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神田資料室

KANDAルネッサンス 94号 (2011.11.25) P.12〜14 印刷用

秋葉原駅誕生と町並変遷【前編】

秋葉原駅、東京市街を南北に通る縦貫線と東西に渡る横貫線が高架で交差する未来都市的な景観を持つ駅である。
江戸の昔から交通の結節点として発展してきた秋葉原。知っているようで知られていない貨物取扱所の誕生からの変遷を追ってみよう。

小藤田正夫(市井人・斎藤月岑に学ぶ会)

「秋葉の原」から「秋葉原」へ

 江戸は火事が多かった。江戸時代、大火といわれるだけで八十数回あったという。
 特に佐久間町は文政12年3月21日の大火、天保5年2月7日の両大火により、「悪魔町」と称されるほど、薪や炭が集積するこの町からの火事は恐れられていた。斎藤月岑は武江年表で明治二年「十二月、外神田類焼町々の内、神田相生町外十ヶ町、正月中、御用地に召上られ、右の場所一万二千余坪の所、除火〈ひよけ〉の為、塁地〈あきち〉に成置〈なしおか〉れ、其中央より東の方へ寄り鎮火〈ほしづめ〉の社御創建に成、同十五日上棟の式有之、十七日・十八日には此辺のもの、御宮廻り新築封疆〈どて〉(小土手なり)の土持とて衣類を飾り、小石川御門外御堀端の泥土を運ぶ。二十一日には、三度目にて婦女・声妓等美々しく装ひて出たり。よつて見物、群集をなせり。御造営成就して、今年閏十月十五日御鎮座なり。祭神は火産霊神〈ほむすび〉・罔象女〈みつはのめ〉神・埴山毘売〈はにやまびめ〉神以上三神にして、鎮火社と号せらる。社務は神田社にて司る。七年二月よりこの所を花園〈はなぞの〉町と号せらる。世人、当社を鎮火の社と号せらるゝをもて、子細を弁ぜずして遠州秋葉山〈あきはさん〉の神を勧請ありしと心得て、参詣のもの、秋葉山権現と称へて拝する人まゝこれあり。秋葉山は祭神大己貴命〈おおあなむちのみこと〉にて、……別神なり。しかるに此辺の輩も、世間につれて誤れるが多き故、こゝに其趣を記せり。」(『武江年表』明治3年)。祭神は明治天皇の御下命で紅葉山より鎮火三社を奉遷するというものであった。火除地廻りの土手をつくるため声妓=講武芸者が動員され、町名は草花を多く植えたことにより「神田花岡町」(月岑は花園町と記した)となった。外神田に官民一体で造られた公園のような火除地が誕生した。火事の多かった江戸では、火防〈ひぶせ〉の神として秋葉山権現への信仰あつかった。祭神の違う鎮火社を秋葉山権現と勘違いし、この地を新町名でなく「秋葉〈あきは〉の原〈はら〉」(俗称アキハッパラ)と呼ぶようになった。
 明治16年、日本鉄道会社は、上野—熊谷間の鉄道を開通させた。上野は東日本への玄関となったが、貨物を取扱うには水運との連携が必要であり、明治19年12月、日本鉄道は上野—神田佐久間町河岸(秋葉原)間の貨物線敷設免許を出願する。同21年12月には東京府より秋葉の原や河岸地一万余坪の土地引渡を受け、計画を具体化した。
 これに対し、市街地に直接線路を設けることで、地域が分断されること、蒸気機関車からの煤煙による火災に心配して、御徒町周辺の住民や東京市議会は反対運動を起こす。しかしながら、将来上野新橋間に客車鉄道を通すときは高架線にすること、夜間には運転を行わないこと、一日四往復とすること等を条件として明治23年6月5日工事に着手してしまう。延長1.9キロメートル、踏切道10数ヶ所の地平線工事を昼夜にわたり強行し、同年11月1日に「秋葉原貨物取扱所」は開設される。
 この時、「秋葉の原」から「秋葉原」に変わる。「秋葉」は当時「アキハ」と新聞等では読まれていたが、「原」は「の」を取ったために「ハラ」から「バラ」と読まれることとなった。「アキハバラ」の誕生である。江戸からの地名では、「柳原」にしても「加賀原」にしても「原」を「バラ」と濁ることはなかった。江戸っ子には聞き慣れない言い回しとなってしまった。むしろ「アキバハラ」と読んだ方が良かったのかもしれない。
 秋葉原での取扱の主なものは、東北地方からの米穀であり、これが船溜を通じて深川や日本橋へと運ばれていた。佐久間町には米問屋も多く、周辺には運送店が多く集積していた。明治38年の取扱量は約58万トンで、以後、到着量が発送量を年々上回るようになり、大正10年には取扱量は約120万トンまで増加していて、東日本と東京都心を結ぶ物流の拠点となっていた。

  
1:明治17年頃の「秋葉の原」周辺の測量図。鎮火社の西側では敷地内排水のため、池が掘られ築山ができている。昌平橋が現在の万世橋より少し下流に架かっている。これは明治6年に昌平橋が洪水で流失したため、明治7年に私設で有料の橋としてここに架けられたもので、明治36年に無料の万世橋(鉄橋)が架けられると撤去された。(財団法人日本地図センター『五千分一 東京図測量原図』1984)
2:明治23年11月1日秋葉原貨物取扱所の開所式。左側に牛に牽かれた山車がある。飾に蒸気機関車の動輪のような物が据えられている。(横浜開港資料館 『明治の日本』1990)




