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神田資料室

KANDAルネッサンス 54号 (2000.07.25) P.6〜7 印刷用

神田学会110回記念講演会

「私と神田」

作家 逢坂 剛

鬼平の挿し絵を描いていた父に連れられて神保町へ。これが神田との出逢いでした。
 私と神田のなれそめといいますと小学生の頃になります。当時大塚に住んでいましたが、神保町へ父が連れていってくれたのを思い出します。父は中一弥といいまして、池波正太郎の「鬼平犯科帳」などの挿し絵を描いていました。そういうわけで、神保町には出版社など元々なじみがあったわけです。
 私はその後中学・高校と男子校で、英語が好きだったので外語大へ入って将来は商社マンなどと思っていましたが、結局当時神田にありました中央大学法学部へ入りました。弁護士か検事、まあ、場合によっては刑事になってもよかったわけです(笑い)。中大は今は記念館だけですが、とにかく学生時代はお茶の水でした。
卒業後はマスコミに行きたいということで朝日新聞を受け筆記試験は通ったのですが、面接で「天声人語」を書きたいと言って、それが選考委員の心証を害した(?)模様で落とされました。
 文藝春秋も受け、また電通も受かったのですが、その前に博報堂に入社を承諾していましたので、それ以後神田錦町の博報堂に勤めることになりました。
 博報堂は現在創業百年を越えていますから神田の老舗のひとつといっていいと思います。その博報堂が一九九六年の一〇月に田町へ移転することになりました。それも本社機能を移転ということで、たいへんな作業でした。また、錦町の古い社屋は残っているのですけれども、現在は関連会社が入っております。
 私の博報堂入社は一九六六年。したがって勤続約三一年のうち最後の八ケ月が田町新社屋時代ということになります。作家として独立するために会社を辞める機会はいくつかあったのですが、最初に賞をとったのが一九八〇年「オール読物推理小説新人賞」でした。これで作家デビュウをはたしたのですが、この時は短編でしたし作家でメシを食う自信もないということで依然と二足のワラジをはいていました。その後一九八七年に直木賞、一般的にはこれをとればメシが食える。
 しかし博報堂に勤めていることが知的刺戟の意味でもプラスになっていましたし、従前通り勤務しておりました。また五〇歳になった時に辞めるという手もあったのですが、後二、三年勤めると勤続三〇年になる。三〇年になるとご褒美に三〇万円と二十日間の休みがもらえる。最後にこの権利を行使して辞めようということで、ずるずると伸びてしまいました。また最後に移転という話も入ってきましたし、新しい社屋のインテリジェント性も確かめてみたいという興味もありましてここに八ケ月いたわけです。
 結局辞めたのが今から三年前ですが、直前にこの神保町界隈の事務所を物色し、古本屋さんのど真ん中に手ごろなオフィスを見付けました。ここに会社にあった私物や家にあふれている資料の一部を持ち込んで六月三〇日に辞めて翌七月一日からここに通うようになったのです。しかし元々神田錦町に社屋があったわけすから、八ヶ月のブランクをおいてまた神田に通う。それも、私は明大前に住んでいますから乗入れで神田神保町まで一直線。永年通いなれた神田生活をまた取り戻して現在また毎日神田オフィスに出勤しています。
 で、その時間帯はといいますと博報堂の勤務時間とまったく同じで、九時半から五時半までと決まっているわけです(笑い)。三〇年もサラリーマンをやっておりますと、からだがサラリーマン化しているわけです。生活のリズムがそうなっちゃうんですね。家で仕事をしていてもいいんですが、どうしても社会との接点が少なくなる。会社では私は広報室にいましたので、毎日新聞五紙を読み、主要週刊誌を八誌読むという生活でした。また新分野雑誌社の取材にも対応しなければならない。家にいるとその接点がなくなってしまう。そういう情報過多の生活から一挙に情報不足になり、きっとストレスがたまるだろう。ですから、毎日ラッシュアワーにもまれながらまた通っているわけです。
 しかし、本に囲まれた神保町生活にも一長一短があります。確かに三省堂、東京堂は歩いて指呼の距離にある。こうなると、ちょっと筆が止まるとぶらっと外に出てしまう。そして古本屋を一巡すると、一時間や二時間はすぐたってします。おかげで仕事がはかどらない。そういうデメリットがるわけです。家にいれば確かに仕事ははかどるのですが、玄関でピンポンと鳴って、やれダスキンの交換や新聞の集金などリズムが狂う。そいうわけで神保町にいれば編集者との打ち合わせも便利。当分はここに居を定めるつもりでいます。
オフィスはガンだらけ。しかし私は決してガンマニアではなく西部劇一点張なんです。
