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神田資料室

KANDAルネッサンス 78号 (2006.07.25) P.2〜6 印刷用

特集

お稲荷さんのある町


神田を歩いていると、思いがけない場所でお稲荷さんに遭遇することがある。
神田地区には大小合わせておよそ30社のお稲荷さんがあるが、ビルの屋上や屋敷内に祀られているお稲荷さんまで入れれば、相当な数になるだろう。
今回は、町の人々に大切に守られてきたお稲荷さんにせまってみた。


お稲荷さんの由来

 日本で一番多く祀られているという稲荷神社。その数は、屋敷内や企業内に祀られたものまで入れると、3万以上ともいわれる。お稲荷さんほど身近な神さまはないだろう。
 現在は商売繁盛の神さまとして知られるが、もともとは農耕の神さま。ご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、「うか」とは食物を意味し、五穀豊穣をもたらす神さまである。
 この稲荷神を氏神として祀っていたのが、古代山城の豪族、秦氏であった。『山城国風土記』逸文によると、秦一族の長者、秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が富に奢り、餅を的として矢を射ると、その餅は白鳥となって山の峰(稲荷山)に飛び去り、そこに稲がなったという。「イナリ」は「イネナリ」がつまったものと考えられている。
 初午祭は、天皇の勅命を受けた秦公伊呂具が三ケ峰(稲荷山)に三柱の神を祀った日が如月の初午の日だったという伝説に因んでおり、稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社の由来にもなっている。
 後に稲荷神は仏教思想や民間信仰などと結びつき、全国各地に広まっていった。そのため神道系と仏教系のお稲荷さんがあり、愛知の豊川稲荷や岡山の最上稲荷などは、仏教系のお稲さんである。
 ところでお稲荷さんといえば狐を思い浮かべるが、狐は稲荷神の使いであって稲荷神そのものではない。しかし、神使である狐を怒らせると、人にとり憑いたり祟りが起こると信じられた。また、陀枳尼天(だきに・本来はインドのダーキニーという鬼神だったが、仏法に帰依してからは仏法を守る神となった)が稲をにない狐にまたがっていることから、いつの間にか狐が陀枳尼天の化身と考えられるようになったともいわれている。
 やがて農耕社会から商業社会に移行するなかで、稲が実るということは商売が繁盛するということに結びついた。そしてお稲荷さんは、商売繁盛や開運、厄除け、子孫繁栄など、あらゆるご利益を授けてくれる福神さまとして、庶民の生活に密着した信仰となっていった。

流行神と稲荷信仰

 江戸が爛熟期に入った18世紀の半ば以降、稲荷信仰が爆発的に流行した。「町内に 伊勢屋 稲荷に犬の糞」と川柳にも詠まれたように、お稲荷さんの数もやたらと多かったことがわかる。
 彼岸の信仰よりも現世での幸福を強く願った(現世利益・げんせりやく)江戸の人々は、日常生活から生じるさまざまな心配事や不安を、神仏に祈願することで打ち消したのである。そのため雑多な神仏が生まれ、はやってはすたれるという現象が起きた(流行神現象・はやりがみげんしょう)。お稲荷さんをはじめとして福助人形や橋の欄干、幕府の弾圧を受けるほど流行した富士講(富士山を信仰する人々の集まり)など、あらゆるものが信仰の対象となったのである。

