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KANDAルネッサンス 59号 (2001.10.25) P.10〜12 印刷用
神田仮想現実図書館19

広すぎて困ったぞ「小川町」物語

 「神保町も昔は小川町だった」をめぐる謎

中西隆紀

 神田の小川町に悩まされて、もう何年にもなる。
 人の知識というのは限られたもので、だから思い込みや誤解が生じるのだが、「あれ、これは何だかおかしいぞ」と思った時にはもう何らかの脳中のエンジン点火は完了しているということがある。
 あとはスタートのアクセルを踏み込むのみと思われるが、気が付いてみると車はもうすでに動き出していて、先程の景色はきれいさっぱり後方に消えているということも、初期の謎や迷いをめぐる混乱期には間々あり得ることだ。
 謎解きの醍醐味は、確かにこのスターター点火時点の安定を欠いた浮遊感にあるのだ。腰の定まらないあの感じは、おそらく理知的優等生シャーロック・ホームズより、よれよれの外套に身を包んだ万年窓際刑事のほうが良く知っているのではないかと思われる。
 何のことはない。数年前の話だが、私は神田小川町が急に分からなくなってしまった。突然、小川町が謎の町になってしまったのだ。言葉を変えて、これを振り返る今の時点でいえば、小川町に振り回されてもう何年にもなるということになる。たかが小川町、されど小川町。たったひとつの「町の在り方」を私はおおいに誤解していたらしいのだ。

 私のいう小川町は現在のスポーツ街の位置にある小川町ではない。混乱はここにあった。
 事の始まりは作家森鴎外を追っていた時であった。この明治の文豪自ら記した文章中に「私が小川町の先生の元に寄寓していた頃」とあり、当初、私は当然のことのように現在におけるスポーツ用品街を思い浮かべていた。
 神田小川町は、現在ではビクトリア、ミズノ、ミナミなどのスポーツ用品の街として知られている。神田散策を趣味とする人間ならば誰でもがスキー板にマウンテンバイクを並べたこの町並みを想像するのは当然のことだ。
 ところがこれは戦後もしばらくたってからのことで、戦前も繁華街であるには違いないが、こうした「スポーツ同業センターモール街」的な町並みは以前は存在しなかった。
 そういう点では、本の街は明治時代から本屋が集中し始めたから、同じ商品を置く店が寄り集まる同業センターモール街としては本の街がいちばん古いということになる。
 もっとも、江戸にまでさかのぼると、神田には古着屋街、及び青果市場という街区があって、最も古いショッピングモールといえばこのふたつを挙げなければならないだろう。
 さて、その話はさておいて、スポーツ用品街として有名な小川町だが、江戸時代ここを歩いていた人々の意識は、現在の小川町辺りを小川町の中心とはイメージしていないようなのだ。

 この小川町問題のきっかけを与えてくれたのが森鴎外であった。というのは、日本文学全集などの年譜を見ると、鴎外少年が故郷津和野から上京し身を寄せた西周の邸宅の場所が「小川町一丁目1番地」と記されている全集と「西小川町一丁目1番地」と記されているものの二通りあるということに気付いたからである。これは調べてみると、西小川町が正しい。森鴎外が西小川町と正確に書かなかったからだ、と言ってしまえばそれだけのことだが、年譜作者も「西」がこれだけ離れた場所にあるとは想像もしなかったのかもしれない。西小川町が小川町の隣りにあるのならともかく、何と神保町を飛び越えて三崎町の近くまで行ってしまうのだ。小川町。これだけで判断すると、誰でもが誤解して、そうか、わずか11歳の森少年は、今のスポーツ街辺りに住んでいたのかと思う。その「西」だから神保町に近い辺りだろう、とこう想像する。
 明治の地図を取り出して調べる。すると、小川町から離れてとんでもない場所に「西小川町」が飛地のように存在していた。ここが明治5年頃、森少年が住んでいた場所だ。現在この地区は「西神田」と呼ばれ、西神田公園の一角が西先生のお宅であることがわかる。明治期だけに見られる地名「西小川町」は今度はどういうわけだか、「西」だけを残して「西神田」となり小川町の名はここから消えてしまい、現在の小川町だけが小川町となる。

 ところが、小川町を消してしまったこの飛地が実は小川町の中心に当たる重要な場所であることが後でわかった。
 しかしなぜこんな離れた場所が小川町だったのだろうか。そんな疑問が残る。 
 そう考えている時に、さらに離れた場所にまたもや小川町が見つかったのだ。
 今度は時代が幕末にさかのぼる。九段下の交差点に歴史教科書でもおなじみの、洋学のメッカ「蕃書調所」の碑が立っている。黒船を横目で見ながら西洋書物を解読したいと必死に研究していた場所だ。これを見ると蕃書調所は現代の九段会館駐車場の位置にあったことが分かる。この碑だけではこれくらいのことしか分からない。さらに、ものの本を調べていくと、蕃書調所は九段下から一時「小川町」に引っ越したと書いてある。これも簡単に「そうか、小川町か」と、またもや現在のスポーツ用品街を想像してしまう。しかしその辺りの江戸地図を見ても、こんな所に蕃書調所なんてどこにも見つからない。こうしてまた分からなくなってしまうのである。
 そしてもう少し詳しい本にあたる。すると今度は「小川町御台所町」とある。御台所というあるから、おそらく江戸城の食事を司るまかない人が住んでいたのであろう。「小川町の御台所町」。何とご丁寧に町名が二つもある。これは後で、小川町の中の御台所町だと分かったのだが、この時は、小川町というのはいったいどこまで広がっていくのかと途方に暮れてしまった。そして、何と御台所町は三崎町の端、神田を飛び出して現在日本橋川の川の水が流れている位置だということが分かった。三崎町近くに飛んで、今度は飯田橋近く。こんな面倒くさい問題は早く日本橋川の水に流してしまったほうがいいのかもしれない。いったい小川町とは何者なのか。小川町が魔性の女に見えてくる。風船爆弾のようにまさに破裂するまで広がりそうな勢いなのだ。

