面を見る。写真右側の汽車線は工事中(資料6)
3:現中央通り高架線上より区画整理前の鍛冶町方面(資料1)
4:現警察前通りより区画整理前の神田富山町方面、高架橋前には焼土、写真右側に神田キネマがある(資料1)
5:現中央通り高架線上より区画整理前の須田町方面(資料1)

6:神田駅高架下改築工事(昭和28〜31年)の概要図(資料8)
7:写真左は高架線東側の鉄道用地に作られたバラックの飲食街、右は高架下の店舗(資料9)
8:立退きの進まないバラック群の中で始まった杭打作業(資料8)
9:高架橋橋脚であった壁をこわし、新たに柱式の橋脚をすえた。これにより通行は楽になったが道路と段差ができた。(資料8)
10:第2乗降場から完成間近の第3乗降場を見る。その右は回送・引上線(資料11)


写真・図面の出典
資料1 東京鉄道局写真部『大正十二年九月一日関東地方大震火災記念写真帳』1924年
資料2 松島栄一他『東京・昔と今』1971
資料3 市川賢治『関東大災害画報』1923
資料4 鉄道省大臣官房研究所編『大正十二年鉄道震害調査書』1927
資料5 鉄道省『東京市街高架線東京上野間建設概要』1925
資料6 三好好三『中央線 街と駅の120年』2009
資料7 東京市役所『帝都復興区画整理誌』1932
資料8 日本国有鉄道東京工事事務所『東工』第9巻第6号1958
資料9 千代田区『新編千代田区史 区政史編』1998
資料10 巴川享則『国鉄電車回送II』1998


小籐田正夫
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