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KANDAルネッサンス 72号 (2005.01.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館32

十七歳、樋口一葉の「十三夜」

中西隆紀

 五千円の新札の評判はいまひとつというところだろうか。この「一葉」の肖像の元になった写真というのが残されているが、これと比べるとかなりの落差を感じざるを得ない。写真は修整の疑い無きにしもあらずだが、私が心惹かれるのは口元の表情の微妙さだ。美しい。通常ならば平行線をたどりかねない厳しさと可愛らしさ。これが同居するという奇跡を実現しているのだ。修正があろうがなかろうが、この写真こそ一葉に間違いないと、私には思える。
 一葉の元に撮影に応じるよう連絡が入ったのは、文芸倶楽部からであった。その時の様子を、後に一葉の友達「いなっちゃん」が回想しているのだが、「あのはずかしがり屋さんがよくもまあ写真館まで出かけたものね」と問いただすと、一葉は次のように答えたという。
「三宅花圃さんも出すというし、私だけ出さないというと、高ぶるようだから」しかたなしに行ったのよということだった。

 いつの世も世間は口さがない。月見だって当時は二回が当たり前。十五夜の月、十三夜の月、月に変わりはないものの、ひと夜、月をめでるだけでは「片見月」になってしまうというのだ。
 樋口一葉の「十三夜」は神田と上野が舞台になっている。
 神田猿楽町の家の前で追羽根をしていたお関十七歳のお正月、突いた羽根が原田さんの俥に落ちた。これが原田勇に見初められるきっかけでもあったのだが、断っても断っても執拗にせまる周囲の状況に負けて、今は駿河台の高級官吏原田家の嫁。大門の深窓に暮らせど心は何とも定まらない。
 お関が離婚を決意したのは九月「十三夜」の晩であった。この時街で拾った俥引きが「緑さん」緑之助であった。緑之助は神田小川町の小奇麗な煙草屋の一人息子。なぜ、あの方が今俥引きに……。走馬灯のようによぎる思い出。二人の青春はここ神田であった。

 主人公「お関十七歳のお正月」というのが気になった。樋口一葉自身も「十七歳から十八歳のお正月」を神田神保町の借家で迎えているからだ。今の駿河台交差点あたり、三省堂とビクトリアの間というところだろうか。この時はまだ、父もいて母もいて兄もいて妹もいた。その最後の家族団欒の場所、それが神田神保町だったのだ。
 この状況がそのまま続けば、一葉はなにも重い荷を背負い一家を肩に駆けずり回らなくてもよかった。
 一葉の親友「いなっちゃん」は駿河台に住んでいた。伊東夏子だから「いなっちゃん」。当時の番地は南甲賀町八番地だから、現在の三井住友海上火災ビルの南辺りだ。家は裕福で、お母さんは「ひなっちゃん」こと樋口夏子(一葉)の小説を膝に置いて眉をしかめるのだった。
「ひなっちゃんの小説は一つも、めでたしめでたしで終るのが無し、歌は気になるのを詠むし……と否定的だった」(田辺夏子「一葉の憶ひ出」)。
 こうした良家のご母堂に一葉を理解せよというほうが無理だろうけれど、実は凡庸のなかにさえささやかな光明を見つけることができるのも、一葉の才能のひとつであることを知らない。このように題材からすれば少々暗い印象は一葉の場合、避けて通ることは難しい。また外面的にも限られた友達との交遊だけで、強度の近眼ということもあったであろうが、言葉少ない目立たぬ存在は事実であったろう。「人の膝に手をおいて、ネーネーと言ふたり、人にひつつく様にして、自分から親しみをもとめてゆくなどと云ふ事は絶対にありませんでした」と「いなっちゃん」は後に回想する。
 また、田中みの子も加えて女三人は仲がよく、むしろたわいない話に興じることが一葉は大好きだったというのが私の推測だ。しかしながら、人の悪口だけは決して言わなかったともいう。これも一葉である。

