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KANDAルネッサンス 70号 (2004.07.25) P.2〜5 印刷用
特集●神田警察通りを歩く III

小川和佑さんと歩く神田警察通り七不思議散歩

誰にでもある「いつもの道」。たまには気分を変えて路地に入ってみませんか?
そこで出会った様々な不思議を追って行くと、「いつもの道」が、宝の詰まった私だけの「お気に入りの道」に大変身。
今日は、神田と縁のある文芸評論家小川和佑さんと「神田三百年地図」の中西隆紀さんの案内で、七つの不思議を追いかけながら、「神田警察通り」を歩いてみることにします。「いつもの道」の新たな魅力に出会えそうです。


中西 小川先生、こんにちは。今日はよろしくお願いいたします。それにしても神田駅は相変わらず人が多いですね。
小川 こちらこそ、よろしく。では、さっそく七不思議のひとつ目「神田下水」の方へ行きましょう。
小川和佑さん(左)と中西隆紀さん(東京電機大学前にて)
不思議その一
地下に走る文化財。神田下水に潜入!

中西 神田下水は、煉瓦造りの逆卵型というのが有名ですね。下水流量が多い場合は問題ないのですが、少ない時に下がすぼまっている形が有効なのです。水が速く流れる。デ・レーケというオランダ人の指導によるもので、日本人による我国最初の近代下水道。それが百二十年後の今、現役で多町大通りを流れているということになります。
小川 明治十七年。鹿鳴館の時代だね。
中西 そうですね。あともう一つおもしろいのは、ここで使われている煉瓦は形が通常の四角ではなく「台形」。楔(くさび)形という方もいらっしゃいますが、卵形の下水道のために考案されたそうです。
小川 では、それらの大量の煉瓦はどこで焼かれたかご存知?
中西 いやぁ、そこまではちょっと。
小川 東京駅の煉瓦を焼いた所は、日本鉄道(現JR)の野木駅のそばに、もう一つは上尾にありました。その野木村で製造された煉瓦は「乙女河岸」から思川を使って運ばれてきました。秋葉原は昔、駅舎に切り込みがあって、水路が切ってあったのでそこへ船が着いて、東北線で運ばれてきた荷物を船へ移していったわけです。秋葉原はもとは貨物駅でしたからね。私が学生時代の頃も、秋葉原には掘割りがありましたよ。
中西 今は埋め立てられて、入口の水路は公園(駅前広場)になっています。両脇に掘割りの石垣が残っていますよ。
小川 多分、野木と上尾からきた煉瓦は秋葉原から船で運んだのでしょう。
中西 明治は煉瓦の時代でもありました。近代水道のはじまりが煉瓦で、しかも関東大震災を耐えて生きている。そろそろ通称「やっちゃ場」、青果市場があった所が近づいてきましたね。
120年前の時と水の流れを今に伝える日本発の近代下水
不思議その二
一葉も通った青物市場

小川 この辺り(さくら館周辺)にあった青物市場には役所もあって取締りをしていたようです。江戸時代ですから、今はそのような跡も残っていないようですね。
中西 今は神田須田町に「神田青物市場発祥の地」碑があります。青物市場は広範囲に広がっていて自然発生的に店が増えつながっていったという感じ。だから中には青物とは関係なのないお店もあったことでしょう。
小川 一膳飯屋とか一杯飲み屋とかね(笑い)。
中西 あと駄菓子問屋もここにあった。これはまだ調査中なんですが、樋口一葉が仕入れにきていた「神田」、それは青物市場の一角ではないかと私は考えています。わざわざ吉原(現在の台東区竜泉にある一葉記念館辺り)からね。その後、青物市場は巻頭駄震災後、秋葉原にまとめられ、その後は太田に移りました。
小川 樋口一葉が仕入に来ていたくらいですから、この地は江戸から明治にかけて大きなマーケットだったといえます。日本橋の魚河岸に対して神田の青物市場。毎日大勢の人たちが集まるわけですから、江戸っ子の間で喧嘩が起きたりする。その為に役所を置いて治安を維持していたのです。その管理をしていたお屋敷が現在の千代田小学校附近ではないかな。

