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神田資料室

KANDAルネッサンス 39号 (1996.10.20) P.10〜12 印刷用
神田貼雑独案内24

弦楽「ハリネズミ」追跡譚

中西隆紀

 神田祭の季節になると、お囃子の太鼓と笛の音が風に乗って聞こえてくるのはいつ聞いてもいいものだ。ところが、その方向が判らない。ビルの屋上で耳を澄ませても谷間の迷路は音を拡散するらしく、大気を箒で掃いたように表情が無い。いったい何処で笛を吹いているのか、斜め右にも思えるし左のような気もする。ビルの壁でUターンしてまったく違う方向から聞こえることもある。しかしこれも、風やビルと鬼ごっこしているようなもので、その音がニコライの鐘や裏町の三味線のように心地よい響きであれば、音の在り処が判然としないことはかえって天上の音楽に聞こえることがある。そして数少ない都会の謎がひとつ増えたような気にもなる。
 神田は低地にあるから余程の異変が無いかぎり霧にまかれるということはまずないが、山で一寸先も見えぬ霧に襲われると音だけが頼りとなる。「お〜い」と呼びかけて、今しがたそこにいた仲間がとても意地の悪い奴で、わざと返事をしなかったとする。世界が突如白いキャンバスとなり一人残された彼は、一瞬パニックに陥るに違いない。それが何度呼びかけても返事がない場合、場所の移動は大変危険だから、彼は冷静に霧が引くのを待つか、超自然の神の俄か信者となるしか魂の平安を得る方法はないだろう。
 神田明神の守護神である平将門遷座も、漆黒を想定した闇の中で行われた。大手町の霊所から4人が捧げ持つ白い布に四囲を護られて、行列は夜の神田明神を一巡してしずしずと祭陣へ吸い込まれるように消えていった。その間、商店も街灯も総てのあかりが消されたばかりか、しわぶき一つ聞こえぬ無音の世界を現出せしめたのは、目の前の現実でありながら、幻を見るおもいとはこのことかと思わせた。この時もし、空に月も消え、あらゆる星が将門の命により宇宙のかなたへ去っていったとすれば、本当に漆黒の闇が出現していたに違いない。

 昔、神保町の路地裏に事務所があった頃、ここで夜を明かしたことがある。理由は仕事というよりも、アルコールだけが誰よりも私に同情を示してくれたことにあるのだが、それ以上に快適であったのは戦禍をくぐり抜けてきた老残の強者(つわもの)である建物の窓からの隙間風であった。床はぎしぎしと鳴りかなりの傾きを維持し続けていたし、置いただけでビーダマはころころと転がっていくのであった。眼を合わせたことは一度もないが親しい友は鼠だけというこんな事務所が、気密性の高いビルのオフィスと決定的に異なるのは外部の音がよく聞こえるということであった。昼間なら「○○さあ〜ん」と下から呼んでくれれば聞こえるし、「ああ誰かが打ち水をしてくれているな」なんてことも判る。ただ冬はペンギンと宴会をやりたい程寒いし夏はトタン屋根の上の猫みたいなものだから、何を言っても負け惜しみに聞こえる。それを紛らせてくれるのが、階下から聴こえてくる「ミロンガ」のタンゴの調べであった。だからBGMがいらない。床全体がスピーカー・ボードなんだから裸足で海辺の波と戯れるがごとく、低音を足の裏で受けとめるという快楽も体験できるんだぜ、なんてうそぶいていた。
 そんな昼間の喧噪の潮が引き酔客も去って、神田という都心中の都心に夜の静寂(しじま)が訪れる頃、次に訪れるのが猫の時間だ。どこからか仲間を呼ぶ声が聞こえる。その声も静まり星に瞬く音が無いとすれば、あとは静寂と眠りあるのみと思っていた。しかし都会の事情はそれを許さなかった。
 田舎には田舎の、住宅地には住宅地の、そして都会には都会の妖怪が住んでいるのだろうか。声がするのだ。それは呻(うめ)くように、訴えかけるように叫んでいた。遠くから近づいてきて風とともに大きく旋回しているようだ。
総勢四・五十人の僧侶が一斉に読経を上げているようにも聞こえる。「うー、う・おーうお」というまさに人の声がこちらに向かって押し寄せてくる。何ともいえぬ無気味な声だ。天地に異変があったのだろうか。
 恐る恐る窓を開けてみた。しかし敵は見えない。北か南か方角が皆目検討が付かない音というのは、天から降って来たように聞こえる。読経の靄(かすみ)に全体が覆われていて、北の護りの神田明神も逃げ出したものだろうか。
 明くる朝になってもその正体はわからなかった。深夜に僧侶のデモ行進があったという話も聞かないし、空襲警報という時代でもない。でもまさにそんな声だ。ある人に聞いたところによると、何のことはない、高速などを走る車の音が錯綜してそんな音になるのだという。それが怨念を持った人の呻きに聞こえたのは僕自身の精神状態に問題があるからで、決して都会やお前自身の貧しさとは関係は無いとその人間は俺に言うのであった。都会にはやはり防音サッシが似合うのだ。
 
