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KANDAルネッサンス 64号 (2003.01.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館24

ミスター「HONDA」若き日のガード下物語【前編】

——自動車運転は地異天変下の神田だった

中西隆紀

昌平橋仮駅跡橋脚
 世界のHONDA。これをつくりあげた創業者本田宗一郎。彼がまだ徒弟修業にあった16歳の時、初めて助手席に乗り優勝したレーシングカー「カーチス号」は今「本田コレクションホール」に動態保存されている。それは彼の青春そのものだったからだ。それを知った技術専門学校「本田学園」の生徒たちは、朽ち果てる寸前であった車を修理補てんしピカピカの動く記念碑としてリニュウアルを成し遂げたのであった。
 実はこのレーシングカー。そもそもの生誕の地は神田のガード下であった。
 この事実が判明するきっかけになったのが一枚の写真(65号掲載)である。そこには赤煉瓦のアーチが写っていた。ああ、これは神田の昌平橋に違いない。見たとたんそう直感した。
 場所は万世橋のお茶の水寄り、神田川横にある昌平橋仮駅跡のガード下だ。ここは4連の赤煉瓦アーチがワンセットで成り立っている。昔あった駅はこのアーチ横から入り、上のホームに出るようになっていたらしい。昌平橋駅というのは万世橋駅ができるまでの仮の駅だったから、今は多少手のこんだ橋脚だけが当時の駅の名残を伝えているし、下の4連アーチは駅が廃止された明治45年後もそのまま倉庫などに使われ、現在もその上をごう音をたてて電車が通り過ぎてゆく。

 今私は東京の赤煉瓦アーチの顛末を4、5年かけて追求中なのだが、そうした探求の過程で出会ったのがこの一枚であった。図書館で偶然手にした本田宗一郎の写真集。これをぱらぱらと繰っているうちに一枚の背景が気になった。普段見慣れているアーチが写っていたのだ。案の定キャプションに「神田昌平橋にて」とある。そして赤煉瓦アーチの前にはレーシングカーに乗ったひとりの男の姿が写っていた。そのアーチの側面には丸いメダリオンの飾りが付いていて、その横に「アート商会」の看板が掛かっている。明らかに昌平橋際のアーチに違いない。
 さっそく翌日もう一度現場へ急行し照合する。普段は漫然と見過ごし通り過ぎているだけの風景は、違う色のフィルターを掛けて初めて意味を持つ場合があるからだ。
昌平橋仮駅跡の4連アーチ
 御茶ノ水寄りいちばん左にあるのが酒場「百万両」。大徳利の入り口につられて、思わず日本酒を頼んでしまったここでのひとり盃は今から15年も前のことだ。「銭谷自動車工業」分工場、「名取容器」倉庫、「石丸電気」倉庫の四テナントが入っていた。しかし驚かされたのは銭谷自動車である。
 本田宗一郎出入りの修理工場を求めて来てみたら、同じ修理工場があったのである。これをすぐにクロと断定するわけにはいかないが、一応検討には値するだろう。銭谷自動車の社長に電話してみなければならない。そういうわけでこの時点では、アーチ合計四つの内そのどれと特定することはできなかった。
 宗一郎が徒弟修業をしていた自動車修理工場「アート商会」は神田川の向こう、本郷湯島6丁目にあった。そしてこの煉瓦アーチは本郷の分工場であった。仕事が終わると仲間たちは、この神田のアーチへやってきてレーシングカー作りに没頭したのであった。

