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神田資料室

KANDAルネッサンス 58号 (2001.07.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館18

酒場の片隅で、平賀源内の風を聴く

中西隆紀

 神田の舗装率は都心だから露地といえどもほぼ100パーセントと思っていたら、駿河台下三省堂書店裏にまったく未舗装の道路が15年程前まであった。雨がふると小さな水溜まりが二、三個出現し、足下の地下にもうひとつの店の看板を映しては、雨が止むとシャボン玉のようにまた消えた。
 三省堂書店の裏とはどこか。表とはどこか。入口は実は三つある。裏を返せば出口が三つあるということなのだが、当然靖国通りに面した正面出入口がいちばん大きい。そして次に木陰がすずしいすずらん通り口。そしてもう一つが、三省堂がお座敷なら御用聞きの通用門にあたる勝手口。これは泣いても笑っても相応に小さく、裏口には違いないからややひっそりとしたおもむきで開いている。横で守衛さんが守りを固めている社員通用口兼用なのだが、社員以外のお客様も通行自由というところが心地よい。永田町の首相官邸や大手町ビジネス街にはない庶民街独特の風通しの良さが神保町の身上である。この裏を出ると、知る人ぞ知る、「ミロンガ」「ラドリオ」の細い詩人通りの露地に通じていて、たそがれが迫る頃ここを出るといきなり赤提灯が眼前に飛び込んでくる。
 これが「兵六」という酒場で、水溜まり、および掃き溜め詩人通りの取っ付きにあたっていた。
 三省堂の閉店は7時半。この頃になると、この破れ提灯の中で酔客ががなり立てる声がかまびすしい。なにしろ、この店「兵六」は、先代主人の意向により電話はもちろん、冷暖房も置かぬという根拠のない理由から、戸口といい窓といい、夏はおもいっきり外に向けて全開というところが新鮮であり、こういうところが終戦直後からの止むに止まれぬ伝統であったらしい。何のことはない、オープン・カフェという形態は昔からあったのだという言い方もできる。
 そういうわけで雨の日は雨の音を、風の日は風の音を聴く風流人がいてもおかしくないということになるのだが、このあたりも時勢の流れでIT「チャット(おしゃべり)」の時代、今昔で様相が急変したといわれる。つまり、昔は風の音を聞く楽しみもあり、今は浮世の戯れ言を交わす楽しみもあるというわけで、オヤジさんの声が聞けなくなった以外の急変は、私にとって何の意味もない程オヤジの存在は大きかった。
 私自身は25年近く通っているが、その頭初からオヤジは老人で、弱年者をひきつける不思議な明治人の魅力を持っていた。その魅力は何かと問えば、「チャードーフ一丁」という「炒」でいためた豆腐料理の注文を奥に伝えるオヤジの美声だとたいていの人が答える。昔を語る人はたいていそうだ。「近くまで来ると表通りまでこの張りのある声が聞こえた」という話はただ窓が開いていたという事実だけでは伝説にもならない。そしてついに、オールド・ファンがその声と語調を「金声玉振」と称して額に祭り上げてしまった。私が通うずっと以前にすでに伝説が定着していたわけだが、ここには風鈴売りの声のように当然何のうんちくも説教も誇張も含まれてはいない。ただ、あの声の質といった無形のものが多くの人の耳の底に残ったということが私にはうれしい。

 そういうわけで、昔は老齢の方をよく店内で見かけた。たまにある時ふと里心が湧いてきて、昔店内でよく見かけたこうした光景にあこがれることがある。それはたいてい天候も温順な日で、店も珍しく空いていて、そこに名もなき老朽船の「きゃっぷてん」がぽつんと一人で酒を肴に停泊しているというような光景である。
 混んでくるとどうしようもないのだが、昔も今も店を開けたばかりのはなの時間がいちばん静かだ。近頃もそんな時間にはめったに顔を出さないが、まだ外が明るい時間に出勤したある時、泰然として猪口を傾ける一人の老人に出会った。美しい泰然には差別的な距離感がない。老人イコール若者といった年齢的時代的距離が消えていくのだ。おお、これこそ昔の風景だと思わせた。神田にお住まいだというので横で神田の話をした記憶があるが、私の場合とは極北にあり、必要以上を過剰に語らない上品さは「兵六」のオヤジを連想させた。
 それからしばらく経って、店の真人君に聞いた話にとても興味を覚えた。「あの方は週に一回見えるか見えないか、それも早い時間…」ということらしいのだが、聞くところによると御老人は平賀源内の話をしていたというのだ。
 実は、店のいちばん奥のカウンターに私が発行する神田貼り混ぜ地図が見本として置いてあり、その1集には源内の神田を取り上げている。これをたまたまご覧になって「平賀源内はね、鍛冶町だけでなく他にも特定できる場所があるんだよ」とおっしゃっていたというのだ。

