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神田資料室

KANDAルネッサンス 46号 (1998.07.25) P.10〜12 印刷用
神田仮想現実図書館7

神田は二倍の物語

中西隆紀

「神田というのは、どこからどこまでを言うんですかね」。見知らぬその男は交差点で突然訳の分からぬ愚痴ともつかぬ言葉を口にした。
 これが初対面の男のいう言葉かと一瞬唖然とした。
 初対面の一言というのは、風のように軽くありたいというものだろう。「神田はどこからどこまでかって」。ちょっとその挨拶、重過ぎると思わないかい。もちろん、そんなこと思わないような人間だからこそガムを道端に吐き出すみたいに言葉を投げ捨てるんだよな。まずは「こんにちは」でもいいし「いい天気ですね」でもいい。そしてこれらは、カラスがカーといってさっと通り過ぎる、あの絶妙なバランスを持った間合いと大差ない程度がもっとも望ましい。カーと言ってカーと別れる。本来何とも複雑なのが人間関係なんだから、カラスのように脳天気な時間を持つことこそが日々の生活には重要となってくるんじゃないのか。重い出会いがあれば重い別れがある。軽い出会いは幼児にとっての母の存在のようにさり気なく、湧き出た清水が記憶の底に溜まるようなもんだろう。こういうさり気なさが美しい一日を約束してくれるというもんじゃないかい。
 もちろんそれは一瞬であったから、これら全てが頭にあったわけではない。しかし一瞬にもやもやしたそれらの事どもが頭を駆け巡った。これはまさに重い出会いであった。このように端(はな)から独り言のように話せる男というのもあるんだなあと、呆気に取られた。見ず知らずの私に神田の範囲をいきなり聞いてきたのである。「神田がどこからどこまでか。なるほどなあ」とは思ったものの、こんな質問は地図もないのに簡単に答えられるものではない。その上、初対面の相手に質問というのも変わっている。質問が神田だからまだいいようなものの、いきなり見ず知らずの男から「あんた歳いくつ」なんて訊ねられたら、答える気にもならないだろう。場所は神田小川町の交差点。彼の表情は暗く、かなり疲れているように見えた。
 疲れているくせに、随分複雑なことを言う。一見して上京したての、頭はいいがどこかずれたところのある元教師というところだろうか。しかし、いきなり他人の懐に飛び込んでくるような人間を私はあまり好きではない。外人だって「エクスキューズミー」から話を始める。それを日本人は「恐れ入りますが」からはじめるのが常識というものだろう。
 しかし、こういうぶしつけでなれなれしい男の中には、往々にして天才的に直感力に長けた連中も多い。だが大抵は人生も商売も仕事も男女も単刀直入がいちばん、それでいつも得をしていますって顔をしている。彼もその手に違いない。図々しい中年だなとは思ったものの、二刀流ではなく単刀直入だけあって、さすが質問はなかなか面白い。神田の範囲か。これを即座に答えられる人はそうざらにはいない。しかも正確にというとなおさら難しい。
 普通なら、よく聞いてくれましたとばかりに得意になって話をするのだが、二刀流の私にはどうも波長が合いそうにもないタイプに見える。それに説明するのはいささか骨が折れる。こういう男は自身の結論を急ぐあまり、相手の意見など聞く耳を持っていない例が多いのだ。

