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神田資料室

KANDAルネッサンス 48号 (1999.01.25) P.10〜12 印刷用
神田仮想現実図書館9

田舎の少年と都市地図のベクトル

(附)平賀源内の見た夢

中西隆紀

 もぞもぞと尻を振りながら毛虫が葉を食んでいる。
 見ると、もうすでに幾本もの蛇行の跡が葉に刻まれていた。一枚の葉。そしてそれは、母親から叱られて、やっと涙を胸にしまい込んだ子供のほおのようであった。
 つい今しがた過ぎ去ったばかりの時間のこん跡が地図となって葉に刻まれていたのだ。
 子供には「わたしは本当に悪い子だったのか」という放心の跡であったのだが、毛虫にとっては笑止千万、何ということはないただの満腹のあかしでしかないのであった。
 一枚の葉っぱにはもともと葉脈という繊細な地図が標準装備されている。だから、そこに虫が這えば本来そこにはなかった「虫工的」な地図が残されたということになるのだろうか。そして、この伝でいけば、人が這えば人工的な街ができあがるというのだろうか。
 魅力的な地図の代表格に「鳥瞰図」というのがある。視点を鳥に置き換えて斜め上空から俯瞰した図である。
 私は反対語辞典をぱらぱらと拾い読みするのが好きなのだが、まさか鳥瞰図の反対があるとは知らなかった。これを人瞰図というのかと思っていたら「虫瞰図」というので思わず笑ってしまった。インドの行者の五体投地ではないが、地べたに這いつくばって見る世界はいかなるものであろうか。
 私たちは地図によってあたかも世界を知っているように錯覚している。そうしてこういう錯角は確かに楽しいのだが、疑似体験即インターネットの世界はさらに増幅し続けるだろう。しかし実際の体感半径を考えれば個々人の世界は自分の虫瞰図の世界でしかない。

 地図の世界というのは本当に様々なベクトルをもっているというべきだろう。「オリジナルの神田地図をぜひ作成してみたい」という思いがあった。これは前々からなかなか手に付かぬ仕事のひとつだったので、「KANDAルネッサンス」編集部からの依頼は「神田を改めてバーズ・アイで眺めてみる」願ってもないチャンスを私に与えてくれた。その結果がセンター頁の神田地図だ。これについては、歴史の奥行きという設定を少しでも付け加えたいというのが私の希望だったのだがこれがなかなか難しい。しかし効率は悪いがこの楽しい仕事のおかげでますます電脳快楽病に取り付かれてしまった。
 改めて眺めてみると「なんだこの程度か」という不満は残る。もっとたくさんの情報を盛り込みたかったのだが、位置が確定できず漠然としているものは残念ながら排除せざるを得なかった。情報氾濫時代に読者の知りたい欲望はこんなものでは満たされないに違いない。「もっと知りたい」その思いは私も同様だ。神田には多くの物語がつまっている。しかし、できあがった地図を見ると、樋口一葉も入っていなければ高村光太郎も今ひとつ確定しづらい。江戸の文人も神田にはもっとたくさんいただろうということになる。しかしここにひとつの歴史点があるとすると、限られた私の狭い知識の範囲ではたかが1点といえども、乏しい裏付けのまま地図に落とすわけにはいかない。そいう貧しい内部事情が図らずも露呈されてしまった結果となった。
 設定が現代だけであれば市販の詳細な地図があるだろう。問題は多くの人間が神田を駆け抜けた過去のこん跡だ。これをぜひ刻みたい。また過去ばかりにとらわれずに未来を刻めという人もいるだろう。こうした未来地図も過去を地固めした後で考えれば、メンタルマップ的都市未来図の構築も可能だろう。なぜなら、都市から人的活動のメンタリティな部分を取り去ったとすると後には草木ひとつの自然もない廃虚しか残らないからだ。都市は整合性にはあまり縁のない人的坩堝(るつぼ)である。時にお店屋さんばかり並んでいる現代のグルメマップなどを見ていると、食い物屋だけが人的活動なのかと言いたくもなる。人々が真に求めているものは、旨い食い物プラス・アルファのアルファなのだ。それが何であるかは人によって異なる。神田という土地の大きさは太古の昔から変わっていない。未来地図の場合このアルファの設定をどこに置くかは、過去の成功と失敗にそのヒントが隠されているかもしれない。過去に神田を駆け抜けた少年や少女たちはいったいどんな都市探索を試みたのか。志賀直哉少年や三浦環は最新の自転車で神田を通り過ぎたが、宮澤賢治は微熱をおして重いトランクを引きずって歩いていた。ここはひとつ、田舎から出てきたばかりの少年の気持ちになって、ゆっくり考えよう。田舎の少年と様々なベクトルを持った都市。いささか矛盾するけれど、この揺れ動く心の振幅が都市に与えたものが何もなかったと言い切れるだろうか。メンタルマップとは簡単に言えば、その人その人によって同じ神田地図でも見え方がまったく異なって見えているということなのだ。