 彼の車への憧れは幼少の頃にさかのぼる。静岡県天竜川沿いの村にやってきた車が落とした一滴のガソリンの匂いであった。毎日嗅いでいてもいいくらい良い匂いだったという。鍛冶屋職人の子、本田宗一郎は小さい頃から父の火と燃えるモノ造りの現場を見て育ち、自らも機械いじりが大好きだった。上京して住み込んだのは本郷湯島の「アート商会」という自動車修理工場で、時に宗一郎16歳であった。
 この「アート商会」の29歳の青年社長榊原郁三も独創的な男で、宗一郎は最初から幸運な出会いを獲得したと言っていいだろう。
 榊原の上京は18歳の時であった。伊賀男爵が私財を投入して没頭している飛行機研究所へ住み込みとなったのが振り出しで、以後男爵と同じ道を歩む。しかし男爵は初飛行に失敗、伊賀家は散財を恐れて研究所の閉鎖を懇請したが、翌年男爵は方針を転換し、自動車修理の実業の道に入ることになる。
 こうした薫陶を受け榊原郁三は独立し、本郷に百坪を借り「アート商会」を設立する。
 この宗一郎の最初の師匠はたたき上げであったが、かつモダンなセンスを身に付けた男でもあった。趣味は天文学、夜空を眺めフランス製シトロエンを乗り回していた。そして、戦中にアートは敵国語だから改名しろと言われた時も断固として看板を守ったという筋金入りでもあった。「自動車修理工の制服は作業着だ」が口癖の誇り高き職人であった。
 ここで宗一郎は日々油にまみれていたのだが、本格的に運転することだけはまだ許してもらえなかった。
 彼の四輪初運転は未曾有の災害がきっかけだった。関東大震災だ。それまで本郷の修理工場という自動車の現場にいながら、好きなように自動車を走らせたことが一度もなかったのである。仕事柄、数メートルの移動はあったが、本格的な運転はまだ一度もなかった。
 彼が初めて四輪車の運転を許可されたのは、驚天動地のさなかであった。救急出動が彼の初運転だったのである。弟子入りのため上京してわずか一年、17歳になっていた宗一郎は生まれて以来まだ一度も経験したことがない激しい縦揺れを体に感じた。それに続いて周りは大変な混乱に包まれていた。ガラスが割れ、工具は箱から飛び出し降ってくる。やがて揺れが収まったのはいいが、周りの中から火の手が上がった。
「ぼやぼやしてないで、クルマを運び出せ」という先輩の声が飛ぶ。皆それぞれ工場にあったお客のクルマに飛び乗った。さっそくエンジンをかけて神田方面の空き地に避難したのだが、驚くべきことに宗一郎はこの時初めて自動車というものを思い切り運転させてもらったのであった。当時を回想して宗一郎は「私は内心、しめた、このチャンスだ、と思い、すぐにダッチブラザーズというアメリカ製のクルマに飛び乗り、ごったがえしている群集の合間をぬって、フルスピードで神田のほうへ逃げた」というのだ。
「クルマに乗れるという嬉しさのあまり、地震なんかぜんぜん怖くなかったな。とにかく自動車をいじれたということだけでも、歴史的感激だった」と当時を語っている。
 本郷の工場は焼け落ちてしまい、後には神田の分工場だけが何とか残された。それは分工場が煉瓦でできていたからである。それは上を電車が走るガード下にあった。煉瓦の強靱な壁は震災にもびくともしなかったのだ。そしてこの渦中にあって難を逃れたのが彼ら仲間が製作中のレーシングカーであった。
「もの作り」の職人肌宗一郎に対して、経営の藤沢武夫、この両輪があってHONDAは世界へ羽ばたいたといわれる。彼ら二人は決して親友ではなかった。仲が悪かったわけではなく、性格がまったく違う方向を向いていた。宗一郎は論理的に考えるのが苦手だ。抜群の直感力と職人的執拗さは、宴会に至るとハメをはずしてのドンチャン騒ぎとなる。
 一方、藤沢は理知派といおうか、読書や芸術を好み、同じく宴会は好きだが、しっとりとした会話で楽しむというタイプであった。
 藤沢は東京小石川の生まれ。つまり、この点においても田舎から出てきた宗一郎とは対称的である。その激しい個性がぶつかり合って後に世界企業が誕生したのであった。
 次回は、幻の昌平橋アーチの写真を中心にさらにその周辺を追ってみたい。


中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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