不思議その三
近代工業科のパイオニアを育てる電機の学校

中西 こちらは、3年後に創立百周年を迎える東京電機大学ですね。小川先生はこちらで兼任講師をしていらっしゃるとか?
小川 そうです。錦城学園のある場所に、電機大学の前身となった電機学校があったのですが、それらは東京帝国大学(現東京大学)出身の扇本真吉氏と広田精一氏が近代化に合った技術者を育成する為につくったのです。それが明治四十年のこと。電機学校は夜学でね、勤労学生達に技術を教え続けました。中央大学(当時は英吉利(イギリス)法律学校)があったところ(現神田警察署の隣)に移り、戦争中に夜学から東京電機専門学校に昇格しました。今でいう職業技術学校。それから、近所(神田小川町)には物理学校(現東京理科大学)がありまして、明治三十九年には神楽坂へ移りますが。北原白秋の有名な詩「物理学校裏」は小川町にあった時代の物理学校のことですよ。
中西 そうそう、この電大正門辺りには神田にとってもう一つ忘れてはならない場所があります。
小川 それが、ここですね。
中西 はい、松本亭という貸席がここにありました。

不思議その四
知られざる奥座敷、松本亭

中西 当時、旗を振り回しただけで逮捕という時代ですが、それが警察署のまん前というんだから「主義者」も剛毅です。明治に入ってから各地に警察が誕生しますが、とくにこの通りは社会主義者の通りという感じさえする。
小川 というのも、神田は学生運動の拠点であったからですね。日本法律学校(現日本大学)や明治法律学校(現明治大学)英吉利法律学校(現中央大学)の学生を呼び込むため、社会主義者が集まってきたのです。
中西 自由民権運動から始まって社会主義、さらに無政府主義を巻き込んで乱立というよりも、女性をふくめ共闘に近かった時代ですね。それを表現できる場所はどこでもいいのですが、なぜか神田なんですね。
小川そうですね。彼らは活動の場(集会場)を求め貸席(当時の集会所)によく集まりました。神田には後世に残る貸席が神田警察署のそばにあったのです。それが松本亭と錦輝館。
中西 神田警察通りと松本亭のことを記した唯一の書籍に『神田錦町松本亭』(川合貞吉著・学芸書林)があります。松本フミの母が始めた貸席で、娘のフミがそれを受け継ぐことになるのですが、援助をしたのが犬養毅だといわれています。また西園寺公望や岩波書店の岩波茂雄がやって来たり、神田の町会の人達が代議士を送りこむ拠点にもなっていた。国の変革をもくろむ憂国の志士たちがこのフミさんの所に集まったわけです。
小川 西園寺さんは担ぎ出されてね。政党の立憲政友会の党首になって、後に総理大臣になった訳ですから、まさにここは政治運動の拠点になっていたのです。
中西 西園寺さんの東京の拠点は駿河台。現在の三井住友海上火災保険がある場所に屋敷があり、その後に中央大学に寄付した。
小川 そうです。そして先ほども言ったように、西園寺邸があった駿河台以前の中央大学は錦町で、その当時は英吉利法律学校といった。この場所に東京電機大学が移ったと、こうなるわけです。

不思議その五
賢治が泊まった上州屋



後ろにそびえる白いビル附近に宮沢賢治が泊まった旅館上州屋はあった。賢治30歳の時、チェロを抱えて上京。神田上州屋を下宿とし、エスペラント語、オルガン、チェロを習い、演劇を鑑賞し、高村光太郎に会う。また、神田YMCAではタイピスト学校へ通っていた。