3:大正11年頃の秋葉原駅構内略図、○印は貨車の向を変えるための転車台の位置を示している。(日本国有鉄道編『鉄道技術発達史II』1990)
4:明治33年頃の秋葉原貨物取扱所から上野方を見たもの、中央に鉄道敷に入れないように可動式の柵があり、機関車が来たときは道路を塞ぎ、奥の歩道橋で線路敷を渡るようになっている。(東陽堂『新撰東京名所図会 第二十四編』1900)
5:明治26年に神田川から堀割を通じてつながっていた船溜所、現在のヨドバシカメラの辺。写真左側が現在の総武線高架橋に位置する。写真中央にニコライ堂が少し見える。神田川からの堀割の跡は現在、和泉橋出張所、秋葉原公園となっている。明治21年頃の計画では現在の万世橋警察署付近にも堀割があり、船溜は神田川に二つの堀割でつながっていた。(東京市編『東京案内上巻』1907
6:同じく船溜の北側を写したもの。(日本国有鉄道東京第一工事局『東京第一工事局八十年史』1976)
7:関東大震災直後の外神田、万世橋南側の中央線高架橋上から見ている。中央右側が秋葉原貨物取扱所(資料6 東京鉄道局写真部『関東地方大震火災記念写真帳』1924)


東京市街高架縦貫線の完成

 新橋上野間の市街を縦貫して高架線で結ぶことは、東北線と東海道線が連結され、本州を縦貫する鉄道となることであった。大正8年3月には万世橋東京間が開設され、中央線が東京駅とつながった。この時東京駅より柳原河岸に至る部分の用地買収、基礎工事は中央線工事と並行して行われ明治43年には終了していたが、佐久間河岸上野間の用地買収は大正8年10月から買収に着手、同11年4月に終了した。買収面積は13000坪弱、買収関係者は1700人に上った。既存の貨物線の位置は、御成道に面する江戸からの町屋や寺社地を避け、御徒大縄地や旗本屋敷があったところを通っていたが、新設の高架橋は上野駅の山手線が山より作られていたため、電車高架線をそれに合わせ、さらに汽車線、貨物線も含め七線分の用地を確保したため、新高架線は西側へ大きく広がることとなった。これに対し、大正9年3月、下谷区会議長より「我下谷区に於て、本年度より万世橋、田端駅間高架鉄道敷設の為め本区枢要の地域たる五條町、上野町、下谷町、仲御徒町、練塀町外十数ヶ町に亘り南北一里、三万余坪の公用徴収に遭ひ、取払家屋三千五百戸余、退去住民一万八千余人、是等諸納税年額十二万余延を算し、現在区勢の十分の一を失ひ、為めに本区の蒙る影響は洵に甚大なりと謂ふべし…」(原文カナ書)と、東京市長宛に意見書が提出されている。上野駅付近では、江戸からの町屋や寺社地にかかることとなり、五條町にあった五條神社は遷座せざるをえなくなった。 貨物線の時と比べ大きな反対運動はなかったものの、土地収用審査会の裁決を受けた者は24名あったという。万世橋東京間の鉄道用地の買収で、神田地域の土地所有者と土地代価や移転等の諸手当価格めぐり、裁決を受けた記録はなかったが、江戸からの町人地でも鉄道建設の受け入れをめぐり大きな差があった。
 大正12年9月の関東大震災にあっては、東京下町の大半は焼失してしまったが、貨物停車場東側の和泉町や佐久間河岸地域は、かっての「悪魔町」の汚名を返還するかのように、住民の必死の消火活動で焼け残った。震災は東京上野間の高架線工事に本格的に着工しようとしていた矢先に打撃を与えることになったが、予定より半年遅れの大正14年(1925)11月1日に開通までこぎつけることとなった。この時、東松下橋(一八通り上に架かる橋)以北の高架橋は、線路の延長をはかることを急務として、煉瓦や石材での化粧工事は残念ながら行われなかった。これにより、御徒町駅が新設され、神田駅にも山手線・京浜線兼用の第二乗降場ができ、山手線は中央線と分離し、現在のような環状運転となり、京浜電車も東京から田端まで同じ高架線を使い延長運転されることとなった。秋葉原駅は貨物だけでなく、旅客、手荷物も扱うこととなった。期せずしてこの日は、秋葉原貨物取扱所ができてから、まる35年目のことであった。

(つづく)


 
8:市街線東京上野間線路平面図、大正14年11月開通時の頃の図、青色が既存貨物本線の位置。赤色で表示されているのが新設高架線、鉄道敷を西側に広げたようすがわかる。現在のつくばエキスプレス線は、春日通り以南でかっての地上貨物線とほぼ同位置の地下を通っている。(鉄道省『東京市街高架線東京上野間建設概要』1925)
9:大正14年東京上野縦貫線開通時の頃の秋葉原駅構内の略図、この後、貨物線の高架線工事が始まる。(日本国有鉄道編『鉄道技術発達史II』1990)
10:工事中の秋葉原駅、明神坂通り側から神田駅方面を見る。(鉄道省『東京市街高架線東京上野間建設概要』1925)
11:大正14年開設当初の秋葉原駅本屋、左側に電車改札口があり、ここが現在の秋葉原駅西口改札口辺にあたる。右側に小荷物取扱所がある。(日本国有鉄道東京第一工事局『東京第一工事局八十年史』1976)
12:練塀橋より見たる化粧工事が行われなかった第一御徒町橋側面、現在この手前左側に神田消防署がある。(鉄道省『東京市街高架線東京上野間建設概要』1925)


 
小籐田 正夫
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