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神田資料室

KANDAルネッサンス 55号 (2000.10.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館15

神田双輪倶楽部をめぐって【前編】

——風は見た…自転車は人間に最も近い不滅の器械である

中西隆紀

 風に乗って風を起こす、風と戯れる不思議な乗物「ウインドサーフィン」。昔。これにあこがれて湘南の海へ行った。
 浜の風はいつ来ても頬に向かってやってくる。顔でもなく髪でもない。どういう訳か昔から両頬だ。そして浜風はそれがどこの浜であっても、姿は見えないが揺すると引き出しの奥でガラガラ鳴っている遠い昔遊んだビー玉のような音を出す。
 小学生の頃、馬乗りという遊びがあった。一人の子どもが樹、または電信柱を背にして立ち、四、五人がそれぞれ股に首を突っ込んで馬の背になる。その背の首をめがけて一番手、二番手、三番手が次々に助走をつけて襲い掛かる。跳ね上がって思いっきり上から体重をかけるのだからたまらない。一番手、二番手、三番手…。波を見ているとあれを思い出す。波が海風とともに浜に寄り掛かっては消えていくように、次にめんこがパラパラと散り、馬乗りでつぶされた五人分の男の子のウェーという悲鳴が波間に聞こえ、薄闇にコウモリが跳梁し、やがて大昔と同じ夕焼けが帝王のごとく海に出現し、眼前から耳の奥にまで赤く広がってゆく。
 海はいい。そして風は絶えるということがなく、時空を越えた唯一の生き物とさえ思う。もしも生物の終焉がやってきたとしても、海の風は変わらず吹いているに違いない。
 この風を利用して自ら独力で風を巻き起こすのが「ウインドサーフィン」なのである。と、そういう能書きだけで満足していれば良かった。しかし、はやる心は早くも予約の電話を入れてしまったのである。
 ここで海岸横の塩にまみれた一日スクールに入ったわけだが、情けないことに、実地半日の成果はわずか一回、ほんの一秒ブリキのロボットが波の上に両足を突っ立てて「オー地平線が見えた」と叫んだだけで終了した。後はまるで、波間に揺れるボードの上のピンポン玉状態。這い上がっては瞬時にして海中へ消え、また上がっては叩き落とされる。こうした涙ぐましい苦難の連続は、これで一生分の不幸を消費し尽くしたかに見えたものであった。
 そしてそれを上回る悲惨は一週間後にやってきた。当時年齢も30半ば、当然だと言わんばかりの腰痛である。あの「ぎっくり」魔女の一撃。これが魔女のしわざでなくて何であろう。
 朝起きたら靴下がはけない。痛くてからだに針金が入っていて曲がらない。しかしちょうどその頃、健康雑誌の「ぎっくり腰」記事をまとめていた手前、傾向と対策ぎっくり腰3ケ条はまだ頭の片隅にチューインガムのように貼りついていた。それをゆっくりとはがす。

 鉄則その1「その朝、まず動いてはいけない」
 鉄則その2「その日は一日中エビの形で丸くなっていなければいけない」
 鉄則その3「次の日まで待って、医者に行け」

 これを謹厳忠実に守り、翌日女医にパンツを下げて腰を出せと言われ電気針10数発。おかげでわずか数分後に窮地脱出、まさに一瞬にして、独力で靴下がはける日常安寧の世界に無事立ち戻ることができたのであった。
 まことに風を体感するのも容易ではない。それも海の上は尋常ではいかないことを思い知らされた。
 