不思議その六
錦輝館は関東一の映画館

中西 もう一つの貸席に錦輝館があります。その場所は東京電機大学五号館と神田税務署のちょうど中間。これは複数の地図で確認していますのでほぼ間違いありません。
小川 なぜ錦輝館が有名かというと、関東地方で初めて映画を上映したところだからです。明治三十年です。日本で初めてだったのは、神戸じゃないかな。
中西 ごく単純な景色を写しただけの無声映画で、エジソンが発明したヴァイタスコープという映写機で上映された。室内に白い幕を垂らして、そこへ写すわけ。でも映画はすぐに終わってしまって。
小川 私の記憶では、フィルムの始めと終わりをつないでしまって、何回も同じものをまわしていたとか。ナイアガラの滝とか、また蒸気機関車が走っているだけという画。神戸はフランスのキネマトグラフというものを使っていたはずですよ。日本では当時「活動写真」といっていましたね。
中西 そして明治四十年になると技術も進歩して、単なる記録から今日に見られるような劇映画が登場してきます。以後、いよいよ映画専門上映館の時代になっていくわけですね。
小川 だから、錦輝館が本来は貸席、演説会場であったということのほうがあまり知られていないようですよね。
中西 そうですね。錦輝館がさまざまな使われ方をしたのは、貸席料金をいただければ誰でもというところがあったからです。松本亭の場合はあくまで庶民の味方しか受け付けない。フミさんは権力を笠にただ威張っている人間が大嫌い。しかも事情通だから神田警察が情報をもらいに行くわけです。例えば大隈重信襲撃犯なんかが出入りすることもあるのですが、フミさんの手にかかれば「そんな人いましたかね」となるわけです。
小川 警察といえば、明治九年に廃刀令があって、その後明治十四年には警察官も帯刀するようになりましたが、当時の帯刀を禁止されていた失業士族達は、もう一度刀を持ちたいという思いから、警察官に志願した士族が多かったし、事実士族あがりの警察官が多かった。
中西 そうですね。神田警察署は以前、「錦町署」その他に分散していたろ思います。錦町署と錦輝館では過去に大きな事件がありました。明治四十一年の「赤旗事件」です。これは、社会主義者の堺利彦、大杉栄、荒畑勝三(寒村)などが、山口孤剣の出獄歓迎パーティを錦輝館で行った時のこと。この寄り合いは琵琶の演奏や剣舞、講談などもあり、それが偽装なのかはたまた格調が高いのか、そこのところは分かりませんが、宴たけなわの頃三本の赤い旗が突然登場してくるわけです。それぞれ赤地に白く「革命」「無政府」「社会主義」って抜いてある。その旗をかかげて革命歌をうたいながら参加者は今の警察通りに出て歩き出すわけです。ここで旗を下げろ、渡すものかで小競り合いとなる。すでに二十人張り込んでいた警官はさらに三十人増員され、今の学士会館付近で大乱闘に発展します。この事件で堺利彦ら十五人が逮捕され、錦町署に拘引されます。この檻の中で暗に天皇を批評した落書きを壁に書くわけです。これがあの悲惨な大逆事件を呼び込んでしまう。
小川 戦争中などは、映画館に警察がいつもいてね。不適切な場面になると「中止ッ!」と怒鳴って上映を止めてしまうんだ。



不思議その七
現在にも生きる学習院の御門

中西 もうすぐ、この散歩も終わりですね。一ツ橋の通りが見えてきました。改めてじっくり歩いてみるとこの通りは、物事の事始めが凝縮されているような感じもしますね。それからもう一つ、皇居のそばだから、明治十年頃は学習院もここ神田錦町で天覧の開学式をおこなっています。この学習院の鉄門が今も新宿に現存しているというので先日見に行きましたら修復工事中でした。明治十年代の神田が残っていたのですね。それにしても、なぜ、明治初期からこのあたりに学校が多かったか?その端緒は、江戸時代からこのあたり一帯にあった「護持院ケ原」という広大な敷地残されていたからです。福沢諭吉も夜ここを通る時は恐かったと告白しています。
小川 徳川綱吉の母が信仰していた日蓮宗の僧侶隆光の開山した「護持院」があったんです。あの「生類憐れみ令」をつくるきっかけになった所です。それが家宣の時代には破棄されて火除け地になったわけです。
中西 そろそろ如水会館ですね。ここには華麗な旧館ファサード外壁の一部がロビーに展示してあります。それを見ながら、今日はこの辺でお食事をしてお開きとしましょう。
小川 はい、そうしましょう。それにしても神田は話が尽きません。今度は神田川沿いに歩いてみましょう。




小川和祐(おがわ・かずすけ)
文芸評論家。1930年東京生まれ。明治大学卒業。主著に『桜と日本人』(新潮選書)、『東京学』(新潮文庫)その他。現在明治大学リバティーアカデミー、東京電機大学講師。今号より本誌新シリーズ「神田菓子めぐり」に執筆いただいている。
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