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神田資料室

KANDAルネッサンス 58号 (2001.07.25) P.3〜5 印刷用

特集 関東大震災から学ぶ

それは、町を愛しているから・・・
大火から免れた町〜神田佐久間町周辺


 大正12年(1922)9月1日午前11時58分。関東地方全域を襲った大地震により、東京下町はほぼ全滅。その決定的な要因は地震後に発生した火災による被害でした。焼失戸二三万六(百?)四十二戸、十万人規模の死者を生じさせた大火災。一三六件いう多数の火災発生は震災による水道断水により防御は困難を極め、消防車も追いつかず、猛火は消防士の命までも奪っていきました。
 被害状況図を見て分かように、火は風の流れと共に行く手を広げ、神田の町を丸三日かけて焼き尽くしてしまったのです。
 明治以降最大とされるこの災害は、様々な理由が重なって引き起こされたと考えられます。まず、空地の面積が極端に狭く、乱雑で無統計に傍聴した東京の都市計画。家屋の大部分が木造という燃えやすい条件。次に地震発生時刻が昼食の支度中であり、また東京地方には南または南東の風が10〜15mも吹いていたこと。最後に消防施設の不備が挙げられます。当時は東京全市におけるポンプはわずかに二五台にすぎず、地震によって水道管が破壊され、ほとんどの消火栓が断水してしまったのです。
 逃げ惑う住民達。しかし、その中で必死に消防活動に努め、外神田の一角と、和泉町と平河町とには一戸の焼失家屋も出さず、佐久間町松永町の残存家屋を併せて、一六三十除(余?)戸の一大区域を残存した偉大な功績が残されています。
不眠不休の36時間
「逃げるよりこの火を消そう」
 地震発生後、南方神田川対岸からの猛火に対し、町内住民老若男女が集まり戦い始めました。おりからの南風にあおられる火を前に人々はバケツリレーで消火活動に取り組みました。商売屋が多く、井戸があったことが幸いし、さらに神田川沿いにあった米屋河岸に並んだ米倉が防火壁の役割りを果たし、多くの住み込み職人のおかげもあって火を消し止めることができました。このとき燃えなかった米倉の約一万四千俵の米は、その後市民最初の食料として配給される米となりました。
 一安心するのも束の間、一日の夕刻から夜にかけて西方秋葉原駅方向より猛火に向かい、ほぼ夜九時消し止めました。度重なる火災に立ち向かうにつれ人々の間には、自信と強い結束力が出来あがっていきました。
消火活動は翌日二日の明け方、東方浅草区向柳原方面から襲ってきた火災におよび、ついに三日の午後二時ころ北方下谷方面からの猛火に対し、住民は午前二時頃まで消火活動に取り組みました。
 四方から火に襲われたものの、こうして佐久間町二丁目、同三丁目、同四丁目、和泉町、平川町の全部と松永町の一部、そして下谷区御徒町一丁目のごく一部あわせて一千六百戸。
その他病院や佐久間小学校、米穀倉庫などが焼け残ったのです。その時間三六時間。いくつかの好条件が重なったものの、住民の必死な消火活動は町を守ったという事実に裏づけされた通り、自立したコミュニティとかたい結束力を多くの人々にアピールすることになりました。昭和十四年、東京府は佐久間町一郭を「町内協力防火守護之地」として史跡に指定。国定教科書修身科の教材ともなりました。現在佐久間小学校には記念碑があります。



・積極的に消火活動に参加した田中三九郎さんの功労をたたえ、大正12年9月15日、神田川自警団より感謝状が送られました。田中さんの美績は大正大震災火災帝都復興記念『神田復興史並焼残記』に記されています。
・右上に残っている白い四角が焼け残った一角。猛火は直前まで襲ってきていました。
下町の大部分を焼き尽くした震災の猛威を教訓に、復興事業では道路拡張や町割の再編、町名の変更などそれまでの町並みの概念を一新させるものでした。
・かつての安政の大震災の時もこの一角は火災を防いだ地域でした。そしてその教訓は関東大震災でも生かされることになりました。
人々は並ならぬ結束力とコミュニティを確立しましたが、その力も戦争による空襲には打ち勝つことができませんでした。
・神田川を乗り越えてきた猛火をさえぎった米穀倉庫が壁のように並んでいたという。現在は神田川を背を向けた形でビルが連なっている。

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