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神田資料室

KANDAルネッサンス 71号 (2004.10.25) P.15 印刷用
神田人物誌

中 勘助②

中西隆紀

 勘助は語る。
「私のやうな者が神田のまんなかに生まれたのは河童が砂漠で孵つたよりも不都合なことであった。近処の子はいづれも神田っ子の卵の腕白でこんな意気地なしは相手にしてくれないばかりかすきさへあれば辛いめをみせる。」
 なかでも足袋屋の息子を恐れていた。
 一番好きな所は神田川のふちにあった和泉町のお稲荷さんで、川に石を投げたりして遊んだが、たいていは伯母さんの背中にくっついているような子供だった。
 ここで忘れられないと語るのは麦粉菓子の匂いで、もっと強烈な匂いは少し日本橋寄り、すなわち今の十思公園で、昔小伝馬町の牢があった場所だ。これを子供たちは「牢屋の原」と呼んでいた。
 ここは見世物の幕が張れるほどの広さがあったから、その前にはまた原色の露店が軒を並べていた。サザエの壷焼き、はじけ豆、蜜柑水、トウモロコシ、焼き栗に椎の実なども売っていた。テントにはいろいろな出し物がかかったが、気に入ったのは「ダチョウと人間の相撲」だったというから、やはり泣き虫でも男の子である。
 もう一つの原っぱは今の水道橋駅前にあった三崎町の原で、普段は兵隊が演習などをやっていたが、ある時ここに「チャリネ」が来たのだという。その当時はまだサーカスという言葉を使わなかったようで、日本にやってきた初期好評を博した「チャリネ曲馬団」から「チャリネ」と呼び習わしていたらしい。
 中勘助の魅力の少なからぬ部分は幼児語の妙にあり、その視点にある。三崎町の原ではテントの布からは雨が漏れないということを知った。雨の漏らないテントの中は驚異の連続、なかでも真っ白な顔のピエロがいくつも重ねてかぶった帽子を次から次へ一つずつ投げていくのがお気に入りだった。
 このときの曲馬団は「アームストン」と言っているから、アメリカから来たものか。だから言葉もなまって……「メヒトチュ」と叫ぶ。すなわち、モヒトツであった。この後、「メヒトチュ」「メヒトチュ」を繰り返して遊んでいたのが、勘助である。
中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。著書に「幻の東京赤煉瓦駅—新橋・東京・万世橋」(平凡社新書)。
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