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神田資料室

KANDAルネッサンス 61号 (2002.04.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館21

日本初の河底トンネルで美声に翻弄される

中西隆紀 

 銀座線神田駅手前。暗い地下鉄道に一瞬戦慄の視線が飛んだかに見えた。「次はかんだ〜。次はかんだ〜。お降りの方は後ろの改札をご利用ください」。
 何と女性の声であった。それも清流が白砂を洗うように、さらさらと美しい。しかもこれは集録済みテープの声ではないらしい。とすると、車掌は…、生身の女性か…。
 普段耳にしている男性車掌の、あの退屈を押し殺したような奇妙なイントネーション。それもたまに停車駅アナウンスをトチる。そのあげく、失礼いたしましたの実感に底が抜けている。改札も自動化でニンマリし、これでは、電車社会にへばりつくミンミン蝉。
 重量級鉄輪を守る現場は、律儀ではあるがむさ苦しい男社会とばかり思っていたのに、言ってみれば、それだけでも驚異だったのだが、その声は美しいばかりではない。自己抑制を背にした沈着さというものまで感じさせたのである。これを言い過ぎと言うなら、運員を十倍払ってお釣はいらない。日常の美しい一声は千万言にも代えがたい。それが何と暗い銀座線にあり、こうして幸せな一日が始まろうとしていた。
 しかし、こちらは美声に羽交い締めされた形で、はしなくも、終点までの道をすでに夢想していた。過誤はまさに現実のものとして逼迫していたのだ。しかし約束の時間はせまり、無念極まりないが次の末広町での下車は必至。孤立無援の態なのである。そして、さっさと降りろと言わんばかりに非情なドアは静かに開くのであった。
 再び浅草方面へとホームを加速する電車。それを横目で追うと、やや大きすぎる制帽が半身になって颯爽と最後部に貼り付いていた。確かにこれはミンミン蝉ではない。重量級職務はこうして軽量級が重量級車体に張り付く形でまさに全うされていたのである。やはり小柄な女性であった。そしてあの声は車内に爽やかなシトラス系の風を呼び込んだまま、再び暗いトンネルの中へ名も告げず、上野へ浅草へと自らの姿を消していきつつあった。
 声だけで感激している男も何だか情けないが、いったいこの女性の慎ましさはどこから来ているのだろうか。鉄道という職業は危険と隣り合わせ、乗客の安全確保が至上である。言ってみれば鉄道は昔から男性社会の権化でもあった。ここに女性を投入した地下鉄重役の慧眼に賛意を表したい。

 地下鉄銀座線は光栄ある東京初の地下鉄でもある。その創設早川徳次を追い出したは五島の社長だが、まあこの件は本題からずれるのでひとまず置くとして、日本で最初の鉄道は、誰でも知っているあの「汽笛一声新橋を」の新橋—横浜(桜木町)間。東京駅の場合、最初から核となるセントラル・ステーションとして、東京の真中にあったわけではなく、新橋—横浜のように鉄道は都市周辺部からつくられていった。
 何と東京駅ができたのは「汽笛一声」から半世紀近く経った大正3年のことである。その半世紀の間に都心の交通網は変転につぐ変転を繰り返し輻輳(ふくそう)していた。
 神田はいうまでもなく都心中の都心だから、人力車、馬車鉄道などは当然郊外よりもかなり早い時期から人々の足として市街各所に網羅されていった。しかし、蒸気機関車の鉄路は別だ。神田に蒸気幹線鉄道が敷かれたのは新宿、渋谷、上野など周辺部から比べればかなり遅かったのである。新宿、渋谷、上野に駅があって神田には明治の半ばまで駅がなかった。そんな時代があったのだ。遠方まで行くための蒸気鉄路の場合は、用地買収の困難さなどから都心部は最後の最後まで空白地帯としてなかなか手がつけられなかった。
 神田という都会に白い煙を吐く蒸気機関車がやって来て、初めて停車した駅は秋葉原。神田で最初の幹線蒸気鉄道駅は秋葉原駅であったのである。
 それまでの北の玄関口は上野駅。ここから南へ1.9キロ線路を延伸し、明治23年11月1日神田佐久間町河岸に最初は貨物専用駅として誕生した。つまり最初は上野終着駅の貨物部門専用駅としてのスタートだった。だから列車はすべて貨車。
 そして、それがなぜ神田佐久間町河岸かというと、その荷物を神田川の船に載せてさらに東京各問屋へ運ぶためであり、今でいえば宅配便に当たるのが、神田川やその他の運河に浮かぶ船だったのだ。
 したがって、秋葉原駅には開業と同時に屋根付きの貨物積卸所、貨物貸納屋が設けられた。そしてさらに、神田川から船を引き込む運河を新設して、秋葉原駅横の地面を四角く掘り割り水を引き、大きな船溜を作り上げた。
 つまりは秋葉の港なのだから、「秋葉湊」といったほうがわかりやすいと思うのだが、当時は「秋葉原船溜所」とか「神田川河岸荷物揚場」などと呼んだらしい。ここに運搬船がやってきて使用を開始したのは3年後の明治26年5月であった。
 当時の地図を見ると、秋葉原駅構内から「秋葉湊」の水際に小鉄路をさらに引き込み一周させて積み下ろしの利便を計った様子などが一目でわかる。

