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神田資料室

KANDAルネッサンス 81号 (2007.04.25) P.2〜5 印刷用

特集 神田の紙と本にまつわる話

神田は古くから紙や本とのつながりが深く、特に錦町は大学などの教育機関があり、出版、印刷、製本業が多く集まる町であった。今回は紙や本づくりに携わる方々に話を聞いた。

紙とともに108年。「ファインペーパー=竹尾」の歩み

紙を専門に扱っていた「竹尾」が京橋から神田に移ってきたのは1907年(明治40)のこと。
以後、紙に対する情熱と独自のアイデアで特殊紙の開発と供給に力を注いできた。
竹尾の代表取締役社長竹尾稠さんに話を聞いた。

「紙は見る楽しみ、選ぶ楽しみ、持つ楽しみ、買う楽しみがある。紙を通して心豊かな社会のお役に立ちたい」

竹尾稠さん
 「出版に関して言えば、日本にない紙はないでしょうね。しかも自給自足。95%が国産なのです」と竹尾社長は話す。
 紙が豊富にあるということは、デザインの可能性が広がるということでもある。装丁やパッケージなどに使われる素材感のある高級印刷用紙を特殊紙というが、竹尾では色や風合い、模様などを施したこれらの紙を「ファインペーパー」と呼んでいる。ファイン(fine)には品質のすぐれた、上品な、洗練されたという意味がある。
「ファインペーパーは『気持ちを伝える紙』『情感を伝えるメディア』だと言っています」
 同社の創業は明治32年。戦後には輸入に頼って井いた特殊紙の供給を特殊製紙、日清紡の協力を得て国内で生産できるように注力してきた。さらに色のバリエーションを取りそろえて常備在庫を可能にし、定価販売、見本帳(ペーパーサンプル)の整備によって細かい需要にも応じる新しい販売システムを構築しスタートしたという。営業用に小さく綴じたペーパーサンプル(ミニサンプル)を最初に作ったのも同社である。
 また、グラフィックデザイナーの協力を得て日本の印刷、出版文化のために、ファインペーパーの開発に情熱を注いだ。竹尾の現在の基礎となるファインペーパー「アングルカラー」「STカバー」「マーメイド」「パンドラ」「サーブル」はこの時期に誕生している。
 50〜70年代は特殊紙の需要が飛躍的に伸びた時期でもある。その後もデザイナーとの商品開発により、個性をもった紙が次々と生まれていった。

■次の百年を見据えて
 紙を扱う企業として資源の有効活用や環境への負担を最小限にするなど環境保全の問題にも取り組んでいる。98年には環境保護に貢献する環境対応紙を「GA(グリーンエイド:緑を助ける)商品」として定め、その開発に力を入れている。
 環境対応紙とは主に①非木材紙(木材パルプ以外のもので作られた紙)、②再生紙(古紙で作られた紙)、③無塩素漂白パルプ紙(塩素を用いずに漂白したパルプで作られた紙)、④森林認証紙(適切に管理された森林から作られた紙)のことを指し、時代の流れでその主流は変わってくる。同社にはGAという表記がついた紙があるが、それらは環境対応紙である。
「何にでも古紙を使えばいいというものではなく、たとえば百年もたせる本に古紙は使いません。古紙は経年変化しますから、本がぼろぼろになってしまう。紙の用途によって使い分けることが大切なのです。私どもは次の百年を見据えて、今から対策を考え提案しているのです」

たけお・ただし●1942年生まれ。創業108年の紙の老舗、株式会社竹尾の五代目社長 

魅せるプロダクト“Dresco”
 「ドレスコ」は竹尾が紙にこだわってつくったオリジナルステーショナリーブランドである。コンセプトは、ファッションアイテムとしても使えるような、その日の気分や洋服に合わせて選べるようなステーショナリー。20代後半のこだわりをもった女性がターゲットだ。
 「一般の方にもっと紙を身近に感じてもらいたいという思いからこのブランドは誕生しました。商品展開はノート、栞や下敷きにもなるブックマークバンド、レターセット。ノートの帯には使用している紙の名前が入っており、紙には名前があって種類があって、それぞれに名前があることがさり気なく伝わるようになっています」と開発に携わった竹尾の反町陽子さんは話す。
 意外にも紙にこだわったステーショナリーはそれまでなかったという。そのため本文紙も特徴のある紙をセレクト。透かしの入った紙、ハリのあるしっかりとした紙(この紙は万年筆に最適だそうだ)、そして玉葱の薄皮のように軽く柔らかい紙の三種類である。それぞれ厚さの異なる紙を使用しているが、綴じ方やページ数を調整することによりノートの厚みをそろえている。ページ数の違いや質感も楽しんでほしいという。
 「いざ販売してみると男性もけっこう買われていきますね。ギフト用に買われる方も多い。シンプルなデザインでありながら、こだわってつくられているところが受けているみたいです」
これらの商品は既存の文具売り場ではなく、ファッション、デザイン、インテリアなどのセレクトショップや国立新美術館のミュージアムショップ等で手に入る。夏には新作が出る予定だ。