 同じ三省堂の路地に酒場「兵六(ひょうろく)」がある。夏にここには冷房がない。だから隙間風ぐらいじゃ足りなくてジャグジーというシャッターを全開にする。したがって外の音がよく聞こえるはずだが、実際は壊れた目覚まし時計が一斉に鳴り出したようにけたたましい酔客の声で、むしろ道行く人には野外で毎日花見の宴を開帳しているように聞こえるに違いない。僕もその酔客のひとりなのだが、昔はここ程静かな酒場はなかったように思う。昔は、示現流の達人だが決してそれを自称することのなかったオヤジさんが、剣の先にトンボを止まらせたまま商いをしているようなもので、僕らはこの目に見えぬトンボを眺めながらちびりちびりと酒をやっていたものだ。満席なのにトンボが飛べばその羽音が聞こえるような一時があり、再び程良い座談が盛り上がる、そんな危ういバランスを保っていたのはひとえにこのオヤジさんの臍力(りょりょく)と言い切っていいようなカリスマ性を持った魅力ある人であった。
 ある時、足腰が不自由だった茶房「きゃんどる」のオヤジさんが「兵六へ連れていってくれ」という。久し振りにあのオヤジの顔が見たいというのだ。若い人の足なら1分程のお隣さんへ、右手にステッキ、左手は私の肩を頼りに10分かけて辿り着いたことがあった。
 神田でいちばん古い喫茶店といってもいい「きゃんどる」だが、こうした店の例にもれずここも冷房も無ければBGMも無い。夏には風船かずらが実をつけ秋になると鈴虫が鳴く。今はお母さんひとりで店を切り盛りしているので、夕方の5時間しか店を開けていないが、ここで恒例になっている特別な日というのがある。店名になぞらえて、クリスマスにだけ電気を消して総ての燭台に蝋燭を灯すのだ。これだけでも充分特別だから、他に何もいらないと誰もが考えていた。僕もそう思っていた。「兵六」や「きゃんどる」のような小さな空間に音はいらない。時計の音か鈴虫の声で充分だ。誰もがそう思っていた。
 しかしある時、兵六に客で来ていたソプラノ歌手に皆がアリアを一曲所望したことがあった。美しい声は狭い空間に満ちあふれ、堅牢愚直な我々酔っぱらいは子羊のように聴き惚れた。もっともコンサートホールに変身したのはこのほんのひとときで、その後一瞬にして酒杯飛びテーブルが鳴る常態に復帰したのは言うまでもない。これがもし楚々とした「きゃんどる」なら建物は、1人の歌手によって炸裂弾のように分解していたであろう。それ程その声は大きかったのである。
 
 昔、ヨーロッパの貴族はサロンで室内楽を楽しんだという。神田には「カザルスホール」という立派な室内楽専用ホールがある。しかしホールはホール、もっと身近に極小の空間で小さな音を楽しむことができたらすばらしいだろう。構えた空間ではなく、急に歌いたくなったから歌うというような、それが本来のポエムの有り方ではなかったか。こんなことを考えているうちに「きゃんどる」という極小空間にぴったりなハリネズミ楽器の音を以前上野の公園で聴いたのを思い出した。
 それは実に不思議な音であった。女の子の襟の、白いレース模様をガラスの棒で弾いたような繊細可憐な音で、その名を「ハンマー・ダルシマー」という。
 小さなハープを横に寝かせて、その弦を2本のばちでたたく。そんな形のプリミティブな楽器で、ぽろぽろと音がこぼれ落ちる程の音量しか生産することができない。形はまるでハリネズミ。最初にこの楽器に出会ったのは上野の路上で、バッハの有名な「心と口と行いをもって」をその小柄な外人は弾いていた。この曲がまた、この楽器に実に合うのだ。
 何とか「きゃんどる」で演奏してもらえないだろうか。咄嗟にそう思い切りだしたのだが、15人程しか入らぬ喫茶店ではと、なかなか計算高い。路上パフォーマンスのほうがずっと効率がいいということなのだろう。訊いてみれば彼はアメリカのチャンピオンであり、「たまたま今は、投げ銭で糊口をしのぐしかない芸人であるとはいうものの…」という誇りが邪魔したのに違いない。
 最近は日本でも路上の芸人をたまに見かける。だが昔から比べれば治安が良くなった分、路上空間の自由は肩身の狭いものになってしまっている。勿論規制は昔も今もある。暴動が発生するのは路上か公園に集まった群集と相場が決まっているから、官憲がこれに目を光らせるのは鼠と猫みたいなもので、このバトルは尽きる事がない。しかしながら、TVやラジオという密室からの情報を電波で受け止めることに慣らされてしまった我々にとって、最も新鮮なのが青空の下で繰り広げられるドラマであるし、それ以上に、路上で歌わずにいられない欲求は、やはり路上で解決させるしかないと思うのだ。自由民権運動華やかなりし頃には、神田には多くの演歌師が活躍していたと思われる。「権利幸福きらいな人に、自由湯をば飲ませたい。おっぺけ、ぺっぽー、ぺっぽーぽー」なんて路上でやっていた。大正から昭和の初期頃まではまだ、すずらん通りの冨山房の前でバイオリンを弾きながら演歌師が怪しげな本を売っていたといわれるし、歌や音楽はもっともっと町中に浸透してもいいと思う。それには近くに行かないと聞こえない位のか細い楽器が一番相応しいと思えるのだが。
 大正15年、宮沢賢治は上京し神田「上州屋」に宿をとり、チェロを習いに通ったりしている。亡くなる1年前にも40キロものトランクをかかえて再上京し、同じく神田に宿をとり駿河台の「八幡館」で熱にうなされて思わず遺書を書いたりもした。その位置は今の「カザルスホール」のちょうど舞台下にあたる。当時の地図に八幡館を発見しこの位置を割り出したのでまず間違いはない。せりの舞台でいえば奈落に当たるこの場所に、チェロの巨匠カザルスと「風の又三郎」を重ねて、その見えざる因縁を想像してしまったが、単なる偶然と片づける人がいてもこれはこれで致し方ない。空想の羽をもぎ取る作業も、それ以上の何かを生み出すのであれば価値としなければならないからだ。
 