100年間、基本デザインは変わらない
 海がだめなら陸がある。
 風に乗って風を起こす、風と戯れる不思議な乗物。これは何もウインドサーフィンに限ったものではない。
 たった一人独力で風と戯れる。陸上でこれに匹敵するのが自転車である。
 当時付き合っていた漫画家に島袋君というオタクがいて、彼は実に並みの自転車には飽き足らず極小の自転車を夢想し、かつ現実に特別あつらえた幼児用三輪車程の二輪車にまたがり、虎ノ門近辺を颯爽と流していた。
 この時初めて、極小の自転車を電車に乗せれば、自宅から都心のオフィスまで自転車通勤が可能なことを知り、これ以後私は折り畳み自転車のとりことなり、専用バッグで電車に乗せ、これで湘南の海、千葉の山、そして奥多摩の林間コースとテリトリーを広げていく。もちろん都心にあっても自転車さえあれば神保町から昼飯は明神下、神田駅ガード下、さらに足を伸ばして大手町、銀座も我が庭のようになってきた。さらに当時仕事で職人シリーズの原稿を書いていたので、さっそくかの漫画家の極小自転車の作者を取材することにした。
 確かあれは町田辺りだったと思うが、この自転車屋さんも誠に自己の愛するものにドップリのめり込むことができる正真正銘のオタクであった。ここでまた、不思議な自転車に出くわす。それは極小とは正反対の、カマキリがカマを伸ばしたような前後に鼻の長い二輪車だった。
 これが伝統的に昔から西洋にある「リカンベント」という型のものであることは、つい最近になって知った。「リカンベント」とは横になる、寄り掛かるというような意味で、店の場所は横浜。町田で遭遇したカマキリ以来だから10年は経っている。大桟橋の横の開店して間もない「BIKE TOWN」という自転車屋さんで、「BIKE E」(バイキー)というアメリカ製。行くと、私という初めての客、それも白髪交じりの中年に「大丈夫だから乗ってみろ」と言う。実に気さくな店長だ。自転車ながらイージーライダーのような背もたれ付いていて、脚を前に突き出すようにこいでいく。リクライニング・チェアーにすっぽり収まったまま遊覧しているような乗り心地は最初はアクロバチックでありながら少し慣れれば快適、実に気持ちがいい。調子に乗って山下公園まで浜風に誘われて繰り出してしまった。これだから中年は恐い。
 そしてその数日後、これと同じ「BIKE E」が神田小川町のヴィクトリアに展示されているのを目撃して、うーんとうなってしまった。神田も最新の流行に敏感である。ホコリ(誇り・埃)高き古本ばかりが神田ではない。

志賀直哉「自転車気違いといわれても…」
 さて、前置きが長くなって、神田が昔からいかに流行に敏であったか、それを自転車で証明しようというのが、この原稿の主旨である。そのために登場させたい作家が志賀直哉であり、その他宮武外骨など数人を登場させたい。しかし今回は紙面も二ページであるし、明治の自転車と神田ということになると、さらにもう少し踏み込んで調べてもみたい。
 したがって今回はその前編ということで志賀直哉から追ってみたい。
 自転車を買ってほしい。ある年齢に達すると誰でもが、一度ならず親にねだった経験があるだろう。しかし、今は当り前だが、頃が明治時代ともなると、大人でさえ、そう簡単に手にするわけにはいかない。それ程高価で贅沢な趣味の乗物が自転車であった。
 作家志賀直哉。彼は少年の頃、自転車で神田の街を駆け抜けている。その点で志賀少年は間違いなくたいへんなエリートだったと言えるだろう。なぜなら、この時代にいち早くも、甘言で祖父を篭絡し、外国製小豆色の「デイトン」号を手に入れてしまえる程の子どもなどそうざらにいるものではない。まさに自転車のロールスロイスともいうべき「一級品」を手に入れてしまったことになる。
 その頃の様子を直哉は「自転車」という短編にまとめている。
 それは「十三の時から五六年の間」の少年期の記憶を綴ったものであり、当時はほとんど「自転車気違ひといってもいい程によく自転車を乗廻はして」いたと語っている。
 そしてさらに注目すべきは、直哉少年は神田に社屋があった二六新報という新聞社主催の「遠乗り会」があることをどこかから聞きつけ、これにおそらく最年少のオブザーバーとして参加していることだ。
 ここで自転車の遠乗り会などというと、まるで今ではボーイスカウトのご一行様という感じに受け取られかねないが、周りはいい大人ばかり、たぶん直哉少年は最年少の特別参加ということで、出発地である神田錦町三丁目11番地に自転車をまず乗り付けた。
 ここは今で言えば学士会館の裏に当たる所で、会の主催者であり、もちろん自転車気違いであり、二六の社長でもあった秋山定輔の自宅がここにあった。
 早朝に集合したピカピカに磨き上げられた自転車は総数十数台。まだ明けきらぬ暗き神田の町を車を連ね通り抜け、一路東へと進路をとり、千葉方面へと向っていったのであった。(以下次号)




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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