竹尾ペーパーショウ2007“FINE PAPERS”
 紙の可能性と将来性を追求するイベント「竹尾ペーパーショウ」。42回目を迎える今回は、会場を青山から丸の内に移して、感性に訴える紙、ファインペーパーの機能と新しい価値を探り、そこに生れるデザインの魅力を発見する試みがなされた。
 昨年よりテーマを紙に絞り込み、紙を生業とする竹尾という企業を前面に押し出している。また、代表的なファインペーパーの個性や機能性を生かして、会場となる丸ビルや周辺のショップやカフェとのコラボレーションを実現した。


製本職人・上島松男さんの仕事

製本という仕事を簡単に説明すると、印刷された紙を指定された本の形に加工するということになるだろうか。
グラフィックデザイナーの杉浦康平氏は製本について次のように表現している。  
「本の美しさ、凛としたたたずまい。その最後の決め手は、『製本』である。(中略)五感を絡ませて感じとる本の美は、よき製本によって引き締められる*」
製本職人である上島松男さんが手掛ける本は、機械ではつくることのできない特殊な仕様のものばかりである。
斬新なアイデアにも極力応えるため、多くのデザイナーが信頼を寄せている。
今から50年ほど前、上島さんが製本技術を学んだ関山製本社での話を中心に話を聞いた。

