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神田資料室

KANDAルネッサンス 76号 (2006.01.25) P.2〜3 印刷用
特集 春を迎える儀式

節 分 祭

節分といえば豆まきだが、昨今、家で豆まきをする風景もあまり見られなくなった。
鰯の頭を柊の枝に刺したものを玄関に挿し、豆まきをして鬼を追い払うというこの行事は、いったいいつ頃から行われていたのか。その由来をたどってみた。


 「節分」とはもともと季節の分かれ目を意味し、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指す。つまり季節のはじまる前の日はすべて節分なのである。しかし、冬から春に移り変わる立春が一年の境として重視されたため、特に立春の前日をいうようになったという。
 そもそも節分に豆をまく風習(追儺・ついな)は中国から伝わったもの。文武天皇の時代(704年)に疫病が流行し、悪鬼を追い払うために行われた儀式がはじまりだという。その邪気を払い一年の無事を祈る宮中の年越し行事が、近世以降、煎った豆をまく民間の行事になったのである。
 神田神社の権禰宜、清水祥彦さんは「単に神道や仏教といったものだけでなく陰陽道的なもの、東洋の哲学、シャーマニズムに基づいた邪悪なものを寄せつけないための儀礼が、中国から日本に入ってきて宮廷の行事となり、さらに神社仏閣がそれを受け継いで現在に至っている」と話す。

 平安時代より宮中で行われていた儀式を厳密に継承しているのは京都の吉田神社。節分の前後3日間にわたり神事を執り行う。
追儺式では、四つ目の仮面をかぶった方相氏(ほうそうし)が人間の目には見えない鬼を追い払う。当時の人々は、人間の力を超越した出来事、たとえば災害や疫病の流行、飢饉などを鬼の仕業だと考え、目に見えないものとして恐れていた。
 それがいつしか豆をまいて鬼を払うというかたちに変わっていったのは、本来、鬼を追い払う役目のものが鬼のような面をつけていたため、やがて目に見える鬼として追われるようになったためだという。
 さて鬼を追い払う豆であるが、宮中で行われていた儀式では大豆に限らず五穀がまかれていたという。穀物には霊力が宿ると考えられていたからだ。

 豆をまく時の掛け声は「鬼は外、福は内」が一般的だが、神社や地域によって多少異なる。神田神社や日枝神社ではオーソドックスな掛け声だが、東京大神宮では「福は内、福は内」とだけ言い、「鬼は外」は言わないそうだ。
「鬼は内、福も内」と唱えるのは、奈良の吉野にある金峯山寺(きんぷせんじ)。本堂の蔵王堂において、全国から追われた鬼を迎える「鬼の調伏式」が盛大に営まれる。
「鬼は内、福は外」という珍しい掛け声をかけるのは、京都三和町の大原神社。この掛け声には、鬼を神社に迎え入れ、福を氏子に与えるといった意味合いがある。また、鬼の字が入った名字の家でも「鬼は内」と唱えるそうである。

 江戸時代、節分は年末に行われる行事だった(旧暦では12月の中旬から1月にかけて、節分が巡ってくる)。鰯の頭と柊の枝を戸外に挿して邪気が家に入るのを防ぎ、年男か家の主人が煎った豆を恵方(えほう)に向かってまく。豆まきが終わると里芋、大根、ごぼう、焼豆腐、田作り、鮭の切り身等の料理で酒を酌み交わしたという。
 恵方というのはその年の運が開ける方角のこと。江戸時代は恵方詣がさかんで、自分の家からみて恵方にある神社を探してお参りをしたらしい。
 関西では、節分の日に恵方を向いて太巻きを食べると縁起がいいという風習がある。一説によると、関西の海苔業界が広めたものだとか。食べ方にも決まりごとがあって、太巻きは丸かじり(丸かぶり)し、食べ終わるまで口をきいてはいけないのだそうだ。その理由は、太巻きには福を巻き込む、丸かじりするのは縁を切らない、そして福を逃さないために口をきかないというもの。近年その風習が全国に広がり、節分が近づくとコンビニやスーパーで太巻きの予約まで受け付けるようになった。ちなみに今年の恵方は南南東である。

