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神田資料室

KANDAルネッサンス 85号 (2008.03.25) P.2〜3 印刷用
特集 世の中にたえて桜のなかりせば

桜・文学散歩

小川和佑

川端康成「招魂祭一景」
 明治と改元されて二年目。函館の旧幕軍の降伏によって戊辰(ぼしん)の内戦が終了した一八六九年(明治二)、東京麹町九段坂上に、戊辰戦争の戦没者と、幕末の勤皇運動の殉難者の霊を祀(まつ)る東京招魂社が創建された。
 この社(やしろ)は天神地祇(てんじんちぎ)を祀る神社ではなく、御霊(ごりょう)信仰の社であった。戦死・殉難死者の霊魂の怨霊(おんりょう)によって護国鎮護の社である。
 創建された東京招魂社(一八七九年靖国神社と改称)の境内には、従来の神社の社叢と異なって江戸で流行の新種の里桜ソメイヨシノが植樹された。江戸中期以後、散る桜を武士の死生観として、桜は武士の花という桜観がこの招魂社の植桜となった。
 その桜は年を経るにつれて新都東京の新しい花の名所となり、春秋の例大祭には多くの参詣者を目当てにサーカス小屋、露店が並び、ことに日清、日露の戦役後は全国から参詣者が蝟集(いしゅう)した。
 「騒音がすべて真直ぐに立ちのぼって行くような秋日和である。」の冒頭の一文から始まる川端康成の「招魂祭一景」(大正十年『新思潮』二号)は靖国神社の祭礼を描いた唯一の小説である。この一作で菊池寛賞の激賞を受け、その知遇を得た。
 小説は例大祭の雑踏と曲馬の少女お光と桜子を光と影に描いた一編の抒情詩のような短編であった。ここには一九二〇年代の靖国神社の祭礼の姿が克明に描き出されている。
 桜の咲く春の例大祭では川端の短編の秋の例大祭よりもいっそう華やかであったであろう。しかし、二〇〇八年の春の靖国神社は桜のみ変わらず咲くのだが、「招魂祭一景」は古い幻灯画のように小説の中に存在するのみとなった。

渡辺淳一「桜の樹の下で」
 靖国神社から千鳥ヶ淵へ。この桜並木は千鳥ヶ淵の濠に沿って植えられている。正式な名は千鳥ヶ淵緑道という。緑道の奥三番町に第二次大戦下海外での戦没者のための戦没者墓苑がある。この桜並木は戦没者墓苑へのプロムナードになっていた。
 一九七〇年代。この桜は新しい桜の名所になった。ここでは飲食が禁止されている。花見客の喧騒がない。緑道をそぞろ歩きながら濠向こうの北の丸の桜と併せて純粋に花を楽しむ都心の花のスポットであった。
 渡辺淳一は一九八七年五月から八八年四月まで『週刊朝日』に「桜の樹の下で」を連載し、完結後八九年四月に単行本として朝日新聞社から刊行された。
 連載中から桜の花妖(かよう)ともいうべき京都の料亭たつむらの女将菊乃が読者の眼に鮮やかに映っていた。菊乃には東京の出版社主の遊佐という愛人がいる。上京した菊乃は遊佐に誘われて九段の千鳥ヶ淵緑道の夜桜を観る。

  一瞬、菊乃の顔が桜に近づき、白い喉が桜明かりのなかに浮き上がった。
  桜の枝を折るのが禁じられていることくらい、菊乃は知っているはずである。
  だが注意するまもなく、菊乃は一本の小枝を折ると、宙にかざした。
  「くす……」と笑ったようだが、声は春の夜に吸い込まれ、ほのかな笑顔だけが、月明かりのなかに残った。 
                                                      —「桜の樹の下で」

 夜桜の下で菊乃は花妖になる。桜は美しい女身という五世紀以来の桜愛がここに描かれる。朝日を浴びる桜は清々しく、命の輝きを見せて美しいが、夜の桜は妖しい花妖に変身する。
 芥川賞作家の清水基吉の句、