「デザイナーの方のアイデアに対して、どれだけ応えられるかが職人としての使命。できないと言ったことはありません。それはわたしのポリシーです」

 生まれは東京ですが、空襲で家を焼かれて信州に疎開したんです。中学まで長野にいたんですが、父親が倒れて就職しなくてはならなくなった。それで神田にある関山製本社に入ったんです。就職というより弟子入りといった感じですね。社長(三代目・関山景一氏)のことも親方と呼んでいましたから。15歳で仕事に就いて、製本がどういう仕事かもわかっていませんでした。何年か経ってやっと自分の仕事がわかる、そんな感じでしたよ。
上島松男さん
 昔は残業するのは当たり前。仕事をしていてきついと思ったことはなかったですね。こんなもんだろうと。今と比べるとその忙しさは桁違いで、夜中の12時に終わるのは早いほうで、朝の6時、7時ごろまでぶっ通しで働いていました。紙の山に寝転がって仮眠をとったりしたのも、今思えば懐かしいですね。
 当時製本工程は機械化されつつありましたが、まだまだ手作業の部分が多く残っていました。ちょうど昭和30年代というのは主に角川文庫をやっていて、従業員が40人ぐらいいたんですけど、夜の9時、10時まで残業しても一日につくれる部数は8千部。当時8千部といったらすごかったんですよ。8千部つくれる製本所は東京に何軒もなかった。ところが今同じものをつくったら、一日で5万部ぐらいできちゃいますけどね(笑)。
 山川出版、誠文堂新光社、大修館書店、このあたりは出版社も多くて、お得意さんも近くにありました。なんせものをリヤカーで運ぶ時代ですからね。製本所は都内でも3千近くありました。一番多かったのがやはり神田で、一八通りとかさくら通りにも多かった。この界隈の製本所は、『明星』とか『平凡』をつくっているところが多くて、どの製本所も目一杯やっても追いつかないという感じでした。
 おそらく業界でも最初だと思いますが、親方は従業員の労働条件の改善や残業しなくてもやっていけるようにしなくてはならないという考えをもっていました。製本屋の親父さんというのを他に知らないけど、この親方についていけばいっぱしの人間になれるなと思うくらい勉強熱心でしたし、古典芸能にも詳しかった。そしてちゃきちゃきの江戸っ子。錦町の町会長も長く務めていました。私も神田に来てからはずっと神輿をかついでいました。
■竹尾栄一氏との出会い
 会社が近かったこともあって、竹尾さんの企画室に通うようになったんですが、そこで初めて竹尾栄一社長にお会いしました。社長はいろいろな外国製のペーパーサンプルを見せてくださり、日本でも素晴らしいペーパーサンプルをつくるんだと熱心に語りました。それで私は試作を繰り返し、ようやく社長からOKをもらったんですが、それからが大変でした。試作品を社内に持ち帰り、親方をはじめ諸先輩に相談したんですが、初めて見る形に皆驚いて、なかなか建設的な意見が出なかったんです。でも親方は理解してくれ、なんとかスタートすることができた。製作には6ヶ月かかりましたが、大きな仕事を成し遂げたという充実感でいっぱいでしたね。それ以後竹尾さんから仕事をいただくようになりました。昭和37、38年頃のことです。
 新しいものができるたびに社長は声を掛けてくれました。とてもうれしかったですね。しかしこれも親方の理解があってのこと。いつも私を見守っていてくれたように思います。
■手製本へのこだわり
 関山製本もご多分に漏れず機械化して生産性を上げていかなくてはならなくなりました。ただ、竹尾さんやデザイナーさんからの仕事はやはり機械ではできないんです。手作りの需要があったんですね。それで親方に相談したんです。会社の機械化は世の流れで仕方ないけど、受注がある以上、小部数の手作りもすたれさせるわけにはいかない。手製本にこだわりたいと。親方は当然だと言ってくれました。昔の人でしたから、職人の手作りの技術を残さなくてはとずいぶん気にしていました。それで四代目が大学を卒業するのを待って、その後暖簾分けのようなかたちで独立させてもらったんです。
 そのうちデザイナーさんから直接相談を受けるようになり、手製本の仕事が増えてきたんです。デザイナーの方々の斬新なアイデアに対して、できないと言ったことはありません。それはポリシーですね。意地でもやってやろうと。それはその道の人だったらお互いわかるんですよ。
 この仕事はやはり熟練が必要なんです。技術を知らないためにできないことっていっぱいあるわけですよ。一通り熟知していないと、デザイナーさんの要望に応えきれない。先生方うるさいですから、ちょっとでも未完成だとOKしてくれません。そういう意味では技術が伴っていかないとだめなんですね。10年20年、僕なんか30年ぐらい経験を積んでやっと皆さんの要望に応じられるというか、それでもまだ難しくてできないことはいっぱいありますよ。
 技術を習得するにはある程度辛抱が必要です。技術を学んだ人たちというのはみなその技術で飯を食っているわけですよ。製本も同じ。でも悲しいかな機械化によって、職人が必要とされなくなってしまった。パートさんで間に合ってしまう。経営者にしてみれば、高い給料を払って職人を抱えるのは大変なことですから。
 3年前に体調を崩しまして、リハビリも兼ねて長野に移ったんですよ。長野の工場は10名でやっています。今は甥に工場を任せているんですが、ぼちぼち若い人を入れようと思っています。体を壊したのでちょっと控えていたんですけど、私が元気なうちに技術を伝えていきたいと思っているんです。(談)

かみじま・まつお●1939年(昭和14)東京生まれ。1954年(昭和29)、15歳で神田錦町の関山製本社(昭和61年板橋区に移転)に入社。三代目社長、関山景一氏のもとで製本技術を学ぶ。1983年(昭和58)美篶堂設立。高い技術とアイデアを生かした手製本をはじめ、特装本やペーパーサンプル、和本などの製作を行っている。




対談 上島松男[製本職人]×工藤強勝[グラフィックデザイナー]