王子稲荷神社のにぎわい

 稲荷信仰が盛んだった18世紀後半、ご利益のある神社として信仰を集めていたのが王子稲荷である。江戸の花見の名所であった飛鳥山と王子稲荷は、江戸から日帰りできる距離にあったため、王子周辺は四季を通じて多くの人々が訪れた。江戸から王子へのルートは、神田下から上野、谷中を通り、道灌山から西ヶ原を経て飛鳥山、王子稲荷へ至るという起伏に富んだコースで、参道沿いには茶屋や料理屋が立ち並び、にぎわったという。
「当時の人々にとって、参詣自体がレクリエーション。王子には海老屋、扇屋といった料理番付の上位にランクされるような料理屋もあり、グルメと信仰、この二つがそろっていた」
 北区飛鳥山博物館の主任学芸員、石倉孝祐さんはこう話す。
 また、王子稲荷が氏子をもたない神社であることも特筆すべき点である。
「一般的に神社はその土地の鎮守というかたちで一定のエリアを持っており、住んでいる人の崇敬を受けている場合が多い。しかし、王子稲荷には鎮守という機能がなく、江戸時代から今に至るまで特定の氏子地域がない。氏子がないというのはテリトリーがないということで、つまり王子稲荷は、広く氏子以外の人にメッセージ発信している神社だということができる。その証拠として、1641年に林羅山によって描かれた王子神社の絵巻(『若一王子縁起絵巻 下巻』)には、すでに王子稲荷が描かれており、大晦日の狐火を見るためにいろいろな所から多くの人が集まってくるという王子稲荷に対する崇敬がみられる。王子稲荷は不特定多数の人々、都市の人々を対象にした信仰だったということができます」
 近世の王子稲荷へ燈籠や狐像、狛犬などを奉納した者について調べた論文*によると、職縁、地縁、社中を含めて、8割が江戸の町人によるものだという。神田や日本橋の同業者が組や問屋をつくり、代表者が同業者全体の繁盛を祈って寄進した例もあった。燈籠の奉納者のなかには、神田富松町の呉服屋・吉野屋平兵衛という人の名もみられる。神田を含めて、江戸と飛鳥山周辺がいかに強く結びついていたかがよくわかる。
◆◆◆
 関東の稲荷神社の元締めといわれた王子稲荷には、「毎年大晦日の夜に装束榎のもとに狐が集まってきて、王子稲荷に参拝する」という伝承がある。農民はこの狐火を見て、稲作の豊凶を占ったという。歌川広重の『名所江戸百景』のなかで特に評価の高い「王子装束ゑの木大晦日の狐火」は、この幻想的なシーンを描いたものだ。
 都市と農村部のちょうど境目に位置した王子は、狐が生息するにはかっこうの場所。農村では、春になると平野に下りてきて稲の生育を見守り、稲が実る秋になると山へ帰っていく「山の神」への信仰があった。同じように人里に下りてくる狐は、人間にとって身近な存在でありながら謎に包まれた神秘的なイメージがあり、いつのまにか農耕の神である稲荷神そのものと思われるようになった。
「王子という場所は、動物と人間、神仏の世界と人間の世界、日常と非日常、生と俗など価値の異なるものが結びつく場所でもあった」と石倉さんは話す。
 平成5年、狐火の伝承をもとにした「狐の行列」が地元住民の手によって復活。大晦日の夜、王子の町は狐の面をつけた人々でにぎわいをみせる。闇夜のなか、行列は装束稲荷神社から王子稲荷神社まで続く。江戸時代にタイムスリップしたかのような異世界が王子には残っているようだ。
 
参考文献
「わかりやすい稲荷信仰−豊饒の神さま」鎌倉新書、2001。
「江戸の小さな神々」宮田登、青土社、1997。
「人間はなぜ狐を信仰するのか」(講談社現代新書)松村潔、講談社、2006。
*「近世王子稲荷社の信仰主体;石造物の奉納者の分析をつうじて」加藤貴、文化財研究紀要第5集、平成3年4月東京都北区教育委員会。
「平成16年春期企画展図録『狐火幻影−王子稲荷と芸能』」北区飛鳥山博物館、東京都北区教育委員会、2004。
「北区史 通史編 近世」北区史編纂調査会、東京都北区、1996。




