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神田資料室

KANDAルネッサンス 87号 (2008.09.25) P.3〜5 印刷用

特集 神田・坂道散歩

—文学でめぐる神田の坂—


 神田駿河台周辺には坂道が多い。数えてみたら坂は14本もあった。もともとこのあたりは神田山と呼ばれる高台で、江戸に幕府が開かれると、入り江を埋め立てるために山が切り崩され、開発が進んだ場所。坂が多いのもうなずける。
 江戸っ子によって名づけられた江戸の坂は、単純明快で洒落っ気にあふれている。坂の名のいわれを知り、遠い時代に思いをはせるのも坂めぐりの楽しいところ。
 今回は文芸評論家の小川和佑先生、本誌「神田坂めぐり」を連載中の片山喜康さんと一緒に、文学をテーマに駿河台の坂をめぐった。


ナビゲーターは小川和佑先生(左)と片山喜康さん
 

杏雲堂病院の植え込みにある大久保彦左衛門
屋敷跡の石碑
 JR御茶ノ水駅の南側に広がる神田駿河台。駿河台という地名は、徳川家康没後、家康の直属だった旗本が駿府から戻り、この地に屋敷を構えたことに由来する。故郷駿河と同様に富士山がよく見えるこの高台を、彼らは非常に気に入っていたという。

 まずは楽器店が軒を連ねる明大通りへ。杏雲堂病院の前には大久保彦左衛門屋敷跡の石碑がある。「天下のご意見番」として知られる大久保彦左衛門がどこに住んでいたかについては、駿河台説と神田錦町説がある。
「彼は『三河物語』というたいへん面白い記録を残しています。つまり大久保家がいかに徳川家に尽くしてきたか、しかし、そのわりにはあまり報われなかったという真情を吐露しているんです。大久保彦左衛門が登場する時代小説なら、池宮彰一郎の『天下騒乱 鍵屋ノ辻』が面白いですよ」(小川/敬称略・以下同)
 杏雲堂病院の北側にあるゆるやかな雁木(がんぎ)坂を進むと池田坂に突き当たる。かつては雁木(丸太でつくられた階段)が組まれるほど急な坂だったというがその面影はない。
 日本大学理学部1号館の東側にある坂が池田坂で、池田某という旗本の屋敷があったことがその由来。そのままニコライ堂(正式名称は日本ハリストス正教会教団復活大聖堂)の中庭へ。ニコライ堂は関東大震災で被災したが、昭和4年(1929)に再建された。
「ここは江戸時代、火消同心の組屋敷があった場所で、火の見櫓からは江戸の町が見渡せたそうです。さてニコライ堂が出てくる小説といえば、夏目漱石の『それから』がありますが、ほかに中村真一郎の『死の影の下(もと)に』がある。主人公の青年が戦後ニコライ堂のベンチに座って、御茶ノ水駅を行き来する電車を見ながら回想する場面があるんですが、当時は日販ビルもなかったし、駅のあたりもよく見えたんでしょう。この小説には、戦後間もないこのあたりの様子がよく描かれています」(小川)
「ニコライ堂で思い出すのは小津安二郎の『麦秋』という映画です。原節子と二本柳寛がお茶の水の喫茶店でコーヒーを飲むシーンがあって、窓越しにニコライ堂が見えるんです。そのときふと会話が途切れ、窓辺に座った二人が同時にニコライ堂を見上げる。あのシーンはなかなか良い」(片山)
 ニコライ堂の北側から紅梅坂へ。「駿河台史」によれば、このあたりの屋敷に見事な紅梅の大木があったそうで、それが坂の名の由縁となっている。またこの坂は、大正13年(1924)の区画整理で本郷通りができるまでは、幽霊坂とつながっていたという(樹木がうっそうと茂り、昼間でも人気がないような坂は幽霊坂と呼ばれるが、ここも例外ではない)。現在の神田駿河台二丁目・四丁目の一部は、坂に因んで紅梅町といった。
「ニコライ堂の南、現在の日大歯学部のあたりが旧東紅梅町で、明治42年頃、与謝野鉄幹・晶子夫妻が住んでいました。上京した石川啄木が、鉄幹を頼って真っ先にここを訪ねたことが『啄木日記』に記されています」(小川)
本郷通りを上ると聖橋が見えてくる。聖橋が二つの聖堂(ニコライ堂と湯島聖堂)に因んで名づけられたことはよく知られている。
「このあたりを舞台にした小説といえば、獅子文六の『自由学校』です。戦後、神田川の向こう岸(湯島・本郷側)に、戦災で家を焼かれた人たちが掘っ立て小屋を立てて住みついていました。大学へ通っていた頃 (1950年代)、それを見た覚えがあります。小屋が取り払われたあと桜が植えられて、残念ながらその木は切られてしまいましたが、その後ひこばえが出てきて、今でも桜の季節には花を咲かせますよ」(小川)