 樋口一葉はデビュー前の多感な少女期を今の駿河台下交差点付近、そして淡路町で過ごした。一葉といえば文京区や浅草を思い浮かべる人が多いなかで、これなど、ぜひ加えたい神田のポイントである。また神田から越した後も、また懐かしい神田に菓子を仕入れにやってきた。しかし残念ながら一葉の場合、現在時点で何丁目は分かっていても何番地かが分からない。これはいずれ再調査すれば判明するに違いない。
 一方、かなり詳細に分かっている事例もある。作家原民喜の下宿や宮澤賢治が遺書を書いた八幡館という宿屋などがそれだ。原民喜などは遠藤周作が遊びにきて、こんこんとノックした1階の窓の位置までこのあたりだと見当がつく。宮澤賢治の部屋は2階だから、高さも考慮に入れるとカザルスホールの桧舞台の奈落のあたりとミステリーじみてくる。また、あの夏目漱石をとってみると、荒正人著「漱石研究年表」のおかげで、日によっては、いったい神田のどこの街角を曲がったのかまで地図に落とすことが可能である。
 実のことをいうと、本当はそこまで描きたい私は地図フリークなのだ。「細部にこそ神は宿る」と言ったのは誰だか忘れてしまったけれど、小林秀雄が酒に酔って一升瓶を持ったまま転げ落ちた、もしかすると神が宿ったかも知れないそうした細部を描きたいのだ。しかし、ここまでくると、およそ実証的世界からは程遠い伝説の迷宮という陥穽を通り越して、なんだか心許ない推論の百鬼夜行が始まること必定とも考えられる。
 また問題点も残念ながら残されたままということになってしまった。神田錦町の錦輝館は関東地方で初めて映画(エジソンのバイタスコープ)を上映した場所といわれている。これについて前々から東京都に問い合わせているのだがラチがあかない。神保町交差点の「歴史と文化の散歩道」表示板にある表示と、今回当方作成の地図とはワン・ブロックもずれてしまった。当方の根拠は東京市郵便局作製「明治40年東京市神田区全図」その他なのだが、東京都の根拠はまだ答えをもらっていない。このようにひとつの地図だけで本当は答えを出すわけにもいかないので、過去情報のポインティングは1点あたりのエネルギー量が多すぎて効率が悪いこと夥しい。

 ここにエレキテルで有名な平賀源内がいる。彼のエネルギー効率はどのようであったのだろうか。江戸神田で彼の存在は欠かせない。しかしこのポインティングも今回は残念ながら見送った。平賀源内という田舎出の青年と様々なベクトルを持った江戸。彼は今でいえばJR神田駅あたり、東神田、岩本町などの長屋を転々として試行錯誤を重ねていたらしい。こんな彼の軌跡もぜひ入れてみたい。しかし、町名しかない江戸地図に細かい設定を持ち込むのは至難のわざだ。大きな円は描けてもピンポイントで源内のボロ長屋の位置を指し示すことは今となっては不可能に近い。
 不可能とあらば未来地図と同様、フィクションという百鬼と夜行してみるのもいい。これが決め手となって小説は事実より奇なり、自分自身の都市探索の世界が王手飛車取りとなることもあり得るからだ。まずはノンフィクションとおぼしきものから……。