「西洋暦を取り入れたことで日本は近代化を果たしたが、季語と暦がずれてしまい、古い文化を壊してしまった。節分は、日本人が本来もっていた季節感や情緒といったものを残している儀式。大切にしていきたいですね」と清水さん。
 節分は春を迎えるための由緒ある儀式だったのだ。春を待ち望む気持ちは今も昔も変わらない。今年は家であるいは会社で豆まきをするもよし、節分祭(今年は2月3日)をはしごして一年の無事を祈るもよし。新しい気持ちで春を迎えよう。そうそう太巻きを丸かじりするのも忘れずに。

参考文献
「神道いろは—神社とまつりの基礎知識」神社本庁教学研究所監修、神社新報社、2004。
「知っておきたい日本の神様」武光誠、角川学芸出版、2005。
「江戸年中行事図聚」三谷一馬、中央公論新社、1998。
「一日江戸人」杉浦日向子、小学館、1998。



■□■節分祭に行ってみよう■□■

江戸総鎮守
神田神社
 JR御茶ノ水駅で降りて聖橋を渡り、そのまま湯島聖堂を通り越して右に曲がれば、神田明神の門前に店を構える天野屋が見えてくる。意外に思われるかもしれないが、実は秋葉原からも近い。なるほど境内から秋葉原ダイビルとUDXビルが見えるわけだ。
 神田神社は、天平2年(730)現在の大手町将門塚周辺に創建されたという。元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座。以後江戸幕府からの尊崇を受け、江戸総鎮守となる。ご祭神は大己貴命、小彦名命、平将門命で、ご利益は家庭円満、縁結び、商売繁昌、事業繁栄など。
 昭和9年(1934)、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造りの社殿が完成。その後増改築を重ね現在に至る。映画化された荒俣宏原作の「帝都物語」には、1988年当時の神田明神が出てきて興味深い。
江戸情緒あふれる節分祭
 節分祭について、神田神社の権禰宜、清水祥彦さんにお話を聞いた。その歴史は古く、江戸時代にはすでに行われていたそうだ。神田神社では福豆と目刺しをお供えする。
 節分祭は、鳶頭による木遣りを合図にスタート。境内は鬼、大国さま、恵比寿さま、楽人(雅楽の演奏者)、神職、そして氏子総代、裃姿の芸能関係者などの行列を見ようという人々でいっぱいになる。神殿でお祓いを受け祝詞が終わると、舞台で鳴弦(めいげん)の儀(神職が鬼門と裏鬼門の方角に向けて弦を鳴らし邪気を払う)が行われる。そして、くす玉が割られると豆まきの開始だ。豆のほかにお菓子や福引の入った袋がまかれる。ご祭神が大国さま(福の神)ということで福引が入っているそうだ。秋葉原の電化製品などが当たる。
「お祭りなどの大事に、鳶の頭がいないと神田の町は動かない。彼らの仕切りで『さあ、これから始まるんだ』って、町の人も安心するんです。
 お祭りというのはハレとケの文化。聖なる神事である祭り(ハレ)のあと、通常の生活(ケ)に戻るために、明神下の飲み屋さんで直会(なおらい)が行われます。この懇親会を楽しみにしている人も多く、組頭なども参加して、皆とコミュニケーションを図るんです。神事と直会は、伝統を確認しあう儀礼として大きな意味がある。これが神田の人々が大切に守ってきた神様を中心とした文化なのです」と清水さんは話す。