 上手い下手は別にして、音楽好きな人は一度は楽器を手にしたくなる。あの不思議な楽器にもう一度会いたい。日本ではほとんど見かけない種類だが外国にはよくあるのだろうか。最近はリュウトなど中世の古楽器が小さなブームを呼んでいる。専門店へ行くと実物はなかったがカタログに出ていた。さらにが楽器事典を調べていくうちに、この楽器はペルシャでは「サントゥール」と呼ばれ、世界各国に分布し、現在楽器の帝王ともいうべきピアノの元祖ということも判った。中近東や中国では民族楽器として、そしてアメリカではカントリーの伴奏楽器として古くから知られているという。その楽器がなんと神田にあった。これはまったく偶然といっていい。あの「ハンマー・ダルシマー」にやっとめぐりあうことができたのだ。小川町の靖国通り沿い、ショーウインドーの奥の最下段に「歌を忘れたハリネズミ」みたいにうずくまってブツブツ独り言を繰り返していた。「俺は古楽器といえども帝王の元祖なんだぜ。この単純な響きの中にこそ」○○が詰まっているんだと畳かけようとして、再び言葉を失ってまた黙り込んでしまった。
 これはなかなかの高級品だった。カントリーのミュージシャン向けに「カワセ楽器」が輸入したのはなかなか先見の明があるといいたいところだが、貧乏人が金も持たずして何のラブコールか。「坊やはお金持ってるかい」などと言われたてポケットに手を突っ込んだ昔と何も変わっていない自分を発見しただけであった。そんな頃、酒場「兵六」にボブとトムというアメリカ人青年が現れた。この頃にはオヤジさんはすでに他界していたが、替わって、息子さんが薩摩あげのかわりにソーセージなんかを焼いて、客よりもいささか多めの杯を実に美味そうにあけていた。会話の追い掛けっこの大好きな僕たちはボブ・トムをアメリカンコミックスの「トム&ジェリー」になぞらえてふざけまくっていたが、ボブはその後大学講師に、そして日本語の上手いトムはシカゴへ帰っていった。
 ボブにこの楽器の話をすると案の定、トムより少し幼い日本語で「よく知っています」という。トムに連絡を取ってみてはどうかという話になり、番号を聞いて早速早朝のシカゴに電話した。そして2・3度連絡を繰り返すうちに安い練習用の楽器があり、足台付きで6万くらいでOKということが判明した。現金を送って、とうとう現物を手に入れたこの時が僕の個人輸入の初めである。
 船便だからかなりの日にちが掛かった。ある日突然宅急便で玄関にその荷物が届いた時は「少年画報」の懸賞に的付きのピストルが当たった時のように、他の総てのことを一瞬にして忘れてしまった。発泡スチロールにくるまれたその中身を早く鳴らしてみたい。ハリネズミがチュウと鳴く、丸い目があるならその表情を見てみたい。開けると、ケースが柔なビニールであったため駒が外れたりしていて手間取ってしまったが、その可愛らしい音は我が四畳半に何ともすんなりと鳴り響いたのだった。
「きゃんどる」のクリスマスの日が近づいていた。今年はこの楽器を持参して「きゃんどる」でバッハを鳴らしてみたいなどと大きなことを言った手前、さわりの旋律だけでもいいから、あのバッハの天上の音楽をマスターしなければならない。ところがこのハリネズミも、付け焼刃ではなかなか美しく鳴いてくれないどころか、手が動かないのだ。
 弦をとめるピンが左右に69個も付いているからハリネズミなのだが、心理学の用語に「ハリネズミのジレンマ」というのが確かあったと思う。ハリネズミとハリネズミが、寒いから抱き合って温め合おうとしても、お互いの針が邪魔して温め合うことができない。要するに針を畳んでしまえばいいのだが、楽器にはピンがあり、俺にはひん曲がった自我があるという訳で、ミニ・コンサートは中止、煖炉とキャンドルの横で、ハリネズミに触ってみる会が行われたのであった。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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