淡路坂(一口坂)
太田姫稲荷神社があったことを示す椋の木
 聖橋のところから神田川に沿って東に下る坂を淡路坂という。坂上に鈴木淡路守の屋敷があったことがその由来である。別名一口(いもあらい)坂。かつて坂の頂上にあった疱瘡神、一口稲荷に因んでいる。この神社、疱瘡に罹った娘のために、太田道灌が京都の一口の里から勧請したもので、もとは江戸城中にあった。その後家康入国の際に神田川の土手際に移され(太田姫稲荷と改称)、さらに現在の駿河台一丁目に移された。
 坂上で枝を広げる椋の古木には、「太田姫神社元宮」と書かれた神棚が祀られている。

高架下の空間を生かした飲食店。
窓際の席からは神田川が望める
震災や戦災にも耐えぬいた赤レンガの高架線
 さて、行き交う電車や鉄橋を眺めながら坂を下っていくと、明治41年(1908)に造られた赤レンガの高架線が見えてくる。昌平橋の手前には、高架下の空間を生かした飲食店も。ほかにも万世橋駅跡や交通博物館跡があって、鉄道ファンには聖地のような場所である。
 昌平橋と万世橋の間には、江戸時代、見附橋という橋が架かっており、将軍が江戸城から上野の寛永寺に参詣するときの道筋に当たっていたため御成道(おなりみち)と呼ばれた。
「五代目古今亭志ん朝の十八番だった『黄金餅(こがねもち)』という落語に、あんころ餅を喉につまらせて死んだ坊主の亡骸を、下谷山崎町の長屋から上野の山下を通って、寺のある麻布まで運ぶという場面があるんです。40ほどある道筋を順々に言っていくんですが、言い終えると『みんな疲れたが、私もくたびれた』っていうくすぐりが入る(笑)。筋違御門(すじかいごもん)、神田須田町、鍋町、鍛冶町といったこの界隈の町名も出てきます」(片山)

存在感のある「おたぬきさん」がお出迎え。柳森神社
今も残る看板建築
 万世橋を渡り、柳森神社へ。神田川の南岸は柳が植えられていたことから柳原土手と呼ばれた。一説には太田道灌が鬼門除けに柳を植えたとも。柳森神社も道灌ゆかりの社である。それほど広くない境内には、将軍綱吉の生母桂昌院によって創建された福寿神の「おたぬきさん」や富士講関連の石碑、力石などが同居している。
「この界隈は、江戸時代には土手のそばに露店を出し、古着を並べて売っていました。その名残で現在でも繊維問屋が多い。それとまだ看板建築が残っています。これらは関東大震災後につくられた建物で、なかは木造ですが、火事除けのために表は銅版を貼り付けてあります」(小川)
「時代小説には柳原土手がけっこう出てくるんですが、池波正太郎の『鬼平犯科帖』にも出てきます。夜鷹に扮した囮(おとり)の女密偵おまさが襲われるのも(「夜鷹殺し」)、年老いた元盗賊の鷺原の九平が芋酒やの店を出しているのも(「兇賊」)この土手です」(片山)
 折り返し地点の和泉橋へ。
「川の向こう側にある三井記念病院はもと幕府の西洋(東京)医学所だったところ。医学所の頭取に就任した奥御典医の松本良順は、新撰組の検診医でもあったため近藤勇や沖田総司の面倒もみています。その松本良順を主人公にした小説が、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』です」(小川)

