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KANDAルネッサンス 79号 (2006.10.25) P.5 印刷用
特集 神田の発酵食品

豊島屋酒造を訪ねて
 ——酵母の気持ちになって醸す


田中副社長(右)と石井杜氏(左)
 豊島屋十右衛門が神田・鎌倉河岸で酒屋と一杯飲み屋を始めたのが、今から400年前。これが豊島屋の起こりである。「金婚」や「神田橋」の銘柄でおなじみの豊島屋酒造は東村山にある。蔵を訪ねた9月初旬、ちょうど長い夏休みを終えた蔵人(くらびと)たちが蔵の掃除を始めていた。副社長の田中良彦さんに、酒造りについて話を聞いた。

 田中さんによると、もともと東村山にあった酒蔵を買い取って酒造りを始めたのが昭和10年(1935)。すぐに戦争が始まり、米の供給がされにくい時代になった。その後は酒を造りたくても造れない不幸な時代が続く。昭和30年ぐらいになって、ようやく加工業界にも米がまわってくるようになったが、原料である米がぜんぜん足らないため、需要があっても充分な造りができない状況だった。昭和30年半ばくらいになって、ようやく純米酒が造れるようになり、高精白の吟醸酒が造れるようになったのは、昭和40年代に入ってからのことである。

 「酒造りにおいて、いい米があること、いい水があること、そしてそれを上手に発酵させる技術があることは必須条件。水はとても重要なファクター」
 ここ豊島屋酒造では、地下150メートルから汲み上げた水(富士山系伏流水)を用いて酒造りを行っている。ちなみに硬水で仕込むと男性的ながっちりした酒に、軟水で仕込むとやわらかい酒になるそうだ。水の質によって発酵形態が変わってくるという。
 日本酒は麹菌と酵母という微生物を使い、低温でゆっくり発酵させて造られる。特に大吟醸を仕込む1月になると、微生物相手に蔵人たちは酒造り優先の生活となる。ある意味芸術品を造っているようなものだと、田中さんは言う。
 「酵母の気持ちになって、どういう環境であれば実力を発揮するかを考える。酵母によってそれぞれ個性も違えば、温度管理も違う。新しい酵母を使いこなすには数年かかります。それが発酵工学の面白みでもありますが」
 「よく『酒造りは人の輪』だといわれます。とにかく最初から最後まで気を抜くことができない。各々のパートで最良な状態で次のランナーにバトンタッチしていかなければならないんです。働いている人の気持ちがひとつにならないと、生れてきた子はいい酒にならない」

 「当社でも十数年前までは、越後杜氏に来てもらって酒造りをしていました」と田中さんは当時を振り返る。
 蔵人たちはみな豪雪地帯の出身である。冬場は仕事にならないため、季節労働者として酒造りに携わってきた。しかし蔵人の平均年齢が65歳になったとき、豊島屋酒造では「東京で酒造りをしてみませんか」と若者たちに呼びかけた。老齢化と技術の継承、どこの蔵でも頭を抱える問題である。老齢化が進んだ背景には、地元に働き口ができて、出稼ぎをしなくてもすむようになったことなどが挙げられる。
 「初めはじいさん9人と若者1人が、ほとんどおじいちゃんと孫といった感じで一緒の職場で働いていましたが、そのうち若い人の比率が増えてきて、6、7年前から常勤社員だけで酒造りをしている」
 現在、蔵人の平均年齢は28歳。そのほとんどが地元からの通いである。十数年前、越後杜氏に交じって働いていた若者が、現在杜氏を務める石井治幸さんである。自分でおいしい酒を造ってみたいと思ったのがこの業界に入ったきっかけだそう。このところの焼酎ブームで日本酒は押されぎみですがと問うと、石井さんは「その地域の特色を活かした日本酒を造っていけば、小さい蔵がそれなりに生きる道はあると思う」。

 豊島屋酒造では年に2回蔵を開放して、絞りたての酒や蔵に来た人しか味わえない珍しい酒を提供している。11月の第三日曜日に行われる蔵開きと6月に行われる春の呑み切りである。
 田中さんは言う。「わざわざ蔵まで出向いてくださった方々を大切にしていきたい。日本酒のファンが増えれば、結果的に業界全体によい波及効果をもたらすことになる」

■豊島屋酒造
東村山市久米川町3-14-10/tel.042-391-0601
蔵開きに関する情報はホームページをご覧ください。
豊島屋酒造ホームページ
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