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神田資料室

KANDAルネッサンス 74号 (2005.07.25) P.2〜5 印刷用

特集/アートが生まれる街、神田

神田にはユニークなアート教育を行っている学校がある。
この街には創造力を生み出す土壌があるらしい。
そこで今回は、文化学院、デジタルハリウッド、美學校の卒業生に
当時を振り返ってもらった。

【座談会】アーチをくぐるとそこに居心地のよい空間があった

『漢方小説』ですばる文学賞を受賞した中島たい子さんは文化学院出身。
中島さんが文学賞をとったとき、「たえ子ちゃん、“すばる”獲ったって!」と
職員室ではたいへんな騒ぎになったという。
現在も出版社に行った帰りに文化学院に顔を出すという中島さんと同学院出身の方々に、
神田駿河台で過ごした学生時代について語ってもらった。


左から
●中島たい子さん:1969年生まれ。96年「チキチキバンバン」で日本テレビシナリオ登竜門の大賞受賞。『漢方小説』で第28回すばる文学賞受賞(89年文化学院高等課程美術科卒業、91年建築科本科修了)
●堀越霞さん:文化学院高等課程美術科3年。中島さんの後輩にあたる
●瀬川茜さん:文化学院高等課程教諭。中島さんは教え子
●長野智雄さん:一級建築士。中島さんとは文化学院建築科本科のときの同級生



「学院は老舗なんだと思う。暖簾くぐって入るような」
中島たい子さん
中島 私は高等部から文化学院(以下、学院)で、三鷹の学校からポンと都心の学校に来て、こんなに楽しい環境ってあるのかと思った。だから学校にいるのが難しい。絵を描かなくてはいけないのに、ふらっと出て行きたくなる。絵を観に行くのも美術館に行くのも、学校が終わってからちょっと足をのばしてという感じで、わりと大人なスクールライフを早めにやっていました。
瀬川 勉強しなくちゃいけないんだけど、ふらふらとっていう気持ち、わかる、わかる。
堀越 誘われますよね。ここから丸ビルまで歩いた時はちょっと感動した。で、歩き疲れたら電車で帰ってきたり……。すごく楽しい。
瀬川 なんかサテライトみたいだよね。自分の家は別にあって、学校が中継地点。かなりリラックスする場所が都心にあってそこから出ては帰ってきて、最終的には家に帰るんだけど、学校は都心にある中継地点というか、センターみたいなもの。くたびれればここに帰ってくればいい。表で先生に会っても何も言われないからね。
中島 覚えているのは、横尾忠則の公開ペインティングが美術の授業の時にあるというのを聞いて、先生に言ったら、「じゃあ、もう授業はいいから行ってきなさい」って。やはり(学院の教育方針が)個人で何をするかということに非常に重みをおいているので、かえって鍛えられたというのはある。
堀越 この学校って集団生活に向いてない人が多い。こっちに行かなくちゃならないんだよって言われても、いやだみたいな。

     ◆◆◆

「アーチをくぐると時間の流れが違うって言われる」
瀬川茜先生
瀬川 神田というところは、土地が学問っぽい意識をもっていて、土地自身が古いということを知っている感じがする。ちゃらちゃらしていない。
中島 確かに新宿や渋谷みたいな感じはぜんぜんしない。学生が多い街という安心感がある。
瀬川 来慣れているせいかもしれないけど、この辺りはほっとする。卒業生も近所まで来たといっては寄っていくしね。(堀越)霞はこの学校を最初に見に来たとき、どう思った?
堀越 何これ? って思った。学校に入ると土の匂いというか古い感じがいきなりあって、隣はちゃんとしたビルなのに、こんなところに入っていって大丈夫かなという感じ。
長野 最初は入りづらいですよ、ここは。慣れるまで怖かったもん。アーチをくぐると中庭で、全員に見られているような感じがするんですよ。なんか視線を感じる。
中島 知り合いがいたからかな、私はそんなふうに感じなかった。ただ彼が言ったように、入りづらいというのは、要するに老舗なんだと思う。暖簾くぐって入るような。だから知り合いがいる店だったらすーっと入れるんだけど、そうじゃない人だと入っちゃいけないような気がするのね。
瀬川 入ってみたら意外とフランクなムードで取り澄ました感じもしないのにね。