製本職人とグラフィックデザイナーの幸せな関係

本の内容や魅力を引き出すためのデザインと、デザインを生かすための工夫と確かな技術。本としての機能や紙という素材を知りつくした二人に、造本ついて語ってもらった。
■二人の出会い
工藤:上島さんと初めてお仕事をしたのは、たぶん1994年4月の竹尾のペーパーショウ「四六の本屋街」*じゃないかしら。これは6名のグラフィックデザイナー(以下デザイナー)がそれぞれ本屋を開くという企画で、自分のブースに選んだ本を並べ、自分でも本のデザインをするというもの。その時の造本条件が「自由にデザインしてください。凝っていいです。ただし印刷はなし」でした。あいだに竹尾の宣伝企画部が入っていたので、僕としては本の設計はしたけれど、どこの製本屋さんに頼むのかわからないのでかなり不安だったんです。
上島:それで僕のところに6名のデザイナーの(造本)指示書が届いたんですが、工藤さんの指示書はものすごく綿密に書かれていたので、一度お会いしたいなと思ったくらい。我々にとっては指示書どおりにつくればいいので楽なんです。なかには走り書き程度のものもありますからね。それでもその人の言わんとすることを理解するのも仕事だと思っていますから。
工藤:ちょうど竹尾さんが「ぐびき」という紙を出したばかりで、この紙はシルクスクリーンで印刷したみたいに発色がいい。その代わり傷つきやすい。
上島:とてもデリケートなんですよ。
工藤:だから加工しづらかったと思いますよ。僕はこの紙をすごく気に入ったので、なんとか使えないかと。でも、凝りに凝った本にはしたくなかった。普通の本でありながらよく見ると凝っているなという本をつくりたかったんです。竹尾さんからは「製本上無理だという考えは捨てて、自由に発想していい」と言われていたので、デザイナーとしてはうれしかった。自分で規制しなくていいからね。
上島:そのとき紙に108個穴を開けた本はつくりましたけど、実際お会いしたのは工藤さんの「書物の仕事」展(1996年11月)でしたね。
工藤:これは王子製紙の企画で、僕がデザインした本を300冊ぐらい展示したんですが、それだけじゃ面白くないから、アルファベットの形をした本をつくって来場者にプレゼントしようと思ったんです。それなら「四六の本屋街」のときの製本屋さんに頼むしかないということで、工場をお訪ねしたんです。それでアルファベット1文字につき100冊ずつつくってもらったから、9文字で900冊。
上島:もう必死でつくりましたよ。オープニングが午後6時で、届けたのが6時半。間に合わなくてもいいからと言われていましたが、なんとか間に合わせたくて。もう作業着のまま持ち込みましたよ。そしたらスピーチが始まっていて、工藤さんが「あっ、いいところに来たね。ちょっとしゃべってくれない」って(笑)。

工藤「アイデアを相談できる職人さんに出会えたことがうれしい」
(写真左が工藤氏、右が上島氏)