 確かに私は神田の成り立ちに興味を持って20年近くなる。だからといっては何だが、ささやかな回答者の一人と言っていいかもしれない。しかし道端でふと会っただけで、この質問というのが何となく気持ち悪い。ことによるとこの男は髭のラスプーチンのように恐ろしい神通力を持っているのではないか。しかしよく考えてみるまでもなく、神田の範囲を説明するにはどう考えたって時間がかかるだろう。簡単に言えば「旧神田区の範囲と考えていいのではないですか」ということなのだが、「旧神田区って何だい」と言われればまた話が長くなる。説明してあげたいけれども、言っている意味あいがどうもこういうこととは少しずれているようなのだ。本当はどうも、神田は広過ぎて訳が分からないということを愚痴りたいらしい。
 そこで「いったいどちらへお出かけですか」と聞くと神田の本の街だという。ああそれならばもう少しですよというと、それでもまだ不満そうにふてくされている。「もう少し」という言葉が余程嫌いらしい。
 やはり面倒くさい相手に遭遇してしまったようだ。ええい、これも乗りかかった舟だ。しかたがない。それにしても男でヒステリー気質というのは草々に退散したいところだが、相手の目はまだ私に注がれている。さらに事情を聞くとなるほどとうなずけた。彼は神田駅からわざわざ歩いてきたのだと言う。それも少し足が不自由なようだ。JRの神田駅からではこれは確かに遠い。それも大して忙しくもない駅員が「少し遠いですよ」と言った少しが「かなり」であったので怒っているのだ。
 神田の本の街だから神田駅で降りた。フレーズだけとってみれば、これはこれで正しい。しかしJR神田駅と本の街神田神保町では地下鉄2駅分の距離がある。これは東京の人ではないなと思って気の毒になったけれど、下手に情けを掛けると寝首を欠かれる。まあそれほど大袈裟なもんじゃないけど、よく聞いてみると、もう一度電車に乗る電車賃をケチった自分が悪いのであった。
 こんな遭遇は20年間で3回もあったように思う。
 これがどんな確率になるのか知らないが、こんな人が多々いるのかもしれない。
 いずれにしても、彼は「神田の範囲」という興味深い提言を残したまま、本屋街の方へと足をひきずって行った。

 しかし改めて考えてみると、私も昔は正確に神田の範囲がよく分からなかった。渋谷・新宿・池袋と、東京の盛り場は駅中心にまとまっていて、JRの駅を降りれば、それでなんとか目的の場所へたどり着ける。
 確かに神田となると目的によって明らかに降りる駅を選ばねばならない。
 だから全部巡るとすると、とても面倒くさい町だということになる。本なら神保町、音楽ならお茶の水、スポーツなら小川町。衣料品なら岩本町、電気街なら秋葉原。そして赤いネオンと呼び込みのお兄ちゃんに会いたいのなら神田駅前ということになる。
 しかもこれらすべてが神田だという意識は遠方からの来訪者と地元とでは少々ずれが生じている。
 秋葉原などを例にとると、地元の人以外は神田だなんて思っていない若い人が圧倒的だ(ちなみに、秋葉原○丁目というのは存在しない。「秋葉原」は駅名であって、この辺りはすべて外神田○丁目、つまり神田である)。秋葉原はあくまで電気街であって、「秋葉原に行く」という人はあっても「神田の電気街へ行く」という人は皆無という訳だ。
 してみると、「いったいどこからどこが神田なんだい」という意見が出てきても至極当然ということになる。

 神田の繁華街はなぜこう広いのか。しかも盛り場が単一ではなく複数存在するということはいったいどうなっているのか。
 普通は、渋谷なら渋谷といえば駅前のネオン街から始まり、その枝が広がって小さな商店街のまとまりがやがて消え、松濤町なら松濤町という住宅地へと溶け込んでゆく。神田は盛り場分散型というユニークな構成ゆえに、現代にあってはひとまとめに考えていいのやら悪いのやら、訳が分からなくなる。
 しかし、これが神田の特異性とも考えられるのだ。そしてその裏に江戸と明治の歴史が見え隠れする。また逆からいうと、神田を探っていくだけで江戸と明治の東京全体の歴史が象徴的に色濃く浮かび上がってくるともいえるのだ。
 要するに、ここは過去及び現在において「神田と言う共同体に所属していたい」という願望が強く生き続けている町ということがいえるだろう。この願望はいったいどこからきているのか。言い換えれば、都会にあっては珍しく「ふるさと願望」の強い地域ということになる。
 それは現代にあっても「神田村」などという言葉がある種の愛着をもって語られること等に見て取れる。その本来「こじんまりしたまとまり」であるはずの神田村が、地域的になぜこのように大きくなって語り継がれているのか。
 その秘密はどうも職人町という単位にあるらしい。この一種のギルド的な結束感覚にあるのではないかという推論である。この精神的支柱が例え職種が違っても生き続けているのではないか、そう思えてくるのだ。
 そしてその「結束」または「まとまり」という考え方の表象的典型が祭りと考えてよさそうだ。
 揃いの半纏や手拭いは町々で艶な出で立ちを競えども、神輿が結集するそのサミット(頂上)は神田明神であり、平将門である。この祭りの季節がかろうじて神田をひとつにしてくれているといっていいだろう。
 しかし、この神輿の巡行範囲がまたとてつもなく広いのだ。なにしろ山王と並び、江戸の二大祭りなのだから仕方がないが、東は浜町、南は日本橋の三越あたりまで繰り出すのだからたいへんだ。たまたま天気が良過ぎたりすると、神官を乗せた馬がへたるは網傘を被った綺麗どころの化粧が剥げたりして、何だか疲れた時代祭りの観光行列に突然トーン・ダウンしたりする。
 しかも、東端、南端のそれぞれの浜町・日本橋が「神田」かというと浜町は浜町、日本橋は日本橋、地元の人間もここは神田じゃねえよ、と問えば尻をまくってくるに違いない。あの疲れたおじさんが言うように「はたして神田はどこからどこまでなのか」と溜め息をつくのはもっともなことなのだ。
 これが江戸時代なら職人の下町「神田」はそう広くはなく、問えば簡単に答えが返ってきたはずだ。「俺っちはな、何だ神田のお玉が池よ」ということにでもなるだろうか。その中心お玉が池は現在の岩本町付近であり、現在の神田駅より東側一体が神田と呼ばれる職人・町人の長屋が続いていた。これが江戸の神田である(図A地域)。神保町(C)は江戸時代、神田ではない。

