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神田資料室

KANDAルネッサンス 66号 (2003.07.25) P.2〜4 印刷用

特集 東京の顔・現在そして未来。
江戸開府400年に寄せて


島崎藤村は、大正2年3月から同5年3月までパリに滞在した。その時の鮮烈な印象を「新奇を競い目先を変えへることの為には、以前の白木屋のやうな立派な江戸風な家屋さへドシゝ倒されて行く東京のことに思ひを比べると、こゝの、町々には実に古い建物までが大切に保存されていて、中には三百年も以前の歴史を語って居るのが御座います。すべての物がよく貯へられて居ます。骨董的でなしに鑑賞されて居ます。」(「平和の巴里」)とのべているが、藤村の指摘は、90年前のこととはとても思えない。
 今回は、藤村の言葉から90年を経た今日、東京で暮らすフランス大使館のフィエスキさんに、外国人の目から見た東京をまた、東京の良さを残している代表として神田神保町について、その秘密を江戸川大学の大内助教授に語っていただいた。


東京が江戸となる日
「各国大使館員日本語スピーチコンテスト2003」より

フランス大使館 政治部 一等書記官 フィエスキ・ファビアン

「花の都」はパリではなく、江戸にある。
「東京が江戸となる日」……「東京が江戸となる日」?
このタイトルを聞いて、「あら、いきなりタイトルを間違えてしまった」、または「違う、違う…『江戸が東京となった日』でしょう」と思った方が多いのではないかと思いますが、予めお断りします‥それに聞こえても、実は間違いではありません。そして、私の話を最後までご傾聴頂ければ、その疑問が払拭されると同時に、この不思議タイトルを通じて皆様に伝えたいことが自ら明白になることを期待したいと思います。
 さて、本年2003年は、実は江戸開府400年であること、皆様はご存知だと思います。折角の機会ですので、現在私たちが住んでいるこの東京において、江戸開府400年という記念はどういう意味を持つのかを、皆様と一緒に考えたいと思います。また、幕末時代に来日したヨーロッパ人の旅行者一人が記したものと私の個人的な経験を繋げながら、江戸と東京との関係について、お話しようと思っております。
 まずは、1867年に江戸にやってきた20歳のフランス人青年リュドヴィック・ド・ボヴォアルが記し残した江戸の第一印象をご紹介しましょう(左記参照)。江戸の町を一望できると言われている場所に案内されて、愛宕山の辺りに辿り着いたド・ボヴァルは、次のように述べております。

《La voila' devant nous la ville des jardins et des palais. Elle s`e'tend comme un parc immense, don't l'oeil ne de'couvre pas les limites;elle est baigne'e par la mer, traverse'e par un fleuve,et pre'sente.gra^ce a' ses trente collines,un spectacle vraiment unique dans le monde》*
*
「見よ、我らの目の前に広がる庭園と宮殿の町を。行き着く先が見えないほど広大な庭園のように広がっている。海が押し寄せ、河が横切り、30もの丘があり、まさに世界に二うつない光景である。」