平賀源内
1728年 讃岐国に生まれる。父は高松藩の小吏。
1752年 源内25歳。長崎へ遊学。
1756年 源内29歳。江戸に出てすぐ、神田紺屋町の本草学者田村藍水に入門。
1757年 湯島で東都薬品会(日本初の物産会)をコーディネイト。湯島聖堂に寄宿。
1758年 神田で第2回物産会をコーディネイト。
1762年 第5回物産会。神田鍛冶町不動新道に住む。
1767年 このころ神田白壁町に住む。同じ町内に絵師鈴木春信。ここに神田の源内サロンが誕生。太田南
     畝・杉田玄白など多数が来訪する。
1775年 このころ神田大和町に住む。
1776年 エレキテル完成(深川)。日本橋浜町河岸の新居に移転。
1779年 神田馬喰町の転居。11月誤って人を殺傷する。12月獄中で病死。
(稲垣武『平賀源内 江戸の夢』・中央公論社『日本の名著22』を元に作製)

 胸がぬくい。平賀源内は神田大和町の裏長屋で昨日拾ってきた猫を懐炉(かいろ)に添い寝していた。目を覚ますと待っていたかのように垣間遅れて猫の目も開く。貝殻には真珠の灯かり。それが猫には灯っていてその奥は吸い込まれるような灰色であった。覗き込むと、古井戸に石を投じて音の沙汰さえ行方も知れず、さっき見た夢がその目の奥に埋もれているような気がして猫の髭に顔を寄せてみたのだが。猫もさるもの。貧者の熟慮、情け迷惑、と言葉には出さぬが面をゆがめて、また胸のにこ毛に顔を埋めてしまった。成る程、お前には用のないことに違いない。
 確か夢の名前は「ヤコブ」、紅毛の異人だった。それが柳森の稲荷で源内に手招きをしたのであった。
 それにしても彼の言った言葉の意味がわからない。紅毛語ではなく、はっきりとした和語であった。しかしまったく見当のつかぬ言い草だ。
「地球と世界にやさしくあらねばならぬ」と彼はまず切り出した。「おのれはすなわち他人と心得よ、おのれとおのれが膝を突き合わせて談判に談判を重ねれば、全うに生きる術はおのずと見えてくる」。確かにそう言った。願人坊主(がんにんぼうず)みてえな小癪(こしゃく)なバテレンだった。
 このように怪しげな言葉を事もなげに彼ははくのだ。「おのれ」「全う」という気概はよしとしても、「やさしい」という言いざまは何ということだ。地球なぞというものは未だ有るか無きか分からぬもの。というよりも我がエレキテルのような輝きを地球に見た覚えはない。あれは書物に書かれたもの。この神田の裏長屋で、もし地球というものがあるならば、小さな箱に仕込んでこそ初めてその正体が分かるというものだろう。地球はあくまで平らやも知れず、その果てにある奈落を見たければ古井戸を何代にもわたって掘り続ければ自ら知れることだ。
 ここではたと胸に刺さるものがあるのに気が付いた。「ちきう」という女子のことだ。そうだ、あのおなごのことを言ったに違いない。輪廻転生の前世に「かい」という老婆であったという吉原の「ちきう」は今はいない。「ちきう」という遊女。「かい」という婆。それは私には決して謎ではなかった。「ちきうにやさいく、かいに伝えよう」。実は彼はそう言ったのではなかったか。「そこもとは、もしやバテレンの天の使いなりや」。私がようやく話始めようとするやいなや彼はくるりと身をかわし、白い煙とともに、細く長い梯子(はしご)の段々になって夕闇に消えてしまった。後には天にまで届く程の木製の梯子が柳森の稲荷を越えて天上の雲にまで続いていた。
 両国橋の西詰・東詰は浅草寺奥山と並んで江戸で知らぬ者はない盛り場である。ここに物売りが立っているのを見かけたのは、その夢を忘れかけていた頃であった。
 エレキテルに次ぐであろう、あるアイデアがある。頭の隅に巣食っているのだが、どうも何ともまとまらない。本来俺は蜘蛛の巣を張り合うようなこのじめじめした裏長屋が気に入っている。浮浪の輩の吹き溜まりと人が言おうが、神田もここまでくれば外はうららに小春の日和である。長屋の隣りは今日も願人坊主どもが花札に興じているのだろう、張り付いた破れ傘を無理にこじ開けたような濁声(だみごえ)が番屋を越え、さらに籾倉を越えて神田川にも届いているに違いない。(次号につづく)




中西隆紀  フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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