お稲荷さんは
地域社会の
心のよりどころ

 
 神田に目を移してみよう。明神さまの境内には浦安稲荷、三宿稲荷、末廣稲荷と3つのお稲荷さんが並んで祀られている。もともと浦安稲荷は神田鎌倉町に、三宿稲荷は三河町二丁目に鎮座していたが、さまざまな理由により維持が難しくなり、神田明神の末社となった。
 ほかにも、税金や相続などの問題により神田明神に奉納されたお稲荷さんがある。外神田にある講武稲荷と内神田にある大柳稲荷である。この二つの神社は、神田明神の飛び地境内になっている。
 神田明神の禰宜・清水祥彦さんによれば、江戸時代の神田明神の境内図を見ると、富士神社や金刀比羅神社(現存する金刀比羅神社とは別のもの)といった現在はなくなってしまった神社がけっこうあるという。時代の流れによって崇敬者や世話人がいなくなってしまうと、社殿が雨風で傷んでも新しくすることができない。やがて、神社そのものが消滅してしまうという。
 地域の共同体のなかで、宗教性の強いものを守っていくのは難しい時代になってきているのかもしれない。
右から、末廣稲荷神社、三宿稲荷神社・金刀比羅神社、浦安稲荷神社。
「神さまというのもある意味永遠不滅ではない。お稲荷さんは地域社会やコミュニティの心のよりどころでもある。お稲荷さんの存在は、実は地域社会、コミュニティがいかに残っているかということの証。神田にこれだけお稲荷さんが多いという事実は、町の人たちがこうした神さまを通じて、地域の文化や生活を江戸時代からずっと守ってきたということでもある。住む人が減っているとはいえ密接な人間関係が残っている町だからこそ、これだけ多くのお稲荷さんが現代まで大事にされているのです」と清水さんは話す。
 実際にお稲荷さんをお世話している方々に、お稲荷さんの存在について話を聞いた。

◆ 浦安稲荷神社(外神田二丁目)
 古くは平川の河口に位置する船着場であった下平川村(現神田鎌倉町近辺)に鎮座していたという浦安稲荷神社。このあたりは、近くまで海が迫る入り江(浦)であったという。ここで漁業を営む人々が、「浦、安かれ」と祠をつくり無事を祈ったことが浦安稲荷の由来となっている。その後、付近にあった小祠や屋敷内に祀られていたお稲荷さんが合祀され、天保14年(1843)、鎌倉町より神田明神へ奉遷、末社となった。
「昔は、お稲荷さんの初午祭といったら鐘や太鼓やお囃子で、それこそ娯楽のひとつだった。そして神さま、仏さまといった超自然的な存在に対して、人間は畏敬の念をもって接してきた。お稲荷さんの由来とともに、それが現在まで連綿と受け継がれてきたことに意味がある。町の皆さんも、それを引き継いでいかなきゃならんと思っている。町がだんだん都会化し、人と人とのつながりが希薄になっている時代だからこそ、こういうものを守っていくことが重要」と話すのは、浦安稲荷神社奉賛会会長の栗原芳雄さん。栗原さんのお祖父さん、お父さんも奉賛会の会長を務めており、自動的に会長職を引き受けたと話す栗原さんだが、お稲荷さんについての文章を町会報に寄せるなど、“浦安さん”を大事にしていこうという気持ちが伝わってくる。
 今年の初午祭は奉賛会や町会の人たち約30名が参加して行われた(現在、奉賛会会員は約90名)。お祭りが終わると、親睦会を兼ねた直会が行われるのがいつもの流れ。直会では今年の初午祭の反省会と、早々と来年の初午祭について話し合った。
お稲荷さんがあることによって、町の人たちのコミュニケーションもうまくいくようですねとお聞きすると、「人と会って意見を交わしてそのあと一杯やる。おかげさまで、このへんはまだ所帯数が少なくなったとはいうものの、まだけっこう住んでいる方がいるんですよ」という返事が返ってきた。

