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神田資料室

KANDAルネッサンス 51号 (1999.10.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館12

「秋葉みなと」と鯛茶漬け

中西隆紀 

 秋葉原といえば「電気街」。しかし、最近その電気街を電脳街と名称変更しなければならない程中味の変化は著しい。それくらいパソコン屋が増えた。
 この秋葉原の電気街化は戦後のことで、新しい現象といえども、すでに半世紀がたつのだから変化は当然といえば当然。しかし、変わらないものというのも見たくなる。裏通りへ廻って不忍通りの交差点を渡る。この裏が明神下だ。家の前は打ち水でしっとりと淡い。足がついつい横道に外れることに生き甲斐を感じる風来の人のため、風も香を含んで冷たい。のっそりと路地を横目で、傲岸不敵に通り過ぎるノラにも「猫格」があるらしい。
 この辺りは野村胡堂にいわせれば、銭形の親分の住まいという設定になっていて、昔は台所町と名乗っていた。親分は架空だがこの町名はかつての実名で、昔道行く人が、俎板をトントンとたたく音を拾って町名にしたとさえ思う。こんな捨て難い名を、よくもまあ「外の神田」にしてくれたものだ。
 ここ外神田2丁目は神田明神の崖下で、ゆえに陰が最もよく似合う。それをつなぐ男坂中っ腹に昔は有名な料亭「開花楼」が座っていたが、今は男坂下を曲った横丁に「新開花」で出ている。その表側が同じ経営の「さくら」。ここはやや庶民的な造りということであるらしい。
 見ると、あの憧れの「鯛茶漬け」がランチで千二百円也の看板がある。私は生まれてこの方鯛茶漬けというものを食したことがない。まさに人の心根の底を見透かしたような憎き看板であった。思わず狐に袖を引かれる。
 カウンターのとっつき横が簾で、透かして奥で調理している俎板が見える。客席の正面に調理場という趣向も台所町ならではというべきだ。あくまで台所メイン・スタジアムの鯛との格闘があって後の客席なのである。
 出された膳に黒塗りの大椀。ふたを取ると湯気の向こうに憧れの鯛。しかも刺し身級を茶漬けというのは贅沢の極みというべきで、しかも漁師の磊落(らいらく)さと通じるものがある。手抜きなし。デザート有りで、梅シャーベットにコーヒー付き、やはり海に囲まれた、魚と汐の香りの国に生まれてよかったと思う。

 食べながら神田川のことを考えた。箸を置いて茶漬けの海国日本を思った。
 もし神田に海があり港があったとするならばだ。こうした汐の香りメニューの種類はもっと増えていただろうに。
 しかしここは築地とは違う。神田から海は遠い。だが、昔は神田川や大川に船があふれていた。それらは皆船底の浅い伝馬船(てんません)や猪牙舟(ちょきぶね)だけれど、また、派手な浮世絵の世界では物見遊山がすべてに見えるが、実は大半が物を運ぶ物資の輸送船なのだ。そして秋葉原に、大きな船溜りがあった。
 大きな船溜り。秋葉原にも「港」があったといっていい。あれを港と呼ぶ人はいないけれど、船が溜まれば港には違いない。入り江といってもいい。この際これを強引に「秋葉みなと」といってしまおう。
 満艦飾の大漁旗気分になって明神下とは電脳街を挟んで反対側、秋葉原駅の東口へ回る。この改札を出たすぐ横に薄暗い公園がある。近くに書泉ブックタワー。この公園が実は「秋葉みなと」の入口であった。
 この公園は昔を引き摺(ず)っていて、路面より一段下がっている。実は昔々はもっと下がっていた。そして今ベンチやブランコのある辺りはすべて水面にさざなみが立っていた。そこを船が通り奥の「秋葉みなと」に続いていた。この公園は実は運河だったのである。水が流れていたのだ。
 昔徳川の頃、お茶の水下を流れる神田川が運河として築かれたことを知っている人は多い。だが、お茶の水から秋葉原へ至ると、急に横直角に北上して支流の運河が築かれ、奥に巨大な入り江が設けられていたことは今や知る人も少なくなってきた。
 この「秋葉原児童公園」は、この支流を埋め立てた跡だ。川幅も、左右に残された護岸の石垣からそっくりこの大きさと分かる。小船なら二艘すれ違うことも可能だし、少し大型は交通整理すれば通行できる。そしてその奥に船溜りがあった。大きな四角い池だ。
 今私は甲武鉄道(現在の中央線)のことを調べているのだが、実はこの池、鉄道と切っても切り離せない、鉄道のための船溜りであった(これは東北・常磐線)。