 先月は取材でアリゾナへ行ってきました。今までは好きなフラメンコギターや内線資料をあさる目的で年に一回はスペインへ行ったりしてそれを小説の題材にしたりしていたのですが、アメリカは二六年ぶりです。なぜアメリカかといいますと、小さい頃西部劇が好きだった。今でもそれが変わらない。一九五〇年代から六〇年代の前半ぐらいにかけて映画は西部劇の全盛時代でした。それもイタリアにまでわたってクリント・イーストウッドなどマカロニ・ウエスタンをつくって、これも最初の頃は刺激的で面白かった。ところが寿命も短かった。SFXなどの大掛かりなスペクタルにはかなわないわけです。私は中学・高校の頃から西部劇が非常に好きでモデルガンもほしいけど買ってもらえない。大人になって何とか買えるようになった時には西部劇が凋落してあの当時のコルト45が市場にない。それが六年くらい前にケビン・コスナーが「ワイアット・アープ」とかイーストウッドが「許されざる者」とか多少リバイバルした時期がありました。ケビン・コスナーなんかあまり感心しませんでしたね。ともかく、ブームになるまでには至りませんでしたが、モデルガンの業界ではまたぼつぼつ作られるようになりました。私が買いたいと思っていたものも市場に出回ったので、それっというんでずいぶん買い集めてしまって今では私の仕事場や家はガンだらけになってしまいました(笑い)。私は決してガンマニアではなくって西部劇一点張。ダーティ・ハリーが使うマグナムなどには興味はなく、一八七三年に開発されたコルト・シングルアクション・アーミーという皆さんよくご存じのこれ一点張なんです。日本ではメッキの技術がいいものですから本物そっくりのものを作ることができる。プラスチックに金属メッキをしてかつ古いアンティックな感じまで出す。アメリカへ行くとそこいらじゅうに本物があるわけですから当然モデルガンというものがない(笑い)。子供用の玩具はちゃちなもので一目で玩具だとわかる。たまに本物に近いものがあるとこれがスペイン製。これも我々が「最中」と呼んでいる真ん中でぱかっと割れる形のものです。
 私がなぜアリゾナへ行ったかというと、スペインものばかりではなく、今度は西部小説を書きたいという野望に燃えて取材に行ったわけです。皆さんたぶん西部劇はご覧になっても西部小説はご存じないと思います。西部小説は日本では伝統的に売れないというジンクスがありまして、西部劇全盛時代でさえ売れませんでした。唯一の例外がJ・シェーファーの書いた「シェーン」でしょうか。
 日本では売れませんがアメリカでは西部小説作家はたくさんいます。例えばミステリーで有名になったエルモア・レナードなどは元々は西部小説の作家だったんですが、日本ではまったく翻訳されていない。
 スペインものを書いた時もそうでしたが、作家の習性として他人の書いていないものを書きたい。舞台がそうであったり、素材がそうであったり、とにかく誰もやっていないものに挑戦したい。それで西部小説を書いてみたいと思いました。日本ではほとんどいない。谷譲次、林不忘、佐々木味津三と三つの名前を持った「丹下左膳」を書いた男くらいなものでしょうか。谷譲次の名前では「テキサス無宿」を書いた。
 とにかく西部小説を書きたいと言っても「西部小説だけは勘弁してください」とどの編集者も言う。そういうわけで忙しい時に「西部小説なら書いてもいいよ」というのを断りの材料にしていた。ところがある編集者にが「じゃ、お願いします」という。私も言った手前引くに引けない。それじゃ取材に行かせろということで、アリゾナへ取材旅行に行くkとになったのです。
 それでモニュメント・バレーやメキシコとの国境に近いトゥームストーン、「OK牧場の決闘」で有名な所です。ここではショウとして空砲をぶっ放してデイリィに決闘をやって見せている。銀鉱が発見されたの頃に比べて、今や町自体がこういう観光だけで食べているという町です。
 ここで朝飯を食いに行きますと、レストランに田舎にしては雛にも稀な美女がいる。「あなたはナタリー・ウッドの娘さんか」というと意味が分かっているのかどうか、ほほ笑んでいる。というわけで、取材が終わった夜にまた行くことにしたわけです。ところが行ってみると「エルザは朝と昼だけよ」と老婆が言う。しょうがないからビールでも飲んでと思ったのですが、ここにはアルコールがないという。踏んだり蹴ったりでした。この結果「小説新潮」を読んでいただきたいと思います。
 いずれにしても、神田、ことに神保町との縁は今や永くなりmしたが、今作家の姿にお目にかかることは本当に少なくなった。
昔は川端康成が風呂敷き包みを抱えて、ラドリオへ入って本を広げている姿などもありました。また、紀田順一郎さんなどもときどきお見かけします。しかし本屋街は私にとっていつも活字情報という刺戟を与えてくれる場所です。作家というのは一を聞いて十を書く。十を聞いて十を書くんじゃ面白くない。
いずれにしてもここは資料の宝庫。その資料はいつも本屋に預けてあると思えばいい。そうすると、その預け賃を払って本を買ってくるということになるわけです。
(平成12年6月7日 (株)久保工ハーモニーホールにて)

 
逢坂 剛 作家 
神田の中央大学法学部卒業後、錦町の「博報堂」入社。「オール読物推理小説新人賞」でデビュウ。第96回直木賞受賞。
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