 やはり話が長くなった。あのおじさんとはここまで話さなくてよかったようだ。おそらく真剣に話したとしても最後まで聞いてくれそうにもない程、どうしても時代はさかのぼってしまう。
 そして明治になると様相が一変して、何と神田が倍になっていく。
 ここが私が強調したい不思議な点なのだ。なぜ新地域をも神田としたのかという点だ。新地域とは図でいえばC。まさしく面積が2倍に変貌を遂げる。
 図を見てもらうと分かるように、地図で北を上に見て、左側に新神田が誕生したようなものだ。今の神保町一帯であり、江戸時代は大名屋敷ばかり、町人は一人も住んでいないから、町の名前さえなかった。それが明治の御一新で空き家同然となった武家屋敷に様々な階層の人間が住むようになった。そしてそこは、外見は古くても中身である新住民は新しい息吹で充満している。そんな明治のニュー神田タウンが誕生していったのだ。しかもここは武家屋敷だから、入れ物の大きさが職人町と段違い。さらに大きな門まで付いている。これに目を付けたのが新教育の担い手たちであった。だからここに陸続と学校が誕生していったのもうなずける。
 学校に続いて学校産業ともいうべき本屋街、印刷街が形成されていったのもこの流れがあったからと考えていいだろう。
 つまり大雑把に言えば、今の神田駅の右側が江戸のオールド・タウン、左側がニュー・タウンである明治の神田ということにもなる。
 そしてこのオールドとニューを一緒にして「神田区」が制定されたのが明治11年。以来これが神田の範囲と考えられてきた。
 現在の千代田区はご承知のように、皇居を中心とする麹町区と神田区が合併して誕生したものだ。
 しかしここには残念ながら、旧神田区に見られるような連帯意識は薄い。面積はまたまた倍になったが、皇居・麹町を抱えた神田という存在は考えにくい。
 これは麹町が山の手意識であるのに対して、オールド・ニュー神田は共にあくまで下町意識を堅持している点にあるのではないだろうか。
 だから神田は面白い。新旧入り乱れてバトルを繰り広げるから活力が生まれるのであって、町がこのように2倍になって、さらに数倍の活力を生んだことは都心の歴史の中でも際立った存在と言わねばならないし、それを改めて振り返ってみることは今後のためにも有効であると思えるのだ。

現在の神田 
<Old Town>外神田 練塀町 和泉町 佐久間町 須田町 淡路町 岩本町 小川町 鍛冶町 東神田 
紺屋町 多町 
<New Town>内神田 三崎町 駿河台 猿楽町 神保町 西神田 一ツ橋 錦町 内神田

神田区の変遷
明治19年 湯島2、3丁目を本郷区へ移す
昭和18年 下谷区練塀町を編入する
昭和22年 麹町区と合併し千代田区となる




中西隆紀  フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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