     ◆◆◆

「学院のアーチに守られているような感じがする」
堀越霞さん
中島 なんでこの学校はアート系が強いのかっていうのも、やはり土地的なものがあるんだろうなって常々思う。私はここを卒業して多摩美に行ったんですけど、多摩美は校舎が八王子と上野毛にあって、私が行ったのは上野毛だったんですが、やはりどういう環境で芸術を勉強するかというのは大きい。八王子の山奥で描いている人の絵はダイナミックだったりして、作風がぜんぜん違う。
 都心でアートをやっていくというのは、情報があるなかでやっていくわけだから、隔離されていないからこそ自分のなかで自分のものを見つけていかなくちゃならないみたいなことがある。かえって厳しい。自分のやりたい場所が狭まってくることでもあると思う。あまりにもいろいろあるから、じゃ自分は何をやりたいのかが、学生だからまだおぼつかなくて自信がない。自分探しをする環境でもあるのかな。
瀬川 やっぱり環境って大きいよね。どこに家があったかとか、どこに学校があったかとか。好きな町に会社や学校があるといいなと思う。通うところがどこにあるのかというのは毎日のことだから大きいんじゃないのかな。
 学ぶっていうのは、これをやったからこれが身につきましたという四角四面のものじゃなくて、いい空間とかいいお店とかそういうところに出入りしているうちに、くっついてくるものもある。何となく目にしているものが残っていくというのは、考えてみるとなかなか恐ろしいよね。
「最初は入りづらい。慣れるまで怖かった」
長野智雄さん
中島 堀越さんはいま学院に通っているわけだけど、学校を出てからのことを考えますか。
堀越 いま3年生なんですが、よくみんなで言っているのは、大学部も楽しそうだけど、なんか学院があまりにも居心地がよすぎて、どこかに出ないとやばいんじゃないか、社会に出てうまくやっていけないんじゃないかということです。どこかに学院以外でも居心地のいいところがあるんじゃないかなって思って、いま考え中です。
中島 それは外が見えているということでもありますね。
瀬川 私なんか逃げる機会を逸しちゃったからね。気がつけば山の中のお寺状態になっちゃって、あっ大変だ、気がついたら世の中変わっちゃったっていう。
中島 私が高等部に入ったころからこのまんまなんですよ、茜ちゃんは。ほんとに驚いたのは、校長の八知先生が高校に入ったときと変わっていないこと。あんまり変わらないから養老の滝じゃないけど、ここの水道に何か含まれているんじゃないかって思うほど。
瀬川 前にも卒業生が、「ちっとも変わっていないのね。なんなの? この浦島太郎現象は!」って言ってた(笑)。アーチをくぐると時間の流れが違うっていうの。彼女は表に出ていろんなことを体験したから、そう感じたんじゃないかな。
堀越 何か守られているような感じがする。
中島 校舎が四角いから結界になっていて、外と遮断されているんじゃない? ぜったいあやしい。
瀬川 職員も変わらないしね。ちょっと隔絶された空間ですね。でもひとつくらい変な学校があってもおもしろいんじゃない?


文化学院
1921年西村伊作が詩人の与謝野鉄幹・晶子夫妻、
洋画家石井柏亭らの賛同を得て創立。
設立時からの精神である「自由」と「創造」を重んじた
自由な教育を行っている
◆千代田区神田駿河台2-5 
Tel.03-3294-7551
Fax.03-3292-8980
http://bunka.gakuin.ac.jp/




デジハリでは目標をもった仲間と出会えて楽しかった

■小野修さん CG作家
コンピュータグラフィックス(CG)の世界的な祭典「SIGGRAPH*(シーグラフ)」で、
『ロード・オブ・ザ・リング』や『スターウォーズ エピソード1』等と並んで
いきなり入選を果たしたのが、『タナバタ』というCGアニメーション。
その作者でデジタルハリウッド出身の小野修さんに、
CGとの出合いや作品づくりにおけるこだわりについて聞いた。

おの・おさむ:1976年生まれ。デジタルハリウッドでの卒業制作『タナバタ』が、
SKIPシティ クリエイティブ・ヒューマン大賞受賞、「SIGGRAPH」入選。テレビの
タイトルやアニメーションなどを手がける。主な作品は「ためしてガッテン」(NHK)
オープニング、みんなのうた(NHK)「道」アニメーション、fairlife「永遠のともだち」
ビデオクリップなど。


