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KANDAルネッサンス 40号 (1997.01.20) P.10〜12 印刷用
神田仮想現実図書館1

神田川「21世紀吊り橋計画」と「水の回廊公園駅」

中西隆紀

 四国の伊那谷など、古くは蔓(かずら)で編んだ吊り橋が架かっていた。真下の渓谷に清流を望み、風と人の歩みに寄り添うように橋が揺れる。吊り橋は最も古くからの渡川の手だてのひとつであった。
 そんな吊り橋が架かるのは、人里離れた山奥の僻村ばかりとは限らない。現代のハイテク技術が集約された大都会の長大橋にも吊り橋は多く存在する。東京湾のレインボウブリッジ、横浜のベイブリッジなど、今新たな湾岸のスポットとして若者たちの注目を集めている橋のシンボリックな存在の意義は大きい。
 イギリスはテムズ川に架かるアルバート橋、摩天楼を背景にしたニューヨークのブルックリン橋なども、斜めケーブルと主ケーブルが混在した混合形式とはいうものの基本的には吊り橋であり、すでに100年を経て健在である。そして日本が誇るあの美しい瀬戸大橋も吊り橋である。2年程前に、これら日本の長大橋を生み出した技術者集団のひとつである(株)長大の社長宅でお話をお伺いする機会があったが、自らのお仕事に大変な誇りを感じていらっしゃることと、あくまで技術者であろうとする姿勢がとても爽やかで、「橋は夢、橋の背景にはいつも空がある」そんな光景を疑似体験しているようなひとときを過ごさせていただいた。
 
 川に囲まれた神田。正確には運河に囲まれた神田なのだが、殊にお茶の水の渓谷は江戸時代には、美観の行楽地として人々に親しまれていた。
 ここに吊り橋が架かっていたらどうなっていただろうか。そんな思いを抱いたのは、過去と現在の二つの事件がきっかけだった。
 一つは神田川のピストル探索騒動の顛末、もうひとつは明治吊り橋計画である。
 去年の11月の初め、「神田川」の文字が連日新聞紙面に錯綜していた。場所はお茶の水ではなく水道橋なのだが、最初は警視庁のダイバーが刈り出され水面に出没し、後には浚渫船によるヘドロの掻き出しに東京都が乗り出すなど大変な騒ぎに発展していった。警視庁長官狙撃事件にまつわる容疑者である巡査長がピストルをここに捨てたと自供したからだ。
 ちょうど駅前にある水道橋の橋上には、報道各社がカメラを据えてこの作業の様子を見守っていたが、なかなか拳銃は発見されない。ヘドロは川底に1メーター近くも積もり、それを掻き出しては台船上で検索が続く。しかし出てくるのはゴミと捨てられた自転車ばかり。
 ある風が強い日に橋上からこれを見ていた。
 普段はこうして橋の真ん中に長時間立ち止まるということはまずない。すると突然水道橋が揺れた。震度で言えば2か、ことによると3あるかもしれない。犯人は風でもなければ地震でもない。大型トラックが通ったのだ。普段は歩いて通り過ぎるだけだから、そう感じなかったが、新装なったばかりの水道橋の揺れもかなりのものだ。立ち止まっているとそう感じる。
 ここで思ったのは橋に揺れない橋があるのだろうかということと、橋は単に固定された物ではなく常にバランスを取り生きているということだった。
 橋は総て揺れるのだ。山の中の蔓で編んだ吊り橋や公園のエキササイズのブラブラ橋程ではないにしても、現実として総ての橋はたわみやずれを計算に入れて設計されているのだ。お茶の水橋でも聖橋でも同様で、真冬で伸びちぢみする橋桁には、継ぎ目に小さな隙間が設けられている、この「遊び」によって生きている橋に対処しているのだ。

 橋は頑丈であればそれでいいというものではない。それでは「生きている橋」とはどんなものだろうか。
 それを構造的工学的な遊びからだけではなく、人間の生活の場としての遊びという関わり方から見ると、お茶の水橋も聖橋もイメージ的にもう一歩踏み込めばもっと素晴らしい生きた橋になる可能性を秘めている。何といっても立地が素晴らしい。
 とても残念なのだ。この美しい橋上の景観を、立ち止まって共有できる「遊び」としての空間が欲しい。近年実現した、聖橋のライトアップはお茶の水を一変させた。次のターゲットはお茶の水橋である。
 ニューヨークの摩天楼を背景にしてゆるいカーブを描く長大な吊り橋。それがもしお茶の水にあったなら、神田川の景観は一変するだろう。空に突き出た巨大なハープの弦の美しさ。その下のカフェで飲む一杯の熱いコーヒー。「都会に住んでいて良かったなあ」と思えるひとときである。郊外に木立があれば、都会には都会らしい庭があってもいい。そしてそれは洗練されていて美しくなければならない。
「都会に住んでいて良かった」「やはり神田はいい」。そんな思いが基本だ。我々の求めている空間は我々の手で実現させたい。大都会であるニューヨークやロンドンにある安らぎが大東京の神田川にあってもいい。
 そうした動きは今すべて湾岸の新開地に向けられているように見える。都市が拡散するのは植物がテリトリーを広げていくのに似てそれはそれで自然の成り行きであろう。しかし現に生活が進行している都心の中に今「やすらぎの創造」が求められている。
 しかしその空間がないと人は言うだろう。確かにお茶の水の利用土地空間は狭い。だが川の上に希望が広がっている。それが橋だ。出来れば2層の吊り橋に付け替えたい。上は車、下を歩道専用とする。さらにこの歩道は駅へ、そして親水公園への遊歩道へと回り込んでいく。

