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KANDAルネッサンス 72号 (2005.01.25) P.2〜5 印刷用
特集●陣内秀信さんと巡る神田川

川から見ると、神田がもっとよくわかる!

今回は、川から街を見てみましょう。神田を流れる二つの川、「神田川」と「日本橋川」。いつもは見過ごしがちなこの二つの川から見ると、神田の新しい「顔」が見えてきました。
ベネチアや東京の川や都市を研究されている陣内秀信さんと一緒にめぐりました。


陣内 みなさん、こんにちは。
今日は私が今までに研究してきたベネチアと神田の川についてお話しながら、船から街を見て行きたいと思います。
陣内秀信さん
古地図を見るとわかること
■現代の東京を理解する上で、現代の地図を見るよりは江戸の地図を見たほうが良く分かるといいます。なぜかというと、かつての地図は重要なことを強調して描いているからです。今の地図はあらゆる情報を客観的に全部載せようとするので、何が本質なのかがわからない。家を探したりするのには優れていると思いますが、町の骨格を知ってイメージを掴むには、はるかに古い地図の方が役に立ちます。ですから、都市のイメージというものを江戸時代の人々、戦前の人々は皆持っていたものなのです。しかし都市の変化と巨大化の中でいつのまにか、人々はそれらを忘れてしまった。
 それでは、出発前に古地図で簡単に今日のルートを説明しましょう。(地図A参照)

■私たちは今、古川の河口にいます(地図A①)。そして築地の魚河岸がこの辺りにあります(地図A②)。
佃島の下は、今は埋め立てられて臨海副都心ができあがっていますね。当時は佃島が東京の最先端(地図A③)。東京はどんどん埋め立てられてきましたから、今ではお台場や天王洲まで弧を描くような形になっています。
今日これから登場する橋の多くは、関東大震災後の復興事業で生まれたものです。1920年代のことですから80年以上の歴史があります。ここから(地図A④)神田川に入って、日本橋に入って抜けていきます。日本橋は今日のルートのハイライトですが。
 まず良く見ていただきたいのは、神田川沿いの橋と渓谷が深くなっているところです。神田川は人工的につくられた運河なのです。徳川幕府が意図的に掘ったのです。その理由は後ほどご説明いたしましょう。三崎橋から堀留橋の間は、明示の初めにつながれて、こうやってぐるっと一周めぐることができるわけです。では出発しましょう。

江戸時代から、川を楽しんでいた日本人
■江戸東京の最大のイメージは「水の都市」だったといえます。
 古川の河口で屋形船の基地になっているところは、かって漁師の町だったところが多いようです。このような漁師の方々がどんどん陸に上がってきて、今では屋形船の基地や船宿を経営されるなど、あちこちで頑張っていらっしゃいます。そのおかげもあって、東京水辺の復活の重要な役割を果たしてくださっています。一説では、現代の方が江戸時代の頃よりも屋形船を楽しむ人の数が多いといわれています。江戸時代の庶民にとっては、お金を貯めては屋形船でお花見に行ったり、芝居見物にいくというのが憧れでありました。
神田川−柳橋から聖橋へ−

■さて、もうすぐ神田川の第一橋梁、柳橋です。
 東京の橋研究会を開いている伊東孝さんは、「掘割りに入る時の最初の橋はゲートとしての役割があって、とても重要だ」とおっしゃいます。
 江戸時代の地図を見ると、この辺りは左側が土手で、古着屋が並んでいたようですね(地図B①)。そういうこともあって、後に繊維問屋街へと発展していったのではないでしょうか。
 神田川は人工的に掘られたわけですが、都市史研究家の鈴木理生先生によると、神田川が掘られた目的は、一つ目に江戸の中心部である下町を水害から守るため。平川、旧石神井川などの中小河川に一気に流れこんだ雨水が、北から中心部に流れていくのを塞ぎ、隅田川に注ぎ入れるよう、堀をバイパスとして活用したのです。
 二つ目に船の交通用、三つ目に掘ってできた土で下町を埋めたて市街地を造り、産業に使うという目的があったのです。仙台の伊達藩を中心に掘られたといいます。
■今は水辺に向いている建物が少なくて、船に乗っていても手を振ってくれる人がいなくて、陸とのコミュニケーションが取れないのが寂しいですね。例えば、人が川沿いを歩けるようにアプローチ(通路)を確保する。そのために両脇の建物の1階部分を内側に引き込むなんていかがでしょう。陸からアクセスできる通路を、地区計画の中に取り入れるための協定を作るなど、都や区でも動き始めているようですよ。