 さてそれならば、少々頭を冷して「江戸幕末地図」を再検討してみようということになった。
 そうすると、次のようなことが分かった。
 江戸時代の小川町は実は現在の小川町の位置ではない、というよりも、現在の小川町は江戸時代の小川町のほんの一部でしかなかったといったほうがいいだろう。
 小川町は、とてつもなく広かったのだ。
「天保御江戸大絵図」を見ていくと、現在の西神田一帯のかなり広い範囲を小川町と称していたことがついに分かったのだ。
 ここらは武家屋敷地帯だから、本来なら町名がないはずなのだが、あるわ、あるわ、江戸地図を細かく見ていくと方々に小川町が見つかった。まず、現在小学館、集英社がある白山通りは「一ツ橋通り小川町」と通りに書いてある(神保町は小さな神保小路)。そして現在西神田公園があるその横を通るのが「小川町広小路」とこれも小川町が付き「広小路」だからメインの通りということになる。そしてもうひとつが現在の専大交差点から北へ向かう「雉子橋通り小川町」というのがあって、ここいら辺はみ〜んな、現代でいう三崎町も西神田も神保町も、さらにことによると猿楽町まで、江戸時代は「小川町」であった。
 何という広い範囲にわたっていることであろう。そして、この小川町の広さは何を語るのであろうか。推測するに、この町名自体がとても古くから機能していたのではないかと思われる。
 つまり、江戸草創期では広い地域に住民がぽつりぽつり。片や明治以降では家屋が密集している広い地域に当たるから、何らかの区分けが必要。古くは数十軒の家屋が広域に点在するだけの単一の「小川村」であったのではないだろうかという推測である(三崎という町名はもっと古いのかもしれない)。
 だから武士が多く住むようになっても「小川町」の名だけはイメージとして残っていったと考えられる。だからこの広い地域は漠然と小川町、武家屋敷だから管理する必要もないし、まさに漠然と小川町界隈で通っていたと考えられる。
 その証拠が「江戸町鑑」に添えられた絵図であり、「切絵図」のタイトルであった。
「江戸町鑑」を見ると駿河台と鍛冶町・多町の右側はすべて「小川丁やしき」とある。このように簡略化するとこの地域は駿河台の丘と小川町の低地ということになるのだ。
 北に向って右に駿河台、左に九段上という高地にはさまれた界隈では最も低い、元川が流れていた湿地帯であった。
 小川町という名称の起源は、実はこの低地または「川」の字にある。鈴木理生先生の研究にもあるとおり、ここは江戸初期、江戸の真ん中を流れる河川があった場所なのであった。
 大江戸の川のほとんどが人工的に開削された掘割であることは周知の事実であるが、それ以前、太田道灌の頃に天然自然の河川として南北を縦断し江戸の中心を流れていたのがこの川である。
 その川は家康によってジグソウパズルのような河川の付け替えが計画されていった。運河だ。
 その結果、城横のこの低地帯は埋め立てられ、市街地と化していった。そして後年、ここに泉が湧き出てくる。
 明治時代に発行された「風俗画報」に「小川の清水」と題して次のようにある。
「小川の清水。一に神田か淵ともいひ。小川町旧内藤大和守屋敷に在りしといふ。小川町の称も。此に基けるよし」とあり、さらに太田道灌の

 むさし野の小川の清水たえつして 岸の根岸をあらひこそすれ

の和歌まで添えられていた。
 さて、ここで漠然としているが、場所は分かった。あとは時間的経緯である。なにしろ江戸時代のことだから、私のような浅学な者が四、五冊の書物だけで結論を出すのも問題は多いということになるが、現時点で推論をまとめてみると、小川町低地は

 1.江戸中心部を流れる川が中心にあった。神田山(後の駿河台)の麓にあたり、田畑であった。
 2.湿潤の低地に沼や沢があり、時に川の水位が上がると洪水に悩まされることも度々であった。
 3.家康が江戸城を中心に掘割を整備する。
 4.神田山を東西に掘り割る大工事を敢行、川の流路を変更する。
 5.それにともない、この界隈は埋め立てられ市街地となっていく。
 6.ここに鷹狩のための鷹匠を住まわせたため鷹匠町という。
 7.旧内藤大和守屋敷に清水が湧き出る。小川の清水または神田が淵という。
 8.元禄6年、この広い低地一帯を小川町と名付ける。
 9.武家屋敷化がすすみ、一ツ橋通り小川町、小川町広小路などの区分けが必要となる。
10.明治になってこの界隈の町名を細分化して名付けた時に「小川町」と「西小川町」だけ小川町の名が残る。
11.「西小川町」が「西神田」に変わり、現在の小川町だけが小川町となる。

 これが小川町の名のよってきたる来歴ということになる。
 こうしてみると、鴎外が「私が小川町の先生の元に寄寓していた頃」と書いたのは間違ったのではなくて、まだ江戸の気風が残っていて、「私が小川町の中心の辺りに居て」という意味だったのかもしれない。小川町はそういうわけで、こんなに奥が深かったのであった。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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