 平成元年10月、御茶ノ水駅の改造計画案が発表されたのはまだ記憶に新しい。JR東日本による「御茶ノ水駅公開コンペ」が開かれ一旦は優秀作品が決まったのだが、今この計画の実現は宙に浮いたまま頓挫した形になっている。その原因は何だろうか。
 まったく推測の域を出ないが、原因はコンペの設定条件に問題があったと思えるのだ。それは現在の狭いホームと線路を基本的には現状のままとし、その上の駅舎のみのデザインコンペであったという点にある。土台の設定に問題があったのだ。御茶ノ水駅の場合、狭いホームの改良がまず第一に論議されなければならない。ホームを立体的に二層にするなどの具体案があって初めて駅舎のデザインが問われなければならない。
 したがって規模を狭い敷地の駅に限定せず、左右両橋をも包含した計画でなければ実現は難しいと意見が出てきてもいいと思えるのだ。つまり、この地域は出来うれば東京都の計画として、河川両岸にわたる親水公園としてプロジェクト範囲を大きく広げて考えていただければ、都内でも珍しい雄大な「水の回廊」公園駅の実現は難しいことではないような気がするのだ。もっとも素人の戯言と言われればそれまでのことだが、お茶の水の景観には人のイメージを限り無く自由に開放してくれるような魅力があるのだ。その理由を都心には希有の視野の広がりに求めることが出来る。
 ここに立つと都会の空はこんなに広かったのかと思う。魅力があるのに水辺は遠い。なぜ遠いのか。一企業の後楽園には、ワルツのリズムに乗って舞い踊る水の噴水など遊びの工夫が詰まっているのに対して、公的なこんな雄大な空間には、道路の延長としての橋と、柵に隔たれた水辺を遠望できるごく普通の歩道があるだけだ。

 橋は決して道路の延長ではない。都市の構造物の中では特別シンボリックな存在なのだ。例えば、町中で交差点の角地にあるビルを想像してほしい。彼あるいは彼女は常に「見られている」存在なのだ。通りを歩いてきて交差点にさしかかると急に視界が広がる。橋も同様である。いや、むしろ橋のほうが視界の広がりは大きい。橋は常に見られている。ゆえに美しくなければならない。町全体の人々が様々な角度からこの橋を見つめ、この橋とともに歳をとっていく。それは必ずしも都会だけ、日本だけではなく、あのベストセラー『マジソン郡の橋』だって同じことだ。屋根の付いた特殊な造りのマジソン郡の橋は、近くで農作業をしている人達の雨の避難場所ともなれば、逢引の場所ともなった。
 東京人は都会生活をエンジョイすることを忘れてしまったのだろうか。いや、そうではない。隅田川や湾岸地帯には近年水辺空間が美しく整備されつつある。最後に残ったのがここお茶の水なのだ。JR駅の改造は急務である。しかしながら、あと一歩踏み出して、ここに美しい一大プロジェクトを展開してほしいと思う。
 水辺には「水の回廊」と水上レストラン、浮島の喫茶店などもいいだろう。斜面を利用した人工の滝、子供用の小さなスライダーと遊歩道、頭上を仰げば何本ものワイヤーをハープのように組み込んだ吊り橋が架かる。お茶の水橋の架け替えが不可能ならば、歩道専用の吊り橋だけでもいいだろう。都心であるからこそ実現してほしいのだ。「都心の中の吊り橋」そして渓谷。ここに魅力のポイントがある。

 今から100年以上も前、つまりこの渓谷にお茶の水橋もなければ聖橋もなかった時代にここに吊り橋を架ける計画があった。もちろん実現しなかったから史実に残っていない。残っているのは皇居の塀の中の出来事である。
『日本の橋』(朝倉書店)によると、まず皇居内に日本最初の鉄製吊り橋が架けられた。「明治3年、皇居内の山里のお庭(現在の吹上御苑内)に、イギリス人ウォートルスによって、橋長73mの日本最初の鉄製吊橋が架けられた。この「山里の吊橋」は側径間はなく、両岸に石とレンガでつくられたがっしりした塔をもっている。主ケーブルは練鉄製のワイヤを平行に束ねたものである。これは当時、世界的にみても新しい工法に属するものであり、支間長としても、明治初期における最大の規模のものであった」という。これをある時、一般公開したところ人が殺到し事故が起こった。「できた吊橋も、人が歩くと、かなりの動揺が認められた」とあるから、やまの吊り橋程ではないにしても、強度に問題があったと推測される。結局、明治14年新宮殿造営を機に撤去され、明治17年解体された橋体は本郷と駿河台間に再使用するという計画で民間に払い下げられたというのだ。しかし神田川にそんな吊り橋が架かったという記録はなく、その後どうなったか不明である。
 お茶の水に架けるには強度に問題があった。それがたぶん当時の結論であったのだろう。現代の長大橋の技術海峡を跨いでその間を大型船が行き交う程である。
 お茶の水の渓谷。ここに長さではなく、たっぷりと余裕をもった美橋を都会のシンボルとして打ち立ててほしい。お茶の水に吊り橋の「水の回廊公園」駅を。21世紀の都会の新しい姿である。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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