KANDAアーカイブ

神田学会
お知らせ 神田資料室 神田マップ 神田写真館 百年企業のれん三代記 神田の花咲かじいさん 出版物紹介 神田学会とは 神田学会資料請求 関連リンク Perspectives in English 神田アーカイブとは リンクについて 問い合わせ

神田資料室

KANDAルネッサンス 69号 (2004.04.25) P.2〜3 印刷用

特集●神田警察通りを歩く II


斎藤月岑生誕二百年記念 神田が生んだ文化人と出会う

神田警察通りに広がる文化の香りを求めて

 
神田警察通りを歩きながら町の新たな一面を発見していく今回のテーマは「文化」。
神田警察通りから外堀と通りに出て、程近い司町周辺へ足を伸ばしてみました。
そこでは、神田が語るべき、文化人斎藤月岑(げっしん)に出会いました。
通りから知る町の歴史と新たな発見。さっそく出かけてみませんか。


特別寄稿

市左衛門と月岑

 加藤 貴(早稲田大学教育学部講師)

 斎藤月岑のことを知らない人でも、どこかしらで、江戸市中の様子を描いた「江戸名所図会」の挿絵をごらんになった方は多いのではないでしょうか。この「江戸名所図会」を完成させたのが月岑なのです。月岑は、雉子町(きじちょう)(現在の神田司町二丁目辺)の名主斎藤家に文化元年(一八〇四)に生まれ、ちょうど今年で二〇〇年になります。
月岑自画像(『神田文化史』より)
幼名をおの三郎といい、家督を継いで市左衛門(いちざえもん)を通称とし、諱(いみな)を幸成(ゆきなり)といいました。文化人として活動する時には、月岑・てき巣(そう)・松濤軒長秋(しょうとうけんちょうしゅう)・白雲堂と号しました。斎藤家は、戦国の雄で美濃国主となり、娘を織田信長に嫁がせた斎藤道三(どうざん)の末流といいます。寛文八年(一六六八)に没した龍貞(たつさだ)の時から、雉子町の名主を勤めたといい、幸成で九代目になります。幸成は二つの顔をもっています。一つは雉子町名主市左衛門としての顔、もう一つは文化人月岑としての顔です。
 幸成は、文化一五年(一八一八)に家督を継いで名主となり、公文書には雉子町名主市左衛門と署名しました。名主とは、町奉行のもとで江戸町方全体を総轄した町年寄(まちどしより)の指示によって、町政を管轄する町役人のことです。斎藤家が管轄したのは、一八世紀前期以降は、雉子町、三河町三丁目・同裏町・三河町四丁目・同裏町・四軒町の六カ町です。名主は、管轄町内から役料を徴集しました。斎藤家では、六カ町から一年に金八〇両二分ほどを徴集しました。現在の金額にすると八〇〇万円ほどです。これから名主の職務をはたすために必要な事務経費、補助員として雇った手代(てだい)の給料などが支払われます。差引でどれだけ手元に残るかわかりませんが、名主は名主役専業で、他に商売を営むことができませんから、これが公的な収入となります。しかし、質屋組合などからの歳募金うぃはじめとする付届が、役料に倍する以上にありましたから、それなりに豊かな生活をおくれたと思います。また、市左衛門は、名主の通常業務とは別に、神田祭礼取扱掛・御青物役所取締役をはじめとしてさまざまな掛役(かかりやく)に任命され、特命事項の処理にあたってもいます。
 
 名主市左衛門が管轄した町々は、筋違橋(すじがいばし)門の南で、通町通(とおりちょうどお)り(現中央通り)の西に位置していて、江戸の中心地域に含まれながらも、中心地域のなかでは北にはずれた場所でした。また、町人地が旗本屋敷などの武家地と接するところでもありました。
そのためもあってか、三河町三丁目には武家屋敷に労働力を提供する番組人宿(ひとやど)が集中し、番組人宿の周辺には、武家方日雇(ひよう)が分厚く存在していました。この武家方日雇は、博打や喧嘩口論だけでなく、さまざまな訴訟をおこし、地域の秩序を混乱させる存在でもありました。そのため、市左衛門は、支配名主として、しばしば困難な事態に対処しなければなりませんでした。明治二年(一八六九)三月に名主は廃止となりますが、その後も市左衛門は添年寄(そえどしより)・戸長(こちょう)・年寄を歴任し、ようやく明治九年二月に公務から解放されます。
 
 文化人月岑についてみますと、国学を上田八蔵(うえだはちぞう)、漢学を日尾荊山(ひおけいざん)、画(え)を田口月窓(たぐちげっそう)に学んでいます。多くの蔵書を集め、名主の多忙な公務の合間をぬって、多彩な文筆活動を行い、時には、公務を手代に任せてさぼり、同役の名主とともに、寺社の縁日や開帳、見世物見物などに足を運んでいます。これは著作のための調査でもあったのでしょうが、月岑は江戸を楽しむ達人であったようです。
 月岑の著作は、出版されたものだけでも、祖父幸雄(ゆきお)・父幸孝(ゆきたか)との三代にわたる著作で、江戸とその周辺の挿絵入りの大部の地誌書である「江戸名所図会」、江戸の年中行事を、季節・月日を追って詳細に記録した「東都歳事記」、江戸市中の風俗や出来事を年表形式でまとめた「武江(ぶこう)年表」、邦楽・俗曲に関する歴史・由来・人物・曲目などについて記載した「声曲類纂(せいきょくるいさん)」があります。これらは、現在でも江戸の地理・歳事・歴史・音曲について知るために、便利な参考書として利用されています。月岑は、明治一一年(一八七八)三月六日に七五歳で没し、浅草法善寺に葬られ、戒名を栖心院(せいしんいん)月岑幸成居士といいます。
 
 月岑は、外出すると料理屋で食事をすることが多く、酒もよく飲みました。天保一三年(一八四二)九月の町奉行所隠密廻りの上申書によりますと、名主市左衛門は、世話掛など掛役に任命されていて、公務もうまく処理していますが、酒が入るとわきまえがなくなり、ふさわしくない言動もあると報告されています。日記にも、文政一三年(一八三〇)三月には、金吹町(かなふきちょう)(現中央区日本橋室町三丁目辺)の料理屋清水で大酔いしてしまい駕篭で帰宅し、閏三月には東湊町(ひがしみなとちょう)(現中央区新川二丁目)名主遠藤七兵衛宅で酩酊してしまい、帰ることもならず泊めてもらったとあります。これで反省したのか、以降は度を越して酒を飲むことはなくなり、節度ある飲酒であったようです。神田に生き、江戸を愛し、酒を楽しんだ市左衛門こと月岑に乾杯!


加藤 貴 早稲田大学教育学部講師 
ページの先頭へ

戻る

ホーム ホーム