最初、CGはあまり好きじゃなかった
 「もともと映像がやりたくて東北芸術工科大学に入ったんですが、映像コースのゼミでCGコースがあって、そこで初めてCGに触れたんです。最初、CGはあまり好きじゃなかった。それまで手書きの味みたいなものが好きで、アニメーション(以下、アニメ)を手で描いていたんですが、手書きだと動かすのが大変で……。そのうちCGもやりようによってはやわらかい感じが出せそうだというのに気づいて、しかも絵を動かすには手書きよりCGのほうが全然楽なので、物語をつくるならCGがいいかなと思ったんです」。
 大学を卒業後、いったんアニメの制作会社に就職するが半年で辞め、デジタルハリウッド(以下、デジハリ)に入学。週3日小田原から御茶ノ水まで通い、夜は牛丼やでアルバイトをする生活が始まった。「特に焦りは感じなかった。それよりも目標をもった仲間に会えて楽しかった」という。
生き生きとしたキャラクターをつくりたい
 「朝倉世界一という漫画家がいるんですが、単純な線でそんなに描きこまれている絵じゃないのに、キャラクターがすごく生き生きしているんです。その要素をCGで取り込めないか、表現できないかと思ってつくったのが『タナバタ』なんです」。
 卒業制作作品が「SIGGRAPH」に入選という快挙を成し遂げたことについて小野さんは、「もっと苦労して賞をとっていれば思うところもあったんでしょうが、思いがけずとってしまったので感慨はなくて。これからどうしようということのほうが大きくて、不安があった」。
 そんな小野さんに作品へのこだわりについて聞いてみると、「もともとリアルなものが好きじゃなかったというのがありますが、デジハリで『ファイナルファンタジー』(最新のCG技術を駆使したフルCG映画)を題材にした授業があったとき、とてもリアルだけど自分の心には全然残らなかった。あれを見せつけられちゃったから、逆にそっちの道はないなと思ってばっさり切り捨てたというのはある。そのぶん、表情やしぐさで人間味みたいなものを表現する方向にいったんだと思う。キャラクターが生き生きしているものをつくりたいというのが僕のテーマなので、キャラクターの表情のつけ方や動かし方にはすごくこだわっています。笑っている表情をつけているときは、自然と自分の口元も笑っていますよ」。
 将来は映画をつくりたいという小野さん。「自分にとって作品をつくるということはカルマ(宿命)みたいなもの。つくらなきゃいけないみたいな体質になっちゃっているんです(笑)」。
 最後にデジハリのあるお茶の水周辺で印象に残っている場所はと聞くと、「橋ですかね。御茶ノ水駅と神田川に架かっている聖橋という風景がかっこいい」という返事が返ってきた。

*SIGGRAPH
ACM(米国コンピュータ学会)のCG部会が主催する行事で、CGとインタラクティブ技術に関する国際会議として世界最大の規模と最高の権威を誇る。

デジタルハリウッド東京本校
1994年設立。Web、CG、映像、グラフィックデザイン、プログラミング等を
実践的に学ぶためのマルチメディアスクール
◆千代田区神田駿河台2-3 DH2001Bldg. 
フリーダイヤル:0120-386-810
http://www.dhw.co.jp





美學校での出会いが現在につながっている


■久住昌之さん イラストレーター・漫画家

イラストレーター、漫画家、作家、ミュージシャン……
久住昌之さんを一言で紹介するのは難しい。
そのさまざまな活動の原点は美學校での出会いにあるという。
現在、同校で講師を務める久住さんに美學校時代や
現在のお仕事について聞いた。

くすみ・まさゆき:1958年生まれ。81年美學校の同期生、泉晴紀と組んで「泉昌之」名で漫画家デビュー。『かっこいいスキヤキ』(青林堂)が評判に。90年、実弟の久住卓也と漫画ユニットQ.B.B.を結成。99年、Q.B.B.で発表した『中学生日記』(青林工藝舎)で文藝春秋漫画賞受賞。最新刊は『とうとうロボが来た!』(幻冬舎文庫)。http://www.qusumi.com

