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神田資料室

KANDAルネッサンス 56号 (2001.01.25) P.2〜5 印刷用

特集 よみがえれ!天下祭

 江戸の町がなにやら騒々しくなってきた。
 橋詰に人が群がっている。
 瓦版売りだ。
 手に持った「附け祭番付」が飛ぶように売れている。
 「今年はいってえ何が出るんだい」
 覗き込んだ男に「そりゃ、買わなきゃ分からねえ」
 横から男が「前は、鼻の長い天竺の山みたいな化け物が歩いたっていうじゃねえか」と割って入った。象が登場した年の祭の話をしているのだ。
 天下祭は最大かつ江戸の活力を象徴する祭だけあって、毎年その最新の話題が登場する。
 御輿を中心に40台近い巨大な山車。それを縫うように付随するのが流行の練り物だ。
 今年はいったい何が出るか。順番はどうなっているのか。だから絵解き「附け祭番付」が飛ぶように売れる。

 天下祭とは何か。まず錦絵を見て驚かされるのが林立する「山車」の豪華さとその数。これを見て京都の祇園祭を思い起こされる方がいても不思議ではないが、山車はいずれも江戸型であり、江戸型山車の構造の秘密は背景の江戸城と関係があった。
天下祭の神幸行列は産土の町を練るばかりではない。何と江戸城の城門をくぐり、普段町人の立入りなどとてもかなわぬ禁忌の地へと繰り込んで行くのだ。
山王権現と神田明神、つまり山王祭と神田祭にのみ、城内将軍上覧所経由が許可された。この時ばかりは将軍も町人も一体となって祭の高揚を謳歌した。天下祭の名の由縁である。
 ところが問題がひとつある。田安門から入るのはいい。しかし巨大な城門といえども、くぐりの高さはたかだか約5メートル。山車の大きさはそれをしのぐのだ。そこで考え出されたのがエレベーター方式。城門をくぐる一時、人形を下層に収納できるカラクリが考案された。城門をくぐることのできる天下祭山車。これが江戸型山車の基本となる。

 このように、この頃の祭は氏子各町にとっては山車が中心で、各町は競って豪華な人形山車を作り上げていった。それらは皆、鍛冶町の小鍛冶など、町独自の物語を含んでいる。
 行列は神社御輿を中心にして、山車は一番・大伝馬町の「諌鼓鶏」を先頭に、飾馬長柄の列、練物、踊り屋台などの他に附け祭が時の祭を盛り上げる。つまり、伝統の山車、御輿に最先端の流行物が参入して人気を倍加させたのだ。
今は武蔵野でも、祭だけは欠かせねえ
 祭は世相を反映する。景気のいい時には豪華に、また、江戸を度々襲った大火の例でも。災禍にもめげず準備が整いしだい祭は挙行されたが、山車まで焼いてしまった町会はどうするか。取りあえず「武蔵野」という山車を出すのである。造花であつらえたススキと月。「我が町会は今、武蔵野の原のごとくに貧窮しておりますが、何を置いても祭だけは捨てられねえ」という将軍への宣言でもあり、武蔵野の山車が数町に及ぶと将軍ともども、これでなるものかと大江戸再起を確認し合う機会でもあった。
町神輿が主流となったのは都会事情
 江戸では神輿は御神体を乗せた神社神輿(宮神輿)のみ。各町会は山車で競いあった。
 それが町会ごとの町神輿に変化した第一の契機は明治維新。将軍は去り、当然天下祭の皇城への練り込みは禁止。新政府は「徳川色」を排除しようと「山王権現」は「日枝神社」に、また、「神田明神」は「神田神社」に改名、将門を祭神から外すなど圧力をかけたが祭は続行。しかしやがて、電線や交通事情の変化に山車の運行が阻害される状況も生まれてきた。ただ展示されるだけということも多くなり、関東各地へ山車が身売りされたりして流出していった。そうした昔神田で運行された山車が改造された形で今、関東各地で見付かっている。
 第二の契機は関東大震災。残った山車もほとんど焼失してしまう。そこで、山車に代わって都会事情に合った町神輿(宮神輿に対して、町会ごとの神輿)が主流となって現在に至っている。
 関東各地に残る江戸型の山車。そして江戸庶民総員を巻き込んだ「天下祭」の物語性と伝承。今二十一世紀に我々は何を伝えていくべきだろうか。
*資料提供・協力/田畑秀二・山瀬一男・清水祥彦・東京都立中央図書館


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