 この頃、神田駅(大正8年3月1日開業)、お茶の水駅(明治37年12月31日)、水道橋駅(明治39年10月24日)などの神田各駅は影も形もまったく見られない。それと忘れてはならない今は幻の万世橋駅(明治45年4月1日)を追加してこれを総合すると、神田での駅開業順位は次のようになる。
 1.秋葉原駅、2.お茶の水駅、3.水道橋駅、4.万世橋駅、5.神田駅となり、江戸以来最も繁華であった神田駅周辺が最後まで取り残されたことがわかる。
 その前には何もなかったのかというと、そうではない。「蒸気幹線鉄道」と言ったのは以前から都心にあった馬車鉄道に替わって登場する街中を走る路面電車と区別するためだ。都心を巨体の蒸気機関で走る幹線鉄道は、路面の上にレンガとコンクリートを積み上げた路面を見下ろす高架専用軌道として建設されていく。
 元万世橋駅のあった今の交通博物館は周辺は、博物館の外にも見所がいっぱいある。というよりも、この博物館は現在でも稼動している生きた鉄道遺産に囲まれているといったほうがいい。これほど各線が東西南北に入り交じり立体的に交差する地帯は都内でも珍しいといっていい。
初の革命的曲線「万世橋架道橋」
 その稼働中の鉄道遺産のひとつが「万世橋架道橋」である。秋葉原中央通りから神田川を渡ってすぐに上を見上げるとこの鉄道の橋がある(交通博物館横)。
 この鉄橋は見上げると分かるが、曲線でできている。高速道路など、曲線の橋は今では珍しくも何ともないが、当時は大変なことであった。鉄橋はすべて直線であったのだ。
「橋梁について特筆すべきは、黒田武定技師の設計になる万世橋架道橋の曲線用鈑桁である。当時まで橋梁中に曲線が入るのがきらわれ、わざわざ前後の線形を変更して橋梁は直線としたものであったから、黒田技師の考案は路線計画に一革命をもたらしたものであった」(「東京駅誕生」鹿島出版会・第三部)。また「日本の近代土木遺産」(土木学会)によれば、これは「日本初の曲線桁」(昭和3年)であり「戦前の鉄道鋼PGとしては最大級のスパン」であるという。日本初の革命的曲線橋梁「万世橋架道橋」は博物館横にあった。
              

ダイナミックなプリン型。総武線「神田川橋梁」
遠景聖橋下を丸の内線が走る。(昌平橋より)
 また、昌平橋横上をダイナミックに通過する総武線「神田川橋梁」(昭和7年)、これが神田川をはさんで、お菓子のプリン型を思わせる「ハ」の字の橋脚で線路を受けて、神田川をひとまたぎする雄大な構造である。これを昌平橋橋上からお茶の水・聖橋方面へ向けて、神田川を下に眺める景色はまた実にスペクタクルである。
 遠くに聖橋、その下のさざなみに春風が渡る神田川水面近く、左右にトンネルが黒い口を開け、その間を赤い地下鉄丸の内線が顔を出す。そしてすぐさま、またトンネルへと吸い込まれていく。これは実際に乗っていると実に一瞬のことでしかないが、地下のモグラが陽を見る一瞬である。これは地下鉄が川を跳躍するのであるから、設計した本人もデスク上の飲みかけのコーヒーを置いて「ファンタスティック」と叫んだかもしれない。位置的には聖橋の下であり水面の上、まさに船の位置という妙味あふれる構成となっている。さぞかし楽しかったに違いない。

「HARKORT」の銘板
 そしてもうひとつの目玉は川の底を通過する「日本初の河底トンネル=神田川トンネル」である。その河とはもちろん神田川であり、先の丸の内線とはまったく逆に神田川の底を通過する地下鉄であった。その位置はまさに万世橋の真下である。これは、先日、女性車掌の美声に翻弄され、つい乗り過ごしそうになった銀座線。これは万世橋真下を通過していた。そうとも知らず、車掌、乗客ともども男の単純さはどうにも救いがたい。
 この工事は何と神田川をせき止めて敢行された。神田川を締め切って横に底を開削、上に架かる万世橋とがちり重なる構造で、橋とトンネルが一体となって建設された。昭和6年のことである。
 また、昌平橋の昌平橋架道橋の鉄材を製作したのはドイツの会社であるが、その名前「ハーコート社」が今でも橋の側面にプレートとして刻まれているのを見ることができる。当時の九州鉄道がドイツ人技術顧問にヘルマン・ルムシュッテルを起用したことは良く知られているが、後には東京の高架鉄道とも深い関係にあるので、おそらくこの辺りから発注されたのであろう。
 とすると、ドイツ製は橋梁の「ハートコート」、そしてレールは「ドルトムント・ウニオン」だから、「ウニオン」と書かれたレールを今でも都内で見付けることができるかもしれない。
 何しろまだ国産の本格的な鋼材はなく、つまり八幡製鉄所がまだ完成していない。そうした時代の遺産は今も稼働中である。
中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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