美學校には卒業がない
 もともと絵は得意だったんですが、そんなにうまいとは思ってなくて。でも美術関係に行きたいなとぼんやり思ってました。高校3年のとき、仲のよかった友達が「赤瀬川原平っておもしろいよ」って『ガロ』*を見せてくれたんです。『ガロ』は知ってたけれど、特に赤瀬川さんに注目しているわけじゃなかった。でも何か変な絵でおもしろいから興味があって、じゃ美學校に行ってみようかなと。行ってみたら世にもボロいところで(笑)。
 僕は法政の二部に行きながら美學校にも通っていたんですが、僕が1番若くて、確か泉晴紀くんは22か23だったと思う。僕は実家だったので、バイトしながら自活して美學校に来ていた泉くんはすごく大人に見えましたね。
 当時『ガロ』の編集部が水道橋にあって、僕らの授業は土曜日にあったんですが、夜スライドを見ていると、南伸坊さんが入ってくる。南さんは僕の何年か先輩で、美學校には卒業がないので、よく赤瀬川さんの授業に遊びに来ていたんです。で、僕の絵を見て「おもしろいね」って言ってくれて。その頃南さんは、仕事をしながら似顔絵も書き始めていたんですが、南さんは全然音楽を聞かないので、『ジャズライフ』の編集者にこの人の似顔絵書いてくださいって言われても全然わからなくて。僕は音楽が好きでミュージシャンも知っていたから、じゃあ仕事手伝ってくれないかということになって、それが最初の雑誌の仕事です。
 その頃、赤瀬川さんがどこかに呼ばれると生徒も一緒に連れていってくれて、それで糸井重里さんとか嵐山光三郎さん、鈴木翁二さんとつながりができたんです。大きい学校だとそういうつながりってなかなかできないけど、美學校は塾みたいで楽しかった。とても貴重な体験でしたね。
おもしろいものを見つけてかたちにすることが大事
本の紹介
『かっこいいスキヤキ』(扶桑社文庫)泉昌之著
『孤独のグルメ』(扶桑社文庫)谷口ジロー、久住昌之共著
『とうとうロボが来た!』(幻冬舎文庫)Q.B.B.著
 やはり自分で体験したっていう実感がないと漫画っておもしろくないと思うんですよ。自分を笑いの対象にできるかどうか。自虐というんじゃなくて、自分のなかのすごく恥ずかしい部分、あーやっちゃったっていう部分、そういう部分が人には絶対おもしろいんだから、それをいかに客観視できるかが漫画の本質だと思う。
 それと、おもしろいものを自分で見つけることが大切。インターネットを検索して見つけるんじゃなくて、街を歩いたり、本を読んだり、展覧会に行ったりして、自分でおもしろいものを見つけてかたちにしてみる。とにかく頭で考えているより、体験したことをかたちにする。そうすると次にいけるんですよ。こんなことやりたい、あんなことやりたいって思っていてもなかなかできないものなんだけど、具体的にかたちにするとその次が見えてくる。それが学校という場だとだれかに見せることができるでしょ。家で一人でやっていてもわかんなくなっちゃう。みんなでやると楽しいですよ、見せ合ったりして。
 僕は泉昌之くんにしろ、弟(久住卓也)にしろ、谷口ジローさんにしろ、いろんな人と組んでやっていますが、ある意味自分のアイデンティティーは何かなんてことを考えて難しく悩むよりは、自分がおもしろいと思ったことを早くかたちにしたほうがいいと思う。あと自分で考えたことを見せるときにひと工夫が必要ですね。何かつくるときに、ここを削ったらもう少し使いやすくなるんじゃないかっていう身近な工夫。ディレクションていうのはあくまでも売るためのもので、工夫っていうのは個人的なもの。結果として売れれ
ばいいけど、それよりも売れようと思って何にもできないよりは、まずかたちにしたほうがいいんじゃないかなって思うんです。自分なりの工夫をして。
個人商店は街の顔
 美學校に入って初めて神保町に来て、すごくこの街が好きになりました。神保町は基本的に本屋さんの街。特に神田古書センターは興味がつきない。それと昔の古い喫茶店がそのまま残っているでしょ。独特の雰囲気があってコーヒーがおいしい。さぼうるは今でも美學校に来る前に寄りますが、行きはじめてかれこれ20年。移り変わりが速いなかでずっと変わらないっていいですよね。
 ここ5、6年、喜んでいいのか悪いのか、この街にコンビニエンスストアが入ってくるようになった。神保町は他の街と違って、昔から個人商店が多いからなかなかコンビニが入ってこられなかった。神田や神保町にはもともとそこに住んでる人がお店をやっていて、何代も続いているお店もある。やはり個人商店っていうのは街の顔だと思うんですよね。
 駅前再開発というここ20、30年の動きは、北は北海道から南は九州まで全部同じ駅前になっちゃった。でっかいスーパーができてロータリーがあって。どこへ行っても同じで、すごくつまんないなと思うんですよ。やっぱり街にはその街なりの長い歴史があって、それを背負っている街が僕は好きなんで。(談)

*『ガロ』
70年代若者の心をとらえた伝説の漫画雑誌。1962年長井勝一によって設立された青林堂より創刊。水木しげる、白土三平、林静一、つげ義春、永島慎二、蛭子能収、内田春菊など数多くの作家を世に送り出した。


美學校
1969年現代思潮社により創立。
既存の教育システムによらない
独自の「学校」をいう場を提供している。
歴代の講師に澁澤龍彦、鈴木清順、赤瀬川原平など
◆千代田区神田神保町2-20 第2富士ビル3F 
tel.03-3262-2529
http://www.bigakko.jp/