 樋口一葉の本名は「なつ」「夏」「夏子」などと書かれるが、出生時に役所に届けられた名は「奈津」である。
 明治五年三月十五日、現在の千代田区内幸町一丁目「内幸町一番屋敷、東京府構内長屋」で生まれる。現在のみずほ銀行(旧第一勧業銀行)の辺り。赤ん坊時代がここで、生まれてから約四か月半いた。
 八月には神田に越してきた。夏子一歳から三歳の一年半だ。下谷練塀町(ねりべえちょう)四十三に初めて自宅を購入し、今までの官舎住まいに終止符を打つ。練塀町だから今の秋葉原駅北の高層ビルすぐ東隣だ。一葉はまだ一歳で、よちよち歩きからやっとしっかり歩き始めた、目の話せない頃だ。
 明治七年二月、この神田の屋敷を百三十円で売り払い、麻布三河町へと越していく。
 こののち、本郷、下谷、上野、芝高輪をへて、神田表神保町二番地に越してきたのは明治二十一年九月九日。この直前に長兄は死亡、一葉は十七歳になっていた。この年の暮れから正月までは一家は安泰だった。ここで父は「荷車請負業組合」に出資、錦町一丁目の事務所へ通い出す。居住七か月。十七歳から十八歳。
 ここで父は事業に失敗してしまう。二十二年二月に組合は解散、三月十二日、一家は逃げるように神田区淡路町二丁目四番地に転居する。父則義は心労が重なり五月に倒れ、七月には病没してしまう。この病臥中に、何とか一葉の結婚をと渋谷三郎に依頼するが、則義没後に婚約は解消されてしまう。一葉十八歳、5か月半。母たき、妹くに、一葉の三人が残される。
 則義の葬儀を済ませ、女だけになってしまった一家は、芝区西応寺町の次男虎之助宅に同居する。この後、母と虎之助の仲が悪化、一葉は歌塾「萩之舎」(小石川区水道町)に内弟子として住み込む。
 母たき、妹くにと再びいっしょに住みはじめたのは、明治二十三年九月末で、本郷菊坂町の借家を借り、洗濯と針仕事で生計を立て、二十五年には処女作「闇桜」を発表する。この頃から次々に作品を発表するようになるが、原稿料は薄謝、家計は苦しく、相談の上、商売を始めたいと思う。
 こうして、明治二十六年七月、下谷龍泉寺町へ転居、荒物・駄菓子の店を開く。妹くにが店を受け持ち、一葉は仕入れに各地へ足繁く通うこととなる。
 最初は客に主婦なども混じっていたが、しだいに子供が多くなり、これは5厘、六厘の客だから百人をこなさなければならない。こうして開店当初荒物だったものが、菓子や玩具の仕入れが増えてくる。「商人としての樋口一葉」(後藤積)では「仕入帖には図書館に通いはじめ菓子類の仕入れが多くなって馬車代の記入が目立つ」とあり、図書館に馬車だから多少の余裕も生まれたようだ。
 神田の買出しはこうした子供向けのもので、日記には連日のように神田「多町に行く」が頻繁に登場する。
「万世橋に来し頃には鉄道馬車の喇叭(らっぱ)の声はやく絶て京屋が時計の十時を報ずる響き空に高し」(「別れ霜」)。現在の秋葉原あたりの様子だが、橋を渡れば多町は近い。
 ところが、明治二十七年五月、店をたたんで本郷丸山福山町(現・西片一丁目)に越す。また、この頃から肺結核症状が現れ始める。
 明治二十九年八月初旬、妹くには一葉を駿河台の山龍堂病院へ連れていき、診察を請うた。ここで樫村院長に「肺結核で絶望」と宣告される。
 天才一葉を何とかしたい、斎藤緑雨はあわてた。森鴎外に頼み込み、当時医者の頂点にいた青山胤通(たねみち)を紹介してもらうが、青山も診察後、くにに黙って横に手を振らざるを得なかった。
 十一月二十三日不帰の人、一葉二十五歳は、緑雨でなくとも何ともくやしい。

 画家鏑木清方の「一葉」像は迫真の作品だが、初めてこれを見た時にはその前で足がすくんでしまった。表情もいい。背景小物もさりげない。ただ、目が吸い付けられたのは一ヵ所、帯である。浅葱の水色はやはい実物を見なければわからない。清方は帯に一葉のすべてを沈潜させた。
 橋本威「一葉回想記に関する些かの問題」(『論集樋口一葉III』おうふう)は一葉の容姿について触れられている。美人や否やを、この書は問うているのではない。これは世の中、自説があるだけでいい。容姿に惑わされない、こうおっしゃる人も稀なように、迷いと過誤を誘うために神がお造りになったのが容姿なのだ。これをまた天地を逆に突き詰めていくと、そもそも創造主が人形をしていること自体が救いでもあれば、うぬぼれの産物ともいえる。
 実は一葉だって詮索すれば創作人としてのうぬぼれが多弁ななかに存在する。ただそれが心地よい。秘められているからだ。結論。私は要するに一葉が好きなのだ。

 一葉については実は一致した見解というのもある。髪の毛が薄かったというのだ。
 三宅花圃「一葉女史を憶ふ」には「小さやかなる体に、正しき鼻筋、卵なりの顔かたち、毛の少し薄きが、難といへばいふものゝ、」とある。このことに関しては半井桃水も、馬場狐蝶もそういっているから本当なのだろう。だから何だというのだ。一葉の心根は神(髪)が何を与えようと明るいのだ。
 田辺夏子「一葉の憶ひ出」は一葉以外に、明治の神田の回想ものせていて、これも興味深いところだ。話が脱線したついでというのも失礼だが、今回はこうした締め方でお許しを願いたい。
「いなっちゃん」は神田三崎町に住んでいた社会主義者として有名な片山潜(せん)の所へも遊びに行っていたらしい。彼は肩ががっしりした色の黒い人で、彼女たちがトランプをしていると「チャンスで勝つ遊びは面白くない」と言って、四枚合わせという記憶遊びをすすめたという。また、彼女たちがゲラゲラ笑う時も「ニヤリと」微笑むばかりで、声を出して笑った事がなかったという。
 また、神田のYWCAにいた来日教師の話題も残している。カナダ人のミス・マクドナルドは活発な人であったのだけれど、日本語はまだ片言であった。夏子たちが笑い転げた彼女のつたない日本語を二つ紹介しよう。
 おそらく話が身の上話に及んだ時「私の家、火事で炊きました」というのがひとつ。
 もうひとつが電車に乗った時車掌に言った言葉が「神保町でころしてください」だった。これではまるで「神保町殺人未遂事件」だ。なかなか「いなっちゃん」も面白い人で、「庖丁と保町」が通じているだけに「面白いと思いました」と結んでいる。


 
中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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