■左衛門橋から昌平橋辺りにかけては、震災復興事業の折にできた橋で、ほとんどが鉄の橋です。中でも注目すべきは、四隅に橋詰め広場(緑地)があったことです。おかげで、昭和初期には水と緑のネットワークが下町にはりめぐらされたわけです。
■今は両側にビルが迫っていますが、かつては土手でした。江戸時代、土手は公有地でしたが、お金持ちがその利用権を売買し、明治以降徐々に一般の建物が建つようになりました。今ではそれらのほとんどが払い下げられ、オフィスビルが軒を連ねています。こうなると都市づくりがなかなか捗らない。このような所は蔦で覆うだけでも相当変わると思います。今はまったく緑がない状況です。しかも水際を意識した建物が見当たらないですね。ただ一つ、頭上に高速道路がないので空が見えて気持ちが良いです。川の上が開いているということは非常に大きな可能性を秘めていると思います。
■ 高い所から東京を見ると自分の位置がつかみにくいものですが、隅田川と神田川の流れを見ることで、自分が今どこにいるか分かるのです。この二つの川は、都市の空間軸、座標軸の役割を果たしているのですね。
■江戸時代の物流はほとんど船でしたから、水路が幹線なわけです。だから広い空間がひろがっています。やはり、運河沿いが人々の視線を集める風景には重要な軸なのです。それが今、完全に失われています。なんとか取り戻さなくてはなりませんね。さて、もう少し行くと秋葉原が見えてきます。
■秋葉原は、二重の意味で重要なポイントです。
まず、日光街道や中山道が通る城外と城内の境目、「筋違御門」(すじかえごもん)がありました(地図B②)。また秋葉原には荷揚げ場があり、船の交通も盛んでした。
左側に柳森神社が見えてきましたね。これから所々に水際に神社を見ることができますよ。
話しを戻しまして、筋違御門のそばには広場がありまして、やはり広小路になっている。そして広小路は防火帯でもあったのです。そこでは芝居が行われたりしていたようです。
■今、交通博物館になっている所はかつて、甲武鉄道の終着駅「万世橋駅」がありました(地図B③)。ここはターミナルで、日本で最初の駅前広場ができました。東京駅を設計した辰野金吾が設計したもので、明治の重要な建築物であり、今に生きる素晴らしい構造物といえるでしょう。中に入ると、プラットホームや階段が当時のまま残っています。万世橋駅といいこの交通博物館といい、ヨーロッパだったら立派な空間に蘇らせてしまうと思いますよ。日本ではなかなかそこまで思いきった利用をしてもらえないですね。しかも交通博物館の建て替え計画が出ているようで、心配です。
 きっと皆さんは、明治の構造物の上を走る中央線に何気なく乗っていたかと思いますが、今日からはぜひ先ほどのことを思い出してくださいね。(写真①)
■ 昌平橋を過ぎると、神田川が神田山を切り崩してつくった堀であることが如実にわかると思います。そしてこの先、分水路がみえてきます(地図B④・写真②)。これは、台風などの大水が発生したときのバイパスとして、都心部へ水が流れこまないようにするものです。そしてこのあたりの石垣は昭和初期のものなど、古いものが残っています。今はコンクリートで塗られてしまい分かりませんが、江戸城の石垣、明治から昭和初期の石垣、そして現在はコンクリートで固められた壁という具合に、護岸も幾重にもレイヤー(層)が重なっていると考えてもらえると分かり易いかもしれません。