◆ 佐竹稲荷神社(内神田三丁目)
 神田駅・西口通りに鎮座する佐竹稲荷神社は、商店街にあるお稲荷さんとして親しまれている。時折、お賽銭をあげ、手を合わせる人の姿が見られる。
 お稲荷さんの由来は、秋田・佐竹藩の藩主が、鬼門除けのために江戸上屋敷内に勧請したことが始まりとされる。天和2年(1682)、八百屋お七の大火で一帯は焼失、藩邸は下谷(現在の台東区佐竹町)へ移った。再建されたお稲荷さんはその後も何度か焼失したが、戦後ようやく現在の地に鎮座する。
佐竹稲荷奉賛会会長の高野文太郎さんによると、西口通りも戦前はそれほどにぎやかな通りではなかったという。
「左官屋さんや板金屋さん、漬物屋さん、そして下駄の歯をつくる職人さん、製本の糊をつくる職人さんなどの家がぽつんぽつんとあるだけで、むしろ出世不動通りのほうが人通りは多かった」
 現在、佐竹稲荷のすぐ後ろは奉賛会の事務所となっているが、戦争で焼けるまで、神社は木が何本か植えてあり、奥のほうに小さな祠があるだけで、境内は子どもたちの遊び場になっていたそうだ。高野さん自身も、境内に紙芝居がやって来るのを毎日楽しみにしていたという。
 昭和27年(1952)、税金問題を鑑み、佐竹稲荷を宗教法人化。昭和30年(1955)には檜造りの社殿が完成した。
 現在奉賛会は、旭町を中心として、近隣の町や商店街の人など、約50名で構成されている。月に一度、榊をお供えしているのは、世話役の鈴木利雄さんだ。
 今年の5月には、佐竹稲荷の社紋であり、佐竹家の家紋でもある「扇に日の丸」の入った半纏を作ったという。年末には神社の横で餅つき大会を行うなど、お稲荷さんは町のシンボルとなっているようだ。

◆ 豊川稲荷神社(神田錦町二丁目)
 神田錦町二丁目といえば、来年創立100周年を迎える東京電機大学がある。豊川稲荷は大学に囲まれるようにひっそりと鎮座している。
「俺は昭和20年の生まれだけど、お稲荷さんは子どもの時からあった。近所の80歳になる人にも聞いてみたけど、その人が子どもの時もあったっていうから、いつ頃からあるのかわからない。ただ、ずっとここにあるものだから、できるだけ守りましょうってこと」
 錦町でシチューとコーヒーの店、CHATを営む紅林公克さんはこう話す。
 由来ははっきりしないが、赤坂の豊川稲荷から勧請したものらしく、何年か前までは豊川講という講もあった。年に一度、積み立てたお金で愛知の豊川稲荷にお参りしていたという。
 お稲荷さんのある土地は町会が所有しており、すぐ横には町会事務所がある。門松を飾ったり、初午のときのお供えや飾りつけをしたりというお世話は町会で行っている。平成9年(1997)、町会は税金問題等により法人化。
紅林さんの家で祀るお稲荷さんと豊川稲荷神社(右)
「昔は、野球をやっている小学生が、勝利祈願だといってお稲荷さんに行って拝んでいた。住んでいる人も多かったけど、今は子どもがいないからね。町会でも入学祝いや卒業祝いをずっとやっていない」
 さて、紅林さんの店の屋上にも笠間稲荷から勧請したお稲荷さんがあるという。
「茨城の出だから、毎年笠間までお参りに行っている。3つも4つもお稲荷さんを拝んでいいのかって? いいらしいよ。商売をやっている家はそれぞれお稲荷さんを祀っているもの」
 紅林さんの「俺の代でお稲荷さんをなくしたくないから」という言葉が印象に残った。
 
