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KANDAルネッサンス 51号 (1999.10.25) P.12〜13 印刷用

第106回神田学会レポート

チンチン電車が街を救う

毎日新聞社 編集局航空部長 竹田令二

路面電車へのノスタルジア
 世の中に「テッチャン」という言葉がささやかれています。これって、私、差別語だと思います。鉄道愛好者のことを指していますが、主として女性が使います。「ねぇ、あの人テッチャンだって」「いやっ、気持ち悪い。いい年して、嫌ね」「どこか変だと思っていたのよ」……
 このように。私のような模型好きは、ほとんど“変質者”扱いなのです。
 欧米では『貴族の趣味』なのです。ちなみに日独伊防共協定ではベルリンを訪問した当時の外務大臣、松岡洋右は、空軍大臣へルマン・ゲーリング元帥の執務室に招かれ驚かされた、とものの本にあります。そこにあったのは、模型の線路が張り巡らされてレイアウトです。松岡外相は「ドイツは凄い。実際の地形を模型に作って研究している」と感じ入ったとか。
 文化程度が知れます。
 神田は私にとって『鉄道の街』です。中学生時代(昭和35〜38年)、東京といえば、魚藍坂のカツミ、銀座の天賞堂、そして神田須田町のカワイと模型店のイメージです。さらに神田には交通博物館があり、鉄道友の会の事務局がありました。「事務局にいきます」といえばロハ。事務局にいくふりをして、館内で閉館近くまで過ごしたものです。古書店街では鉄道模型趣味と鉄道ピクトリアルのバックナンバーを漁り、乏しい小遣いのやりくりをしていました。
 その頃、須田町は都電の中心駅でした。昭和37年の都電の案内でみると、須田町始発は5系統。須田町を通過する路線は5系統、千代田区全体で言えば、都電41系統中区内を通っていたのは26系統にのぼります。都電は昭和47年に荒川線を除いてすべて廃止されます。横浜など他の大都市でも同様でした。
 日本に初めて地下鉄が通ったのは京都で、明治28年。路面電車のピークは昭和31年で67都市、83業者、線路総延長1479km、1日の利用客730万人でした。
 路面電車の娯楽を決定付けたのは昭和34年の道路交通法の改正(改悪)です。路面電車の軌道敷内に自動車の通行を許可したのです。
見直されてきた路面電車の“存在”
 この結果、現在は19都市、20業者、250km、63万人と追い込まれてしまったのです。最近でも廃止の危機にある路線が少なくありません。その一方で、今年4月、豊橋電鉄が150m延長していますし岡山市でも来年、1km延長することになっています。建設省や運輸省も平成9年度から路面電車の延長、改良、などに補助を出し始めています。路面電車への風向きがようやく変わり始めたのです。
 ちなみに世界の状況はどうかと申しますと、1937(昭和12年)から52(同27)年にかけ、パリ、ニューヨーク、ロンドンと廃止されました。しかし、東京が廃止した72(同47)年には米は路面電車の復活促進を決めています。その後、78年にカナダ・エドモントン、92年パリで復活、96年にはロンドンも復活を決めています。
 背景には、自動車交通の限界がありました。さらに、この間、公共交通として路面電車を守り、技術を発展させてきたドイツの成功例があったからです。最近良く聞くようになったLRT(Light Rail Transit=軽快電車)と呼ばれているものです。広い意味では路面電車も含みます。ただ、日本の路面電車が軌道法で、車長は30m、平均時速は16kmなどと制約されており、この改正が今後の問題です。欧米の場合、ラッシュ時には増結できたり、高速が出たり、普通の電車と乗入れしたり、性能的にもかなり高いものです。今年広島電鉄に登場した「グリーンムーバー」は宮島口行きの専用軌道では時速60kmで走るそうです。また、路面を緑化したり、バスとレーンを共有する例もあります。
自動車時代の終焉
 路面電車と自動車、歴史的に見ましょう。都電利用者のピークは関東大震災の跡です。自動車抑制策が打ち出されました。次のピークは第2次世界大戦の戦時体制下です。鉄道統合、ガソリン規制が行われました。その後は昭和30年代初頭までの戦後の復興期です。いずれも危機の時代と言えないでしょうか。制限せざるを得ない時期が路面電車の黄金時代です。
 では今日の路面電車評価は何を意味しているのでしょうか。はっきりと言えるのは自動車交通を中心とした時代の終焉です。
 建設省のパンフレット「路面電車の活用に向けて」には次の4点が指摘されています。
1 道路混雑の緩和
2 環境問題への対応
3 バリアフリー化
4 中心市街地の活性化
です。大きな方向転換です。
 自動車の利点は“点から点”移動です。好きなときに好きなところへ。しかしその結果、昭和30年には100万台だった自動車は、現在7000万台にも達しています。
建設省によると、渋滞による損失は年間12兆円にもなるそうです。東京のバスのスピードは昭和35年には時速15.4kmだったのが、45年には13.3km、55年に12km、その後は11km前半を推移しているという数字があります。もはや自動車を抑制しなければならない時代なのです。石原都知事も「ロードプライシング」という“入都税”のような構想を出しています。
 路面電車に代わって地下鉄がそこここに通りました。区内では20駅あります。ただ同じ駅でも営団の資料では例えば大手町は、丸ノ内線から三田線のホームまで9分もかかるのです。しかも乗換え通路はひたすら歩くだけの空間です。そこには「街」はないのです。郊外から都心に人を大量に速く運ぶだけのシステムです。自動車ほどではないにしても、これも“点から点”思想だと思います。
 さらに経済状況も国、自治体ともピンチです。建設費は
・地下鉄     250〜400億円
・都市モノレール 100〜190億円
・路面電車     10〜 20億円
 都内では中央区が“復活構想”を持っています。経費は、路盤、レール、架線、車両、車両基地、用地費で107億7千万円です。
千代田区路面電車復活構想
 さて、千代田区の場合ですが、「お濠端本線」と「神田支線」の組み合わせです。本線は、皇居を一周する単線です。何よりも国内はもとより、外国からの客も日本の“お城”を一周するだけで味わえます。区内に勤める人たちの日中の足にもなります。
 コースは東京駅から日比谷、国会、半蔵門、九段下、神保町、竹橋、大手町、東京駅に戻ります。時計回りです。右折があると交通的にはマイナスですが、反時計回りですとお濠側を走り、1利用者が道路を渡らなければならないケースが多い、2大手町、東京駅から霞ヶ関などの利用者が見込める、などからです。支線は、車両基地を秋葉原の再開発地域に設定したことと、神田、大手町と結ぶことで、千代田区に街の“線”を復活させ、さらに、停留所の配置で“歩く拠点”を作り、連続した街の“面”を創出したいと思うからです。本線がざっと見て8km、支線が3km、建設費は中央区を参考にして150億円あればというところでしょうか。
 人が歩けること、それが街を活性化するからです。歴史とは人々の営みの積み重なりであり、街はその舞台だと思います。人工的な街は、さまざまな演出をして人を集めます。いわばヴァーチャルな、人を踊らせる偽りの街なのです。そこには人の営みから生まれた知恵はありません。欲望を充足させればそれで終り、“点から点”時代の発想ではありませんか。
 歴史ある神田の街は、五感を使って歴史の地層から、人々の知恵、生み出された生活のノウハウなどを感じ取っていくことができる街のはずです。受け身ではなく、主体的に行動できる街です。そのためにももっと“歩ける街”に、低い床でお年寄りにも、車椅子でも自力で乗れるLRT=新チンチン電車を復活させたいと思うのです。


竹田令二 毎日新聞社 編集局航空部長 
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