 昭和通りから靖国通りに入り、神保町方面へ折り返す。
「多町にはやっちゃ場(青果市場)があって、とてもにぎわっていました。吉原の裏で駄菓子屋を営んでいた樋口一葉もよく仕入れに来ていた。しかもちゃんと黒の羽織を着て。要するに自分は士族なんだという誇りがあったんでしょう」(小川)
「病気の若旦那のために、番頭さんが真夏にみかんを一つ千両で買うという『千両みかん』。この落語に出てくる水菓子屋のモデルが万惣らしいですね」(片山)
 万惣は須田町交差点にある高級果物店。江戸時代、このあたりに青果市場があった頃から続く老舗である。
 お昼は神田まつやで。おすすめは、品書きには載っていないが、海老の天ぷらが4尾とかき揚げのついた「揚げ天盛り」。ほかに香ばしいごまのつけ汁でいただく「ごまそば」も。
「まつやは池波正太郎が贔屓にしていた店。山の上ホテルで執筆中、ホテルの洋食に飽きるとここに来ていました」(小川)
「池波正太郎といえば、彼の数少ない現代小説『原っぱ』のなかに、どうも山の上ホテルをモデルにしたんじゃないかと思われるホテルが出てきます。あの小説は彼の東京へのオマージュですね。自分の思い描いてきた東京がだんだんなくなってしまうことへの愛惜の念がものすごくよく出ている。池波版『日和下駄』といったところでしょうか」(片山)

 食事を終えて坂めぐりを再開。淡路町交差点を右に折れ、二本目を左に入ると観音坂。坂の名は江戸時代、このあたりに茅浦(かやうら)観音寺があったことに因む。現在は坂の途中に、聖観世音という祠がある。幸田文の「流れる」に登場する老舗旅館、龍名館は坂上にある。
 観音坂と幽霊坂の間にあるのが新坂で、明治維新後にできた坂なのでこう呼ばれる。
 本郷通りを渡り、三井住友海上駿河台ビルの前へ。ここは以前中央大学があった場所。さらにその前は、宰相・西園寺公望の屋敷であった。まさに土地に歴史あり。そのまま進むと甲賀坂に至る。坂の名は甲賀忍者の組屋敷があったことに因む。
「江戸末期、小栗上野介の屋敷があったのもちょうどこのあたり。日本の近代化を推し進めた小栗上野介については、佐藤雅美の『覚悟の人—小栗上野介忠順伝—』に詳しく書いてあります」(小川)

富士見坂
夏目漱石の記念碑の前で。
「明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ」とある
 明大通りを渡り、そのまま道なりに下っていくと、右に下る小さな坂、富士見坂がある。富士見坂と呼ばれる坂は都内だけでも15本あるそうだが、実際富士山を見ることができるのは2本だけという。富士見と名がつくからには、このゆるやかな坂からも富士山が望めたのだろうが、ビルが林立する現在の状況からは望むべくもない。このあたりで富士山を拝みたいと思ったら、明治大学リバティータワーの23階にある「サロン燦」へ。秋から冬にかけて、特に夕焼け富士が美しいそうだ。
「永井龍男は神田猿楽町1丁目に生まれました。少年時代の思い出を書いた『黒いご飯』は、貧しい印刷工一家の話ですが、自分の生まれた場所を崖下の薄暗い町と表現しています。いまこの小説を読んでもその貧しさは理解できないんじゃないかと思う。彼は菊池寛に見出され、後に文藝春秋の社員となりますが、編集者であるかたわら作家でもありました」(小川)
 かつての錦華小学校、お茶の水小学校へ向かう。夏目漱石の記念碑は猿楽通り沿いにある。
「漱石は当時評判のよかった錦華小学校に転入し、卒業後二松学舎で漢文を学びますが、再び駿河台の英語塾で学んでいます。駿河台の井上眼科での初恋のエピソードなど、漱石は神田と縁があるんです」(小川)
 猿楽通りには崖上のとちの木通りへ至る石段が二つ。明治大学付属明治高等学校のところを一直線に上る男坂と、YMCAの先にある屈曲した女坂である。男坂・女坂といえば、神社へ通じる道を指すことが多く、険しいほうを男坂、ゆるやかなほうを女坂と呼んだ。石段を数えてみると、男坂は73段、女坂は82段で、女坂は途中に踊り場が二か所設けられているが、かなり急な石段である。二つとも関東大震災後の区画整理で造られた。
「男坂を上ったところに『マロニエ』という雰囲気のよい喫茶店があって、学生の頃よく行っていたんですが、なくなってしまいました」(片山)
やがて「食堂アンチヘブリンガン」の小さな看板が。一度聞いたら忘れられないこの名前にピンときたら、かなりの映画通(詳しくはp15をご覧ください)。
「小津安二郎の『秋日和』のなかで、本郷三丁目の薬屋の娘(原節子)に目をつけた男三人(佐分利信、中村信郎、北竜二)が、必要もないのに買いに行く薬の名前が“アンチヘブリンガン”でした」(片山)