 船運華やかなりし頃、神田川、そして神田南を流れる日本橋川には物資運搬船が縦横に行き交っていた。そして川岸には、倉庫や荷揚げのための船着き場がそこここに見られた。
 しかしこれ程大規模な船着き場はない。明治40年の地図を見ていただければ分かるように、この池(ドック)を取り囲むように鉄道線路が設置されている。今でいえば鉄道付きのコンテナー埠頭というところだろうか。
「駅に着いた貨物列車から降ろされた荷物は、お滑り台というのがありましてね。下の伝馬船まで降ろすのです」と語るのは公園横のビルのオーナーである山中富太郎さんだ。昭和7年生まれの山中さんの実家は材木屋さん。幼少時にはまだ奥のドックは埋め立てられていなかった。このドッグが埋め立てられたのは昭和30年頃であろう(29年の地図には存在し、31年にはドックはなく運河のみ、その後運河も埋め立てられ公園となる)。
 この山中さんの町会「佐久間一丁目町会」の祭りの半纏には米俵を積んだ伝馬船が描かれている。「伝馬船」の伝馬は「てんま」と読むが、字の通り、日本各地に配された旅行や逓送のための駅馬のことだ。つまり駅馬のように頻繁に物を運ぶ船の意味だ。
 秋葉原駅は当初貨物駅として出発した。明治23年のことである。元々この辺りは江戸以来、火除けの原っぱだったのだが、北からの鉄道が上野まで開通するや、次に計画されたのが秋葉原の物資輸送基地構想である。
 というのは、トラック便などなかった明治・大正・昭和初期に、運送の決め手は貨車と船便だった。東京中心部に縦横にはり巡らされた神田川その他の運河は、米その他の重量級荷物搬送の最大ルートであったのだ。
 神田川のほとりに広がる広大な空き地。ここにまず目を付けた。東北その他の米を中心とした農産物を鉄道で秋葉原まで運ぶ。それを鉄道横のドックから船に積み替え小分けして、神田川へ出る。それを目的地まで運び陸揚げして、さらに大八車で配送した。その元になる流通センターが秋葉原であったのだ。
 したがって、鉄道秋葉原駅誘致と同時に、この引き込み運河とドックが計画された模様だ。まさに「運河便」としての港であった。これらが日本通運倉庫、神田青果市場などともつながっていくのだが、この辺りは江戸時代から元々物資輸送の流通基地であったというふうにとらえることもできる。
 神田市場も去り、また、去年秋葉原貨物駅も取り壊され、「秋葉みなと」跡も現在は再開発地域として広大な更地となっている。
 先に紹介した運河跡の公園で、唯一残された護岸の石垣をしゃがみ込んで見ていたら、若者が「何を見ているんですかぁ」と声を掛けてきた。「実はね、この公園で溺れそうになった人がいて、あのビルのオーナーが若かった頃、ハシゴで救助したことがあったんだって」と言おうとしたが止めておいた。
 私の期待した答えは「えっ、公園に水もないのに溺れるんですか」だが、彼の顔を見ていると余りにも素直に「そうですか」とうなずきそうな気がしたからである。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
 
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