◆ 企業が祀るお稲荷さん
昭和産業
 企業が商売繁盛を願ってお稲荷さんを祀る例も多い。たとえば、神田和泉町にある金綱稲荷神社は日本通運が、神田多町にある和光稲荷神社は和光堂がお祀りするお稲荷さんだ。
 内神田にある昭和産業にも、屋上に伏見稲荷神社から勧請したお稲荷さんが祀られている。社員だけでなくビルに入っているテナントにとっても、身近な神さまとなっているようだ。昭和産業総務人事部総務法務課・主任の綿和彦さんにお話を聞いた。
 穀物をベースに多角経営を行う昭和産業が鎌倉河岸に本社を移したのは昭和25年(1950)年のこと。その頃からすでにお稲荷さんは祀られていたのではないかという。
昭和55年頃写されたという航空写真を見せてもらった。確かに屋上にはお稲荷さんが認められる。
 昭和産業では各支店、事業所、工場にもお稲荷さんを祀っており、それぞれ初午祭を行っているという。また、社長自ら伏見稲荷に詣で、事業の発展と社員の無事を祈るそうだ。
「当社はもともと穀物から商品を製造する会社。現在のようにコンピュータですべて行うのではなく、人の力が必要とされた時代があった。社員あっての会社ということで、従業員を大切にする思いが経営者にあったのだと思います」
新しくした社殿
 食づくりにこだわってきた昭和産業がお稲荷さんを大事にしてきたのは、お稲荷さんがもともと五穀豊穣をもたらす食の神さまであったということも関係している。
 屋上のお稲荷さんにお参りさせてもらった。今年、23年ぶりに新しくしたという真新しい社殿と朱色の鳥居がひときわ目立つ。新しい社殿ができるまで、いったん御霊を神田明神に預け、初午祭の時に御霊入れを行ったそうだ。
 毎年初午祭は、社長、会長、会社役員をはじめ町内会の役員および御宿稲荷神社の代表にも出席してもらい、神田明神に神事を執り行ってもらう。初午祭は地域の人々と交流するよい機会となっているようだ。
 
◆ 豊潤稲荷神社(神田須田町一丁目)
 神田須田町一丁目、和菓子の老舗庄之助のすぐそばに、豊潤稲荷がある。今年4月に新社殿が完成し、場所も人目につく通り沿いに移転した。
 移転の話が出たのは平成16年の春ごろ。もともとお稲荷さんのあった場所がマンション建設地のちょうど真ん中だったため、交渉の末、表通りに移転することが決まったという。今年5月5日には、御霊をお迎えする遷座祭が無事に執り行われた。
「このあたりは昔、神田市場があった場所。商家ではどこでもお稲荷さんを祀っていたけど、関東大震災ですべて焼けてしまった。その後の昭和5年(1930)、住民や市場関係者が保留地(区画整理の際に余った土地を集めて一緒にしたところ)に勧請したのが、この豊潤稲荷です」と、お世話役の一人である須田町中部町会会長、大塚實さんは話す。
 今回の移転で社殿を掃除したところ、古文書が発見された。その文書によると、大正6年(1917)に日蓮宗の僧侶が旧神田市場内のどこかにお稲荷さんを勧請したということで、「それが豊潤稲荷のルーツだとも考えられる」と大塚さんは言う。

 建て替えるにあたって、鳥居と千木(屋根の両端にX字形に交差させた木材)は以前のものを保管し、新社殿に取り付けた。「昔はどこの家でも、改築前に使っていた神棚の板を、新しい家でもそのまま使った。先祖からずっと家が継承しているというしるしだからね」
 現在は毎月1日と15日に、町会婦人部の皆さんがお掃除とお参りをするほか、毎年の初午祭と、神田祭のときに一緒にお祭りを行っている。また、普段は開けていないが、毎月1日と15日、お正月の三が日は社殿を開ける予定だという。
 ほかのお稲荷さんの例にもれず、豊潤稲荷でも悩まされたのが賽銭泥棒だ。特に平成7年(1995)に社殿を改修して立派になったこともあり、ずいぶん被害に遭ったという。その対策として、近くの家でチケット(参拝券)を販売して、それをお賽銭箱に入れてもらう「参拝チケット制」を採り入れたこともあった。そのお参り方法は一時話題になり、新聞やテレビでも紹介された。このようなユニークな対策をとったのも、町の人がお稲荷さんを大切に守ろうとしているからだろう。
「豊潤稲荷の神紋は、旧神田市場と同じ稲穂の紋。神田明神にある市場の大神輿の屋根の部分に、同じ稲穂の紋が入っています」と大塚さん。豊潤稲荷は、商家とお稲荷さんの関係の深さを、私たちに伝えてくれる。
◆◆◆
 今回、神田地区にあるお稲荷さんを巡って感じたことは、住む人が減ってしまったとはいえ、お稲荷さんをなんとか守っていこうとする町の人の心意気だ。お稲荷さんをめぐる状況は依然厳しいが、お稲荷さんのある風景をなくさないためにもどうしたらよいのか考えるきっかけとしたい。


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