 日本でパリは「花の都」だとよく言われていますが、当時のヨーロッパ人の目には江戸こそ「花の都」に映っていたといえるのではないでしょうか。その緑豊かな町は江戸の風景画です。
 現在、パリのマレ地区や京都の祇園を刊行する人は、旅行者が100年前に見た風景とそれほど変わらない町並みを散歩することができますが、東京の場合はいかがでしょうか。江戸の原風景が今でも眺めることが出来るのでしょうか。
 初めて日本に参りました時にド・ボヴォアルが眺めた江戸を探して、私も愛宕山の辺りへ行ってみました。驚いたことに、そこは今でも大都会となった町を一望できる場所です。実はド・ヴォアルが150年前に立っていたその小さな丘には現在、東京タワーが立っているからです。一番上まで登ってみますと、今でも東京湾、その奥に房総半島、または富士山や地平線まで広がる関東平野が見えます。しかし、その大部分が緑ではなく、コンクリートとアスファルトに覆われているのです。
 勿論、私は「花の都」江戸を「コンクリートの迷路」東京に変えた日本人を責めるつもりは全くありません。関東大震災、東京大空襲、高度経済成長に伴う首都機能の強化等、町の構造及び風景の凄まじい変化には様々な理由があり、また必然的なところもあったのではいかと思います。しかし、その結果、ド・ボヴァアルが描写した江戸の風景画が塗り潰され、もはや「江戸」という町は記録の中と僅かな面影にしか存在していないのです。
 その失われた江戸とは対象的に、私が見た東京は活気に溢れていて、圧倒されるほどの存在感がありました。足の下を走る地下鉄といい、頭の上を通る首都高速道路といい、または新宿や渋谷の駅前で身のまわりに擦れ違う人々の流れといい、近代都市東京は各瞬間に私の感覚に対してその存在をしつこく主張していました。間違いなく、東京という町は江戸と異なって、実在していました。
 その後、3年間に及ぶ東京での滞在を経て、フランスに帰国することになりましたが、その時、久しぶりにパリに住むことになりました。フランス人は「パリは不滅である」とよく言うのですが、久しぶりに帰ってみますと、その意味が分かる気がします。時代が変わっても、パリはなかなか変わらない町です。そのため、3年、4年、5年もパリから離れたといって、帰る時にパリは全く新しい様子を見せるわけではないのです。自分が好きであった場所も、嫌いであった場所も、パリはそのまま温存してくれるのです。
 では、東京の場合は如何でしょうか。私は一昨年、5年ぶりに東京に戻ってきました。しかし、その時は「この町は本当に東京かな」とふと思いました。なぜかと言いますと、私がよく通っていた場所が既に消えていたり、名前も聞いたことのない界隈がいわゆる「はやりの町」になっていたりして、また、それまでは殆どなかった「高層マンション」等の登場で、町のスカイラインまでが豹変していたのです。つまり、私の知っていた東京の一部は既に、この世の中からは消えて、私の記憶の中にしか存在していなかったのです。
 記憶というのは、哀れなものです。先程、パリについて「不滅である」という言葉を使わせていただきましたが、我々人間に関して言えば、残念ながら、不滅であるとは言えません。そのため、舞台を降りる日が早かれ遅かれ訪れますと、それまで私たちの中に生きていた記憶も一緒に消えていきまして、残るものは、書いた文章、撮影した映像、録音した音等という記録なのです。言い換えれば、私たちが今知っているこの東京も時間とともに、実在する町から、少しずつ私立ち退き置くの中に宿る町となっていき、そしていよいよ、僅かな面影と私たちが残した記録の中にしか存在しない町になるのです。その日、我々の東京は一つの江戸となるのです。
さて、話は終わりに近づいて参りましたが、皆さんと一緒に次の問題について考えてみたいと思います。50年後なのか、100年後なのか、私には予測できないのですが、2003年の東京が私たちにとって江戸のように、未来の人々の目には、江戸開府400年の時の東京いうのは、一体どういう風に見えるのでしょうか。先程申し上げましたように、ヨーロッパの旅行者が残した記録の中に、幕末時代の江戸は「花の都」として残っております。2003年、そしてこれから何十年間の東京に関しては、記録の新しいページを書くのは、私たち全員です。私たちの時代の東京に関して、一体どういうような記録を残したいでしょうか。それで、その質問に答える前に、まず私たちはどういう町を作りたいのかを考えなければならないのではないでしょうか。
 勝手ですが、最後ですので、一つご提案申し上げたいと思います。
江戸開府400年を機に、東京の近代化機能を更に発展させながら江戸の豊かな自然環境を再現させる、「夜は虹色のネオンが輝き、昼は無数の花が咲く」都をこれから作ってみませんか。

「風土の異なった吾国へ欧羅巴風を移植するといふことに就いては、余程考へて頂かなければ成るまいかと存じます」  島崎藤村(「平和の巴里」より)

 「バブルがはじけても神田は変わりつづけた。地上げで虫食いとなり、最近では神保町一帯に超高層のオフィスと住宅のビルができた。都心の宿命かもしれない。しかし誰かが記録しないと、そこに前に何があったかさえ、記憶の中からぬけ落ちてしまう」  森まゆみ(「神田を歩く」より)





フィエスキさんが神田にやってきます!
10月に神田学会にてご講演をいただきます。ぜひ、お越しください!
日時:2003年10月中旬(予定)18:30〜
場所:千代田区内神田1-16-9 2Fハーモニーホール
お問合せ:NPO神田学会事務局 TEL.03-3259-4550



フィエスキ・ファビアン
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