橋と緑の、ダイナミックな景観

■いよいよ聖橋ですね。ダイナミックな光景です。(写真③)
 昭和初期に興った、過去の伝統にとらわれない新しい造形を生むという「分離派」活動の中心的人物、山田守という建築家が設計したのです。東京でも美しい橋のひとつといえるでしょう。なぜ、聖橋というかご存知の方も多いかと思いますが、左には、ニコライ堂、右には湯島聖堂。この二つの聖を結ぶ橋として市民からの一般公募によって決まった名前なのです。この辺りが一番ダイナミックなんですよ。聖橋は大きな渓谷を結んでいるので、左右にコンクリートの構造物が伸びて非常に迫力があります。
聖橋
 前方に見えてきたのがお茶の水橋。両方の橋とも雄大ですね。昭和初期の写真を見ると橋だけでなく、お茶の水駅も非常にインターナショナルスタイルの建物で、プラットホームの屋根は、鉄道のレールを再活用して作られたようです。これは日本人が編み出した技法のようです。

■さて、この辺から緑が濃くなってきますね(左ページ写真④)。お茶の水橋ができた頃は、周囲に緑はまったくありませんでしが。むしろ今のほうが美しくなったといえるようです。ここにもっと船が通るといいのですが…もったいないです。ただ、急斜面なので陸と川を結ぶことは決して容易ではないでしょう。いずれは、一定の条件をつけて、下(川)へ降りられるようになるといいですね。
 一時、国土交通省より鉄道の駅と船をつなごうというアイディアが紹介され、ここもその候補地になっていました。またJRお茶の水駅の建て替え案が発表されたこともありました。年々美しくなってきているので、可能性がとても大きいですね。

■川を挟んで北(右)側には病院や大学が集中しています(地図B⑤)。それは大名屋敷があったところだったからですね。そして左側の駿河台方面には、旗本屋敷があって、やはり大きな敷地がありましたので、今のようなカルチェラタンが誕生したのです。
 現在、都の計画にはお茶の水附近と万世橋附近に船着場のような拠点をつくったらどうかということも研究されているようです。水上タクシーを走らせてはという地元の声もあるようですよ。ベネチアでは水上タクシーは本当に便利で、電話一本で来てくれますし、市民の足となっています。神田川でも実現するといいですね。
 また都の職員の発表によると、物資の輸送も陸上のトラックを使うより、水上のほうがはるかに早く、コストも安いようです。レジャーとして川を利用するだけでなく、産業のためにも川を活用しようという研究が進められているのですね。

■水道橋の手前辺りは、確か子供の頃オワイ(糞尿)を運び出すところがありましたね。水上生活者もいたような気がします。もう少し登ったところに、砲兵工廠(練兵場)があったので物資がどんどん荷揚されていました。水道橋の古写真を見ると、ここらにも料亭があったようですね。船がたくさん入ってきて、江戸時代は重要な河岸でもあったのでしょう。それからもうひとつ、右側の船着場あたりにはかつての伊達藩の原田甲斐がつくったという「甲斐橋」がありました(地図B⑥)。
 それにしても、もっと人が寄りたくなるような船着場をつくってもらいたいですね。水際にもっとお洒落なカフェバーやビアホールができて、堤防が緑化されるときっと人々が寄ってくると思いますよ。

■ここは、後楽橋です。唯一水上と陸の交流がはかれる所ですね。上から手を振ってくれるなんてうれしいですし、ゆとりが感じられますよ。ここは都の清掃局ですね。ゴミを運び出す場所になっています(地図B⑦)。ここから船でゴミを埋立地まで運んでいくのです。神田川ですれ違う船といえばこれくらいじゃないでしょうか?
 さて、これから左へ折れて日本橋川へ入ります。

日本橋川−三崎橋から日本橋へ−

■左側奥の方角には、神田三崎町がありますが、かつては大名屋敷がありました。ここは以前銀座と並んだレンガ街でして、水道橋駅を中心に放射状の街路があって、そこを歩くのはきっと楽しかったことでしょう(地図B⑧)。
■江戸時代の古地図によると、三崎橋から堀留橋付近には掘割がありませんでした。大水が出た時に掘割りがあると、下町が水浸しになってしまう恐れがあったので、もともとあった堀を埋めてしまったのです。でも明治の初めに、やはり船で一周できるようにしたいとの声があがり、再度掘らせたわけです。ですのでこのあたりを「堀留川」と呼んでいました。

■この辺の橋は実際はコンクリートの橋ですが、石橋風につくってあります。伊東孝さんがおっしゃるには、深川、隅田川、神田川そして日本橋川の橋の形式はそれぞれ異なっていて、皇居に近づくほどデザインの密度が高くなっているそうです。