 エレキテルでおなじみのあの源内と神田は切っても切り離せない。その話をぜひお伺いしたい。そう伝えてほしいと言ったところ、一枚の返書が戻ってきた。見ると、お名前は奥村正二、産業考古学会が主催する講演のメインゲストとなっていた。こういうことを露知らず臆面もなく会話できるのが、極北にある私と居酒屋の良さでもあり、あつかましさでもある。次の日曜日に上野で源内のことを話されるというので、この御老人に再び会うべく、日曜日、上野の科学博物館へ行った。産業考古学会というのは昭和52年に誕生したばかりの一般にはいささかなじみの薄い学会ではあるが、考古学といっても近現代に焦点があたっているのにも理由がある。具体的には分科会の名前をあげると分りやすいので、列記すると、映像記録、航空、工作、鉱山・金属、産業建築物、自動車、水車と臼、繊維、鉄道技術史、電気、農業、木工、用水・治水、理論・情報といった分野が現在ある。こうした産業を支えてきた過去の遺産を評価し伝えていこうということであるらしい。ここでトリを務めたのが学会の顧問奥村正二さんであった。満場の拍手を背にステッキもなしに壇上に上がられたそのお顔は、まぎれもなく、先日「兵六」の片隅の丸太椅子に座っておられたご老人その人であった。
「先程紹介くだすった方が90とおっしゃっていましたが、実は私は89。1歳も若い。この1歳の差は大きい」。こうした前置きに聴衆は急になごやかな笑いに包まれた。
「私の話の持ち時間というのもこれを見ると30分ということになっていますので、途中で終わってしまうかもしれない。だから結論から先に言います」。
 結論の先延ばしや紋切り型の話。こういうものに聴衆はいつもうんざりさせられていることなど、先刻承知といった老人の歯切れの良さ。
「今日お話する平賀源内のことで、私が言いたいのは田沼意次の時代は当時の学者にとって恵まれた20年であったということです。この20年に注目する必要がある。そしてそこに源内がいたということです。それまでは手作業の技術があったのですが、そろそろ時代は新しい展開を求めていた。そしてこの20年、源内は神田界隈に住み新技術創出に尽力した。最初に住んだのはJR神田駅に近い白壁町、そしてここが湯島で開かれた物産展の本部になった。しかしここも目黒の大火で焼けて、今度は現在の岩本町近くの千賀道有屋敷に居候する。道有はお抱えの医師で、田沼と源内両者の仲立ちをする。こういうことが新技術創出のためにとても重要であったということなのです……」。
 こういう方に出会える機会を持てたということは実に幸せなことである。聴衆の目は奥村先生にくぎづけであった。

 今までこうした老人に私は幾人か出会うことができた。
 寸鉄人を切る辛口評論で今や若い人の間で有名な老人、作家山本夏彦氏のオフィスに予約もなくお邪魔して、お会いしたのは2年前。「室内」編集長現役である氏は年若い男女スタッフから程好い距離を確保した紙屑に埋もれた虎ノ門のデスクに下半身を浸して、いきなり銭湯に現れた裸の闖入者同然の私に、臆することもなく心良くお話していただいたことを思い出す。
 調子に乗って、歯切れの良過ぎる若者や中年には閉口することも多いが、老人の場合は「過ぎたり、及ばなかったり」するということがない。程よいのだ。そしてその後には、必ず爽やかな明るい風がふく。酒場にはだから私のような中年は似合わないのである。




中西隆紀  フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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