◆千代田区外神田2-16-2◆最寄駅はJR総武線・中央線「お茶ノ水駅」、東京メトロ丸ノ内線「お茶ノ水駅」、東京メトロ千代田線「新お茶ノ水駅」

皇城の鎮
日枝神社
 「山王さま」の名で親しまれている日枝神社の表参道には、山王鳥居(合掌鳥居)といわれる特徴的な鳥居がある。鳥居は神社によって形状も構造もさまざま。他の神社の鳥居と比べてみるのもおもしろい。
 神社の由緒について、主典の杉山正吉史さんにお話を聞いた。
日枝神社は、武蔵野開拓を進めていた江戸氏が江戸館の守護神として山王宮を祀り、さらに、太田道灌が江戸城築城にあたり城内の鎮守神として鎮祭したことがはじまり。天正18年(1590)、徳川家康の江戸入府後は、国家鎮護の祈願所、将軍家の氏神として崇敬された。元山王(現在の国立劇場付近)の社地を経て、万治2年(1659)江戸城の裏鬼門にあたる現在地に再建された。また明治以後、江戸城は皇居となり、皇城の守り神として厚く信仰されている。
夫婦猿と丹塗りの破魔矢
 神門と本殿の脇には夫婦猿が鎮座しているが、これは日枝神社の神使が猿とされているから(神の使いとされるものには、稲荷神社の狐や八幡神社の鳩、春日神社の鹿などがある)。猿(えん)が縁につながるということで、夫婦円満、繁栄の神として参拝者の信仰を集めている。
 また、日枝神社の破魔矢は丹塗りのものだが、これには次のような言い伝えがある。神社のご祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)が、ある時丹塗りの矢に姿を変えて瀬見の小川を下って来た。川のほとりで遊んでいた玉依(たまより)姫がその矢を持ち帰り寝室に置いたところ、その霊がうつり賀茂別雷神が生まれたという(「山城国風土記」逸文)。このことから子授け、安産、縁結びの神といわれるようになった。
節分祭を盛り上げる伝統の神楽
 節分祭は古くから行われていたようだが、現在の祭典において、日枝神社では神殿に米、酒、餅、煎り豆をお供えする。儀式はお祓い、祝詞に続いて神職が参加者の名前を読み上げる(召したて)。「追儺の儀を奉仕せよ」——この言葉を合図に一同は舞台に出て行き豆をまく。鬼に扮して逃げるのは、太々神楽(だいだいかぐら)の人たちだ。福引には豪華景品が用意されているとのこと。
 昨年は、大相撲の関取(佐渡ケ嶽部屋ほか)や歌舞伎の中村富十郎、特別年役の人などが豆まきに参加し、豪快に豆をまいた。

◆千代田区永田町2-10-5◆最寄駅は東京メトロ千代田線「国会議事堂前駅」、東京メトロ南北線・銀座線「溜池山王駅」(山王パークタワー広場から神社までのエスカレーターあり)

東京のお伊勢さま
東京大神宮
 境内にはお参りをする若い女性の姿が目立つ。某女性誌で、良縁にご利益のある神社として紹介されたことが一因かもしれない。
最近は縁結びの神さまとして知られるが、家内安全や夫婦和合といった家庭内の平安を祈る神社でもある。
 神社の由緒について、禰宜の唐松義行さんにお話を聞く。
 江戸時代の人々にとって、伊勢神宮への参拝は特別なものだった。明治13年(1880)、東京における伊勢神宮の遥拝(遠く離れた場所から礼拝すること)殿として創建された東京大神宮は、「東京のお伊勢さま」と呼ばれて親しまれてきた。
当初、日比谷(現在の日生劇場、宝塚劇場、三井住友銀行、日比谷シャンテ一帯の5、6千坪の土地)に鎮座していたことから、日比谷大神宮と呼ばれたが、関東大震災で焼失、昭和3年(1928)現在の地に移った。
神前結婚式を創始した神社
 明治33年(1900)、宮中の賢所(かしこどころ)(神前)で行われた皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚を記念して、神前結婚式を創始、全国に広めたことでも知られる。当時、結婚式は各家庭で行われており、神社での結婚式は画期的だった。ただし明治、大正時代に大神宮で式を挙げ、帝国ホテルで披露宴を行うというのは身分の高い人たちだけで、神前結婚式が一般化したのは戦後だという。「当社で挙式される方のなかには、親子二代あるいは三代そろって大神宮で、という方も珍しくありません」。
 余談だが、夏目漱石の『行人』には、日比谷大神宮で神前結婚式を挙げる様子が書かれている。
節分祭が終わると……
 節分祭に参列する崇敬者は、着物と裃に着替えてお祓いを受ける。祝詞に続いて鳴弦の儀が終わると、豆まきが開始される。当日は、近くにある築土神社の節分祭に行ってから、東京大神宮へ来る人も多い。
「節分祭が終わると紀元祭、祈年祭という重要な儀式が続きます。祈年祭はその年の五穀豊穣を祈るお祭りで、11月23日に行われる収穫感謝祭、いわゆる新嘗祭と対になっています(戦後、勤労感謝の日として国民の祝日になった)。要するにその年の実りを神様に捧げて感謝する日です。神様にお願いをして感謝する。最近はお願いばかりですからね(笑)」と唐松さんは話す。

◆千代田区富士見2-4-1◆最寄駅はJR総武線、東京メトロ東西線・南北線・有楽町線・都営大江戸線「飯田橋駅」


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