■雉子橋を過ぎると公共的な建物が目立ってきますね。この辺りは江戸城の石垣が残っていましたが、コンクリートで埋められてしまいました。もう少し活かし方を考えて欲しいですね。
 一ツ橋地域は、共立大、一橋大、東大、学習院など大学が生まれました。もとは大名屋敷があった所です。この辺りからデザインの美しい橋が出てきます。これから見ていく橋は、下側にアーチが施されています。構造上の強化をするためにこのようなデザインになったのかもしれません。そして橋で大切なのは、親柱です。その親柱の中には照明が組みこまれて、橋詰め広場と調和したデザインになっていました。
■ここらから江戸城の石垣が見えてきます(地図B⑨・右ページ写真⑤)。喜多川周之さんは、「石垣は呼吸をしている」とおっしゃっいました。潮の干満のおかげで、石垣には空気や水が入っては出ていくことを繰り返していたからでしょう。サワガニも見かけることができたそうです。だから、コンクリートで石垣を固められてしまっては、今のようなお話をしてもなかなか伝わりにくくなってしまうのです。
■右側に見えてきたのが毎日新聞社のビルです。日建設計が設計したこれは戦後の近代建築の代表的作品といえます。垂直の雨樋をそのまま外観の繊細なデザインにしています。白いタワーも印象的ですね(地図B⑩・写真⑥)。
■ここ一ツ橋は、実はコンクリートでできた橋なのですが、丁寧に石を貼って、石造りのアーチ橋のように見せています(写真⑦)。また錦橋も美しいですね。これから先見えてくる橋は、二つとして同じデザインの橋はありません。そして四隅に必ず橋詰め広場があり、トイレなどを設け、緑をとってアメニティ空間にも活用されていたのです。しかし、戦後はそのような一見無駄に見える空間をつくらなくなりました。
以前、頭上を走る首都高速の景観について研究したことがありました。高速道路を使う人だけでなく、高速道路を外側から見た時、周囲の景観とどのようなバランスをとっていくべきか、両方の立場になって考えていかなくてはならないことを痛感しました。今時代はそのような考え方になってきています。
■ 一ツ橋から常磐橋あたりにかけて、特に皇居側(右側)は、官庁の建物、大企業の大きな建物が並んでいるので、水側を意識した空間づくりがおおいに可能だと思います。いいプロムナード(遊歩道)だってできるはずです。新常盤橋は大変格好良いデザインでしたが、新幹線の東京駅への乗り入れの際に残念ながら取り壊され、鉄の橋となりました。常盤橋は、御門の石垣を再利用して肥後の石工(いしく)がつくったそうで、今も歴史を物語る重要な橋です。扇形の美しい姿を見せています(写真⑧)。ここからの日本銀行の眺めもよいですね(写真⑨)。

再生の鍵を握る、日本橋周辺

■いよいよ江戸東京の心臓部分、日本橋が近づいてきました。
明治末に建築家、妻木頼黄(つまきよりなか)の設計でつくられた御影石のアーチ橋で、東京では本格的な石橋は、先程の旧常磐橋と並んで二つしかありません。もともと、橋は水上から見るのにふさわしい正面をもち、美しい表情を水に向けて見せていました。橋の上のブロンズの麒麟の像は、上野の美大で教えた彫刻家の作だそうです。
日本橋
■ 日本橋(写真⑩)は東京オリンピック直前に架かった高速道路の下になっていますが、川底を干してそこに高速を通す代替案もあったわけで、それより現在の方式の方が、近い将来に向けて取り去る可能性があってよかったと思います。
神田・日本橋周辺の空間の再生は、日本の都市の水辺の復権にとって今後も大きな課題なのです。
今日の船下りを、水際の活用方法を考えるきっかけにしていただければうれしいです。皆さん、今日はありがとうございました。

※平成16年11月7日に開催された、「神田川船下り」を再現。

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陣内秀信(じんない ひでのぶ)
1947年福岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科修了、工学博士。イタリア政府給費留学生としてヴェネツィア建築大学に留学、ユネスコのローマ・センターで研修。現在、法政大学工学部教授。サントリー学芸賞、建築史学会賞をはじめ多数受賞。著書に『東京の空間人類学』(筑摩書房)、『都市を読む・イタリア』(法政大学出版局)などがある。
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