皀角坂
皀角坂にある句碑。「皀角の実はそのままの落ち葉
かな」。芭蕉の句らしい
サイカチの鋭い棘
 小栗坂は猿楽通りと錦華通りの合流地点、ちょうど猿楽町と三崎町の境にある坂で、旗本・小栗信友の屋敷があったことに由来する。坂を上れば皀角(さいかち)坂。その名のとおり江戸時代はサイカチの木が生えていたという。サイカチはまめ科の植物で、幹に鋭い棘をもち、20〜30センチほどのねじれたさや(実)をつける。
 昭和35年(1960)、当時千代田区土木課に勤務していた新堀栄一さんは、坂の名に因んでサイカチを3本植えた。50年近く経ったいま、サイカチは大きく成長し、晩秋には茶色の大きなさやを見ることができる。
「このあたりは幕末まで旗本の屋敷があったところです。『御宿かわせみ』を書いた平岩弓枝の『はやぶさ新八御用帳』は、南町奉行所の内与力、隼新八郎の活躍を描いた時代小説ですが、そのなかの一篇『さいかち坂上の恋人』はここが舞台となっています。小説を読んで、近代化された町を歩くと隔世の感がありますね」(小川)

 とちの木通りへ入ると、目に入るのがアテネ・フランセの個性的な建物。先ほどの男坂・女坂をとちの木通り側から見下ろしてみると、あらためて猿楽通りとの高低差を実感する。新校舎が完成した文化学院の手前から錦華坂(錦華小学校が由来)を下っていくと、山の上ホテルが見えてくる。坂めぐりのゴール、山の上ホテルのコーヒーパーラーヒルトップに到着。
坂めぐりを終えてヒルトップで寛ぐ
「山の上ホテルは昔から作家たちがカンヅメになって、つまりここに宿泊して原稿を書くことで知られています。さて最後に取り上げるのは、逢坂剛の『墓石の伝説』です。主人公をはじめ西部劇を愛してやまない面々が、映画制作のために奔走するという話なんですが、逢坂剛はしばしば神田・お茶の水界隈を舞台にした小説を書いています。実在の店もたくさん出てきて、もちろん山の上ホテルで食事するシーンなどもあって、このあたりを知っている人ならもっと楽しめますね。休憩時間を入れて約3時間。今日は本当によく歩きました」(小川)


おすすめの3冊
  
左から池波正太郎「原っぱ」(新潮文庫)
平岩弓枝「はやぶさ新八御用帳」(講談社文庫)
逢坂剛「墓石の伝説」(講談社文庫)

■参考文献
横関英一『江戸の坂東京の坂』中央公論新社<中公文庫>、1981。
横関栄一『江戸の坂東京の坂 続』中央公論新社<中公文庫>、1982。
『千代田まち事典』千代田区、2005。

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