特集・アートが生れる街、神田

移りゆく神田を見つめる、二つのギャラリー


神田には数々の画廊・ギャラリーがあるが、今回はオープンして20数年が経つ2軒に焦点を当て、街の印象や変化、今後の夢などをうかがった。

■淡路町画廊

神田淡路町2-11 Tel.03-3251-1762
「淡路町画廊」は昌平橋に程近く、損保会館横の路地を入ったところにある。建物は大正6年(1917)に建てられた、煉瓦の倉造り。建築主の藤井利八は書籍商で、かの北大路魯山人の二度目の妻、藤井せきの父親だという(「本の街」1985年11月号、中西隆紀)。現在のオーナーが買い取ってからしばらくは倉庫として使っていたが、83年、改装して画廊をオープンした。
 中を見せてもらうと、階段の手すりにさりげない装飾が施されていたり、天井の梁には建築に関わった人々の名前が記されていたりと、倉であってもこだわりをもって建てられたことがわかる。外壁のツタは誰も植えた覚えがないのだが、12、3年前から伸び始め、いつの間にか壁一面を覆い尽くしてしまったのだという。意図していないとはいえ、今ではこの画廊に独特の趣を添えている。
 広報として22年間この画廊に務めている因幡泰江さんに、神田の印象をうかがった。
 「神田駅から神保町辺りまでをよく歩きますが、近くに古いお店がたくさんあって感激しました。須田町の老舗街をはじめ、いろんなお店に行きます。トンカツで好きなのは万平さん。あそこの牡蠣フライと牡蠣バタは絶品。それからショパンの深煎りのコーヒーも」と因幡さん。美味しいものがたくさんあるところが、変わらないところだという。「逆に変わったところは、マンションが増えたところかしら。それから以前はこの界隈にも倉や画廊がたくさんあったんですが、ずいぶん減ってしまって。それは残念です」。
 アーティストを選ぶ視点は、特にこだわりをもたないと因幡さんはいう。「この画廊の雰囲気からイメージを膨らませて、『ぜひここでやりたい』とおっしゃる方が多いです。この場所が、自然とアーティストを選んでいるのかもしれませんね」。
 角を曲がった瞬間、意外な風景に出合えるのが路地の楽しみ。この画廊は、そんな驚きを与えてくれる貴重な場所だ。
8月末までは休館。その後の展示については、お電話でお問合せください。

■世界観ギャラリー

神田小川町3-28-13 Tel.03-3293-6334
 神田小川町に「世界観ギャラリー」が誕生したのは、84年。オーナーは額田病院院長の額田煜氏で、「病気治療に欠かせない精神面の癒しを、アートを通して広げたい」という願いから、病院をギャラリーに改装した。現在は1階に「アートショップMOMO」、2階に「ギャラリー銀舎」「ギャラリー間瀬」を併設し、経営は間瀬勲さんが家族を中心に7人のスタッフで行っている。
 「このギャラリーができたころ、私はすぐ近くで美術品を扱う会社をやっていました。もともと価値の確立した巨匠作品を中心に経営していたのですが、自分から発信するということの少ない仕事に疑問を持ち始めていて。そんな時額田先生と知り合って、ここの運営の話をいただいたんです。先生は非常に奉仕のお気持ちが強い方で、その考えに触れるうちに、『アートは富裕層だけのものでなく、多くの人のものなんだ』と思うようになりました。運営については先生と相談し、年間70回前後の展覧会を開催しています」と間瀬さんはいう。
 ここではマイナーな作家に光を当てることをポリシーにしている。「作品を見て、『リスクを冒してでもこの作家を育てよう』と決めたものを扱います。なるべく多くの人に親しんでもらうため、作品の販売も手頃な価格で質を落とさないよう、作家と協力しています。今まで美術品を買ったことのない人が、悩みながらも『これ下さい』と言ってくれた時が本当にうれしいですね」。
 浅草橋育ちの間瀬さんは、学生時代から神保町界隈に親しんでいるという。「神田の変わったところといえば、昔に比べて八百屋やクリーニング屋なんかの小さい商店がずいぶんなくなりましたね。でも、浮ついたところがないっていうのは変わらない。例えば古本屋なら『文化や精神を売る』っていう姿勢がびくともしないように、『文化の街』としてのバックボーンがしっかりしていると思います」と語ってくれた。
 「美術や工芸が精神の食べ物であることを、多くの人に知らせたい」というのが間瀬さんの変わらぬ夢。これからも魅力的な作家が、このギャラリーから出発していくのだろう。

 
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