  夜桜は老いて妖しき夢を見る

は夜桜の蠱惑(こわく)を詠んだ佳句だが、満開の桜の下では女性は誰しも花妖となる。
 春の長い夕暮れ、この緑道の桜はことに美しい。千鳥ヶ淵の水に夕暮れが迫って桜の梢の高くにはまだ明るい夕空が残っているが、足元の樹下はもう夜が忍び寄っている。
 千鳥ヶ淵の桜はこの一刻が最も美しい。

  夕桜折らんと白きのど見する/横山白虹

桜の妖かし
 夜桜に花妖を見たのは渡辺淳一ばかりではない。宮本輝の「夜桜」では満開の桜が青い光に散ってゆく様に、この小説の女主人公綾子は「彼女はいまなら、どんな女にもなれそうな気がした。どんな女にもなれる術を、きょうが最後の花の中に一瞬透かし見るのだが、そのおぼろな気配は、夜桜から目をそらすと、たちまち跡形もなく消えてしまうのだった。」と夜桜の妖(あや)かしを描いている。
 村上春樹も一九六〇年代の学園闘争下の青春を描いた「ノルウェイの森」で、純粋ゆえに心を病んで京都御室市の北部にある療養所に入所した直子を「僕」は見舞う。
 春の夜、寄宿先の庭には桜が満開で、闇の中に花の匂いが満ちている。「僕」はその匂いに腐臭を感じ、美しい直子の肉体がなぜ病まねばならないのかと、春を激しく憎む一節がある。これも花妖を描く小説である。
 宮本輝、村上春樹の小説を辿って、千鳥ヶ淵の桜の樹の下を夕暮れ辿ってゆくと、夕闇に浮かぶ花々はすべて花妖となり、美しい女身を幻想させる。

神田の桜
お茶の水小学校裏側に咲く桜(カンザン)
 さて、文学ゆかりの神田の桜はと、思い出せばお茶の水小学校(旧校名錦華小学校)の様である。
 夏目漱石は明治十一年(一八七八)、市ヶ谷柳町の市ヶ谷学校から当時の神田猿楽町の錦華学校に転入学している。
 お茶の水小学校の校門のかたわらには、漱石在学を記念して漱石文学碑が桜の樹の下に建てられている。桜は校門を中心に左右に建てられた校舎に沿って植えられた。これは明治二年の小学校設置以来、小学校の校門のどこにも見られる風景だが、実はこの小学校の裏側、錦華坂を下ったところに、二本の八重桜の老桜がある。
 いまから六十年前のこと。昭和の初めに建てられた明治大学の旧一号館の三階の教室からこの桜がよく見えた。空襲で焼け残ったのだろうか。桜は大きく枝を錦華坂に差し伸びていた。校庭からの児童たちの歓声が聞こえてくる。神西清講師のチェホフの講義を虚(うつ)ろに聴きながら八重桜の美しさに心を奪われていた。
 その桜はいまも残っている。体育館の陰になり、すっかり樹勢が衰えたが、去年の春も花咲かせていた。高い塀の上なので定かにはわからないが、八重桜はカンザンらしかった。
 もしも、この八重桜が校門のかたわらの漱石文学碑の場所に移植されていたなら、人は漱石桜と呼んだであろう。
 隣の錦華公園には池の畔の石段のかたわらにジュウガツザクラもあったが、公園改造工事で伐られてしまった。神田の小さな桜スポットは消えたが、代わって道灌通のスルガダイニオイの並木が生まれた。(注・道灌通の桜並木については、神田の桜守、佐藤正幸氏の話を参照されたい)

■文中で取り上げられた作品
「桜の樹の下で」は新潮文庫で、「夜桜」は「宮本輝全短篇(上)」(集英社)か「宮本輝全集 第13巻」(新潮社)で、「ノルウェイの森」は講談社文庫で読むことができる。「招魂祭一景」は「新潮日本文学15川端康成集」「川端康成全集第2巻」(いずれも新潮社)に収録されているが、残念ながら品切れ。この作品を読みたい方は図書館か古本で。
小川和佑 文芸評論家
1930年生まれ。主な著書に「桜の文学史」(文春新書)、「桜と日本文化」(アーツアンドクラフツ)、「花とことばの文化誌」(アーツアンドクラフツ)などがある。
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