上島「デザイナーの言わんとすることを理解するのも仕事」

工藤:あのあと僕の個展よりもアルファベットの本のほうが評判になってしまって、この本をつくった上島さんの個展をできないかという話が持ち上がったんです。それでお話に伺ったら、実はデザイナーの杉浦康平さんや勝井三雄さんなど錚々たる顔ぶれの本をつくっていたことがわかった。それでこれまでに上島さんが製本したデザイナーの作品を展示しようということに。
プロデューサーは僕が引き受けることにしたんですが、改めて見てみると「えっ、これも上島さんがつくっていたんだ」と驚きの連続。だったらデザイナーに全面的に協力してもらおうということになり、「上島さんの個展を開くので、製本を依頼した時の話を書いてほしい」と頼んだんです。そしたら皆さん快く引き受けてくださった。
上島:この個展には3千人以上の方が来てくれました。
工藤:それまで上島さんが製本してもクレジットが入らないから、誰がつくっているのかわからなかった。原研哉さん(現・日本デザインセンター社長)がスピーチで「上島さんがついにデビューすることになってちょっと寂しい。この個展でみんなが上島さんの存在を知って製本を頼むことになるから。上島さんに仕事をお願いするのは自分たちだけにしたかった」と話したのが印象的でした。
■デザインを生かすために考え出された技術
工藤:デザイナーが本の形や構造を考えるときに、アイデアが出てもこれはつくれないかもしれないなと思ってしまうことがある。でも上島さんと出会っていろいろ話をしたら、アイデアが出たらとりあえずこの人に相談すればなにも不可能はないなと思っちゃったんです。だからアイデアが出たら否定せずにストレートに相談しようと。そういう職人さんに出会ったことがなかったからうれしかったですね。
上島:この佐倉市立美術館のカタログがいい例ですよ。これは6人のグループ展ですが、人間は勝手なもので最初のほうに載っている人を偉いと思ってしまう。だから一人一人ブースをつくって上下がないようにしたんです。ブースにしてしまえば、どこを開いても同じように見られるし、6名のアーチストが平等に扱われる。工藤さんが言いたかったのはそういうことじゃないかと勝手に解釈して……。
工藤:最初はほんのスケッチ程度ですよ。つまりふつうに6人の作品が流れていくのではなくて、それぞれが独立した作家の部屋がほしいと。そのとき僕は蛇腹折り的なアイデアを出したんですが、折り*の中に10ページつくるのは不可能だと思った。だから折りのなかに入れるページはホチキスで留めていいよと言ったんです。そしたら上島さんがホチキスで留めるとは何事かと(笑)。そして「部屋に入れ込むページは見開きになるから、のど*にホチキスがあったら邪魔になるでしょう? それにホチキスで留められたら錆びますよ。大丈夫、天糊(特殊な製本用ボンド)を使いますから」と言うわけですよ。
上島:メモパッド、あれも天糊製本なんですが、紙の断面(天あるいは背)に特殊な糊をつけて固めるので糸綴じをする必要がない。でもメモパッドみたいにはがれては困るので、はがれないようにするんですが。
工藤:この製本技術を日本で最初に考え出したのも上島さんなんですよね。この方法だと本がきれいに開くし、見開きもつながって見える。
上島:いろいろ試してたどり着いたのがこの接着剤なんです。竹尾のデスクダイアリーもずっとこの方法でつくっていますが、壊れたものはない。竹尾の社長(初代・竹尾栄一氏)が、天糊で製本した本を社長室で毎日のように開いて試していたのを思い出します。工藤さんもこのダイアリーをデザインされていますよね。
工藤:竹尾さんからデスクダイアリーの企画を依頼されたとき、自分がコレクションしている本のなかから特殊製本のものを選んでページを構成したら面白いんじゃないかと思ったんです。こうして見てみると、上島さんが製本した本がけっこう出てくる。
上島:最初に出てくる勝井三雄さんの『スペイン偉大なる午後』。この本をつくったのは1969年ですから、まだ天糊が開発されていないんです。これには後日談があって、工藤さんの教え子が偶然神田の古本まつりでこの本を手に入れて、「実はページがばらばらになっているので直してもらえませんか」と僕のところへ持って来たことがあって。それでその本を見たら関山製本時代に私が手がけた本なんです。これは私が製本したんだよと言うと、学生は驚いていました。
工藤:この本は全ページ両観音開きの面白いつくりなんですよ。
上島:観音開きですから糸綴じができないし、当時は天糊もなかった。それでもなんとか工夫してつくりましたよ。
工藤:この本は講談社のブックデザイン賞をとりましたね。
■熟練とは何か
工藤:上島さんは不可能を可能にしてしまう人。いっしょに仕事をしているとよくわかるんです。上島さんはどんなに難しい注文を受けても、できないとは言わないから。
上島:こういうものができないかと言われたら、その要求に一番近いものをつくるしかないんですね。そのデザインを生かすための一番いい方法を考える。
工藤:それと上島さんがすごいのは、箔押し*や型抜きなどの加工についても詳しいこと。これらの職人さんたちとのパイプがちゃんとできている。
上島:それが熟練というものだと思いますね。たとえ相手が箔押しの温度を上げるのを躊躇していても、こちらの指示どおりにやってくれるかどうかが大事なんです。それは職人同士の信頼関係なんです。
工藤:上島さんは職人として熟練するには20年かかると言っていましたが、技術を習得するのにかかった時間であると同時に、環境や会社、人脈、人との信頼関係といったインフラを築くのにかかった時間でもあるんじゃないかな。製本の様々な工程は、職人仲間の協力があってのことですものね。
上島:この歳になりますと、やはり若い人たちに技術を伝えていきたいと思うんです。これからがんばって一人でも二人でも職人を育てていきたい。跡を継いでいるうちの甥でもできないことはまだまだあります。技術は1年、2年で覚えられるものじゃないんです。
工藤:それとこの仕事は好きでなくちゃつとまらないということですよね。手製本のアイデアや技術は、上島さんのキャラクターでここまでやってきましたが、やはり普遍的なルールを誰かに引き継いでもらいたいですね。一代限りで終わるんじゃなくて。

かみじま・まつお●1939年生まれ。製本職人。美篶堂代表取締役(詳しいプロフィールは3ページ参照)。2003年お茶の水にショップ・工房・ギャラリーをオープン。手製本のワークショップも随時開催。http://www.misuzudo-b.com
くどう・つよかつ●1948年生まれ。グラフィックデザイナー。首都大学東京教授。様々な分野の造本装丁を手掛ける。監修書に「編集デザインの教科書」(日経BP)、「デザイン解体新書」(ワークスコーポレーション)など


◇注釈
四六…本のサイズや形を判型といい、四六判は縦188ミリ、横129ミリ。単行本などがこの仕様である
折り…本をつくるときの基準単位。印刷された紙を折っていき、袋になった部分を切ってできる冊子状のもの。通常は16ページが一折りとなる
のど…製本したとき綴じてある側のこと
箔押し…本の表紙や背に文字や模様を熱圧着すること
◇参考文献
「カラー版本ができるまで」岩波ジュニア新書、